カン、カン、カン……ヒールがコンクリートを叩く高い音が、夜の歩道橋に響く。
カン! とひときわ高い音と共に、あっ、と小さな声が漏れる。
「やだ、ヒール折れちゃった……」
乱菊は大きく前につんのめったが、転びそうになったところで踏みとどまり、背後を振り返った。
10センチはあるピンヒールの、右のヒールの部分だけが、階段の数段下に転がっている。
一歩、二歩と歩いて見たものの、両足で十センチも身長が違えばまともに歩けるはずがない。

ふと、オフィスビルの下にあるブランドショップでこの靴を買った時のことを思い出していた。
待ちに待った、給料日で。ショーウィンドウから毎日覗いていたこの靴をやっと買えた時は、得意満面で。
そりゃ、仕事は嫌なこともあるけれど。こうやってちょっといいもの買って、おいしいもの食べれば忘れてしまう。
それに何よりも家に帰ったら、大切な人が、あたしを――

ガキッ、と鈍い音が響く。
乱菊は、残っていた左足のヒールを、階段の角で叩き折っていた。
―― バカ。バカよ。
全てを忘れ去って、人間として、のうのうと生きていた。
いつまでもこの幸せが続くと、毎日の上に胡坐を掻いてタバコを吸ってたの。こんな日が来るとは、思いもせずに。

The End。
安っぽいテレビ画面の右下に、小さく文字が出て、それでストーリーはお仕舞い。
そんな風に、終わってしまう、あたしの日常。
歯を食いしばって、平らになった靴底でしっかりとコンクリートを捉え、走る。



15分前。目が覚めた乱菊がまっさきに探したのは、見慣れた恋人の顔。でもそこにはもう、誰もいなかった。
浦原だけが、薄暗い部屋の中で乱菊が目覚めるのをじっと、待っていた。
そして、まるで乱菊の思いを読んだかのように、目が合うなり言った。
「日番谷サンは先に家に戻られましたよ。貴女には、一晩ここで体を休めるようにと言っておられました」
その瞬間。フラッシュバックしたのは、彼の銀髪、揺れる肩、向けられる背中。
行ってしまう、と思った。あたしの冬獅郎が、いなくなってしまう。
「なんで起こさなかったのよ!」
八つ当たりと知りながら怒鳴り、布団を蹴飛ばして起き上がった。
そんな乱菊を静かに見上げた浦原の視線が、やたらと乱菊を焦らせた。


死神としての、上司と部下。
恋人としての、男と女。
この二つが、並び立ちようがないのは一目瞭然だった。
瀞霊廷内では、死神同士の恋愛は、よほどのことがないかぎり禁止されている。
死神がその職に在る時、私情を持ち込んではならない、とされているからだ。
今となってはそんな規則に意味はないだろう。しかし、冬獅郎は規則を破ることはしない。
なぜなら乱菊の知る「日番谷冬獅郎」は、そういう男だからだ。
不器用で、律儀で、無骨で……そんなところに、惚れたのだ。

息が上がる。喉の奥が痛くなる。あたしはどうして走ってるのか、分からなくなる。
彼が行くというなら、止めることはできない。
恋人だろうが部下だろうが、たとえ他の誰だろうが、彼を振り向かせることはできないだろう。
それでも、最後に「日番谷隊長」とではなく、ただの「冬獅郎」と言葉を交わしておきたかった。
それは、彼が家を出てしまう前、今でなければならないのだ。



―― 「菊は、冬には咲かない。だろ?」
初めて出会った時、そう言われたのだった。
好き、と。初対面にして一目ぼれした乱菊が、冬獅郎に言った時の返事がそれだった。
遠まわしに断られているのだと、気づいてもまったく落ち込むことはなかった。
―― 「咲くわよ!」
そう言い返してやっても、冬獅郎は涼しげな眼をして黙っている。まだ子供だったのに、そう思えないほど大人びて聡明な―― 
いや、今考えればあれは、寂しい眼だった。見ていてなんだか、胸に風が吹くような気がした。
―― 「うそだ」
―― 「可愛がってくれれば、咲くわよ」
挑発的に眼を覗き込んで、そう言ってやった。

菊は冬には咲かない。互いの性質の違いを端的に言い表した言葉だと、今になると思う。
冬獅郎と自分は、明らかにその性質において違っていた。
いつも理性的で、無口で、たまに口を開けばどこまでも、まっすぐなことしか言わない冬獅郎と。
喜怒哀楽が激しくて、享楽的で、ルールから外れようが一向気にしない乱菊と。
違うのだと思えば思うほどムキになって、彼の中に根を張ろうとしていたのは否めない。
いまや、自分から引き離すことなんてどうやったらできるのか、見当もつかないくらいだ。


死神にとって五年など、瞬く間に行き過ぎる期間にすぎない。
記憶を奪われたとしても、隊長と副隊長だったときの絆が、現世でも二人を結びつけたのだろうか?
乱菊はマンションの入り口に飛び込み、エレベーターのボタンを押す。
なかなか来ないエレベーターに苛立ち、傍の階段に飛び込んだ。
「違う、な」
駆けながら、乱菊はつぶやく。
今やはっきり思い出せる、死神だった頃の自分が「日番谷隊長」に感じていた気持ち。
尊敬していたし、絶対にこの人だけは失いたくないと心から思っていた。
でも、今の自分が「冬獅郎」に対して感じている気持ちとは全くの別物だ。

「日番谷冬獅郎」に出会って、焦がれて、一緒に暮らしたのはこの「あたし」だ。
死神の、松本乱菊なんかじゃない。
―― あなたは今、何を思うの……?
バン、とマンションのドアを開ける。そして……その場に、固まった。



