生あたたかい風が吹いていた。
実弥と鬼がたどった足跡を追うのは難しいことではなかった。
あちらこちらで血痕や、戦った痕跡が残っていて、どちらへ向ったのかは夜目にも明らかだったからだ。
塵のように斬り捨てられた鬼たちの残骸が、あちらこちらに残っている。それを目の当たりにして、カナエは眉を顰めた。
鬼は、もともとは人間である。それなのに。ここまで徹底的に殺せるものだろうか。
闇の中で稲妻のように炎が光る。はっ、としてカナエはそちらへ急いだ。
たどり着いたのは、桜の大樹の下だった。その桜は満開で、花の房が垂れ下がっている。途切れなく光る炎に照り映えて、夢の中のように美しい。ただし、それは悪夢だった。
炎の下に、カナエは男の横顔が映し出されるのを見た。その銀色に輝く髪も、顔も、身体も、血しぶきで赤く濡れていた。
「稀血をよこせ!」
飛びかかってきた鬼の前に、仁王立ちのまま刀を振り下ろした。悲鳴と共に血しぶきが上がり、頚のない鬼の体が倒れ付す。
実弥は抜き身の刀を肩に担ぎ、拳を口元に当ててぐいと血をぬぐった。対峙する下弦の弐を見る目には一分の隙もない。
「この、化物……」
下弦の弐は、明らかに怯えていた。身につけていた服は血まみれであちこち破け、頚は避けているものの何度も攻撃を受けているのが見受けられた。
「来るな!」
叫ぶと同時に、3メートルはある巨大な炎の球体が現れた。刹那の間に、実弥に迫る。
―― あぶない!
カナエは言葉を飲み込んだ。実弥が全く躊躇うことなく、炎の中に突っ込んだからだ。
「!」
下弦の弐が声にならない悲鳴をあげた。炎を突き破って現れた実弥は、大きく刀を振りかぶっている。鬼は地面に転がってその攻撃を避けたが、かわしきれず腕が吹き飛ばされる。
その時、下弦の弐の必死の目が、カナエをとらえた。
カナエはその時、どんな目をしていたのか自分でも分からない。しかし下弦の弐は、すがるような目でカナエを見返してきた。
「たすけて……」
カナエに手を差し伸ばした姿が、人間の子供の姿と重なる。少なくともその目は、ただの子供に見えた。
カナエは、とっさに鬼に駆け寄った。手を伸ばした次の瞬間、横薙ぎの一撃が無慈悲に鬼の頚を断った。
「あ……」
自分に何が起こったのか分かっていなかったのだろう。恐怖を顔に貼り付けたまま、下弦の弐の頚が地面に落ちた。
どう、と倒れた鬼の身体の背後から、抜き身の刀をぶらりと下げた実弥が現れた。下弦の弐が味わった殺気を、カナエも全身に受けた。
氷水を全身に被ったように、ぞっとした。鬼神のようだ、と思った。
「どうして、ここまで……」
「ここまでやるか、だと? それなら聞くが、どうしてお前はここまでやらない?」
問いかけた言葉に対し落ちてきたのは、激しい怒りの篭った言葉だった。
「俺からその鬼を守れたとして、その鬼が人間を殺したら? お前に責任が取れるのか」
取れない。失った命は戻らないのだから。カナエは言い返せず、唇を噛み締めた。
「柱なら、甘っちょろい考えは捨てろ」
一振りの磨き上げられた刃のような男だ、と思った。
そこには何の私情も雑念も挟まない。部下たちが言っていたように、斬ると決めたら斬る。
鬼殺隊という名前の刀そのものだった。
まだ柱になって間もない風柱に重要地点の藤の里を任せることには当初柱たちからも異論が挙がっていたが、
産屋敷と悲鳴嶼が押し切った理由が腑に落ちた。
実弥はそのまま背中を向けた。カナエはそのその腕を後ろから掴んだ。濃厚な血の匂いがした。
「放せ」
振り返ることなく実弥は言った。
「いいえ。あなたは治療が必要です」
自分でつけた腕の斬り傷の他にも、火傷の跡があった。重傷ではないが軽傷とも言えない。
「必要ねぇ。邪魔するな」
「私はあなたの邪魔はしないわ。もう敵もいないのよ、不死川君」
「……」
凄まじい目で睨みつけられて、はっとした。
この目を自分は最近、どこかで見た。敵は自分の中にいると、自分自身を憎んでいる者の目だった。
「それが邪魔だと言ってる。邪魔をする奴は皆敵だ」
「じゃあ私を斬りますか?」
「あァ?」
さすがに意外な一言だったのだろう。実弥の声音がわずかに変わった。カナエは一歩踏み出した。
「斬ってもいいわよ。それで気が済むのなら。その後蝶屋敷に来てください」
この間違いなく自分よりも強い男を、なぜか一人にはしておけないと思った。
二人の間に沈黙が落ちた、その時だった。
「鬼は殲滅したのか。不死川、胡蝶、ご苦労だったな」
急に声をかけられ、カナエはびくりと肩を跳ね上げた。慌てて振り返ると、暗がりから、ぬうっと悲鳴嶼の姿が現れた。一体いつ現れたのか、全く気配に気づかなかった。
「……悲鳴嶼さん」
実弥の声音は、目上の者にかけるものに変わっていた。しかし、触れれば切れるような気配は同じままだ。
悲鳴嶼は、実弥の腕の斬り傷にちらりと視線を走らせた。
「……稀血はできるだけ使うなと言ったはずだ。鬼の間に知れ渡れば、お前のためにはならない」
ハッ、とそれを聞いた実弥が嘲笑った。
「何を今更。やり方を変える気はねぇよ」
「胡蝶を威嚇するのも止めろ」
「威嚇したつもりもねぇ」
ため息を漏らし、実弥は刀を鞘に納めた。
「何しに来た? あんたはお館様についてなきゃいけねぇ筈」
「そのお館様から伝言だ。怪我の治療後、胡蝶と不死川は直接お館様に報告すること。既に夜半だ、明朝で構わん」
鎹烏に伝言させればいいはずのところを、わざわざ悲鳴嶼が来たのは、稀血を使って戦うのを嗜めるためか。
「はい、分かりました」
「分かった」
二人の声が重なった。カナエは実弥を見上げた。
「では行きましょう」
「あ? どこに」
「蝶屋敷に。怪我の治療後、とお館様は仰ったのでしょう。あなたは今分かったと言いましたよね」
実弥が押し黙り、悲鳴嶼は現れてから初めて少し頬を緩めた。
「不死川に脅される性格ではなかったな、胡蝶。後は任せたぞ」
「はい」
背後で、実弥が長いため息をつくのが分かった。
***
蝶屋敷で、血塗れの身体をざっと水で流し、風の隊員たちが急いで調達してきた新しい隊服の袖を通して、実弥は診察室へとやってきた。
まるで鬼が来るのを待ち構えるようなしのぶに苦笑しつつ、カナエは笑顔で受け入れた。
しのぶ、カナエと向かい合って座り上半身の服を脱いだ時、二人とも驚いた。
ひとつには、その体格。大柄な身体は鋼のような筋肉で覆われており、かつ豹のようにしなやかな体つきをしていた。
更に驚いたのが、その腕や胸、腹にかけて縦横無尽にはしる傷。傷が多いのは知っていたが、これほどまでとは思っていなかった。ただ、背中には全