ドアは、いつの間にか自らの重みで閉まっていた。ガチャリ、と硬質な音が響く。
乱菊は、ふらりと後ろによろめくと、背中をドアにもたせ掛けた。
そして、目の前に広がる真っ暗な部屋を、黙って見つめていた。
その横顔に浮かんでいたのは、冬獅郎に見せたことは一度もない、孤独な無表情だった。
「……分かってた。分かってたわ。……大丈夫」
自分に言い聞かせるように、なんどかそう呟く。そして、パチッと電気をつけ、靴を脱ぎ捨てた。
ヒールをもぎ取られた靴底が白々と照らし出され、まるで夢から醒めたような気分だった。

部屋を見渡しても、一見何も変わっていないように見えた。
しかし、二人の鍵が置かれていた小物入れには、冬獅郎の鍵が置かれたまま。ということは、一度は戻ってきたのだ。
椅子にかけられていたはずの、冬獅郎のジャケットがない。靴も一足だけ、足りない。
何にも執着しなかった、彼らしい「さよなら」だ、と乱菊は思う。
彼が去るところなど考えたこともなかったのに、目の前で起こってみれば、ずっと前から想像していたような気になるから不思議だ。

この後、まだ夜は冷え込む日もあるのに、どこへ行ったのだろう。
一角か弓親のところか。浦原商店に戻ったのかもしれない。
ただ確実なのは、冬獅郎が二度と、此処にだけは戻ってこない、ということだった。
―― 霊圧も感じないか……
追ってさえこさせない。
断固とした決意を、突きつけられた気分だった。


「やっぱり、聞けばよかったわ」
ふらり、とリビングに足を踏み入れ、乱菊は力なく呟いた。
「愛してる」という言葉を。
「乱菊」と名前を呼ばれるところを。
わがままと言われても、子供っぽくてもかまわない。
あの時にそう願ったのなら、心のままにねだればよかったんだ。
……でも、もう遅い。

「……日番谷隊長」
眼を閉じて、そう呟く。もう一度、自分に言い聞かせるように。
彼の傍にこれからもいたいのなら、二度と「冬獅郎」と呼んではならないのだ。
しかし、不思議なくらいその呼び方は、何度繰り返しても舌に馴染んでこなかった。
五年以前は、毎日何度となく口にした呼び名だったはずなのに。


「……なに?」
部屋の中を一瞥した乱菊は、ひとつだけ今朝は部屋になかったものを見つけ、眉間にシワを寄せた。
「これ……」
テーブルの上に無造作に置かれた、小さな紙袋。
それを見ただけで、トクン、と心臓が一度、はねた。
そのサイズを見れば、中に何が入っているかは、想像がついたからだ。
テーブルの前に座り、その紙袋の中身に、そっと手を伸ばす。
そこから出てきたのは、リボンのひとつもかけられていないが、5センチ四方くらいの、小さな箱だった。

「ジュエリーショップなんて、絶対イヤがるタイプなのに……」
乱菊はほろ苦く微笑んだ。
包装はいりません、とかたくなに拒絶した姿が目に見えるようだった。
きっとこれは、自分と仲直りするために、冬獅郎が買ったものだろう。
おそらく何事も無ければ、冬獅郎と自分は、どこかでディナーを愉しみ、そしておもむろに、これが渡されたのだろう。
どこかで道を間違えてしまった未来に想いを馳せるように、乱菊はしばらく箱を見下ろしたままでいた。

少し迷ったが、その箱をスッと開ける。
「……ラピスラズリ」
それは、小さなラピスラズリの石をアクセントにした、華奢なつくりのネックレスだった。
その蒼い輝きは、どこか乱菊の瞳の色にも似て。
蛍光灯の燈のなかでも、深く澄んだ輝きを放っていた。
箱の中にあった説明書に、乱菊は視線を落とす。
そこには、ラピスラズリの意味として、こう書かれていた。

「永遠の誓い」

―― ダメだ。
一瞬の空白のあと、乱菊は自分に言い聞かせた。
明日からは、自分は副隊長に戻るのだ。
そして彼の背中を護る。
そうでなくては、ならないのだ。
ゆっくりとネックレスを箱の中に戻し、そっと蓋を閉める。
「……っ」
涙が一しずく、箱に落ちそうになったのを見て、乱菊は箱を遠ざけた。

「冬獅郎……」
ダメだ。
もう一度そう思った。
どこまで。どこまで、強くなければならないのだろう。
あたしはこの気持ちに、嘘を突き通せる自信さえ無いのに。
そんなに、強くない。
乱菊はテーブルに突っ伏し……子供のようにしゃくりあげた。


***


嗚咽がひそやかに、部屋の中からベランダにも流れてくる。
日番谷冬獅郎は、ベランダのガラス戸にもたれ、夜空を見上げていた。
カーテンの向こうで、全身で自分を求めるひとの、気配を感じていた。

―― 俺にとって他人は、モニターに映っては通り過ぎる、風景と同じだったんだ。
目に見えるし、近づけるけど、決して触れることは無い。
ましてや、モニターの向こうの相手に何かを求めるなんて……夢にも考えたりは、しない。
それは、ほんの数時間前、自分で自分に言い聞かせていたことだ。
これまで、そうやって生きてきた。

「それでも」

冬獅郎はその時、頼りなげな視線を夜空へと向けた。
「それでも、俺は……」

お前のためなら、モニターの中の風景に手を指し伸ばす勇気を持っても良かった。
そしてお前なら、モニターの中からただ一人俺に気づき、手を取ってくれると信じていたんだ。

選べなかった未来の片割れが、ガラス戸の向こうで泣いている。
月光を受け、いよいよ白い頬を、一筋の涙が零れ落ちた。





ROOTS  第一部 完


last update:2010年 9月28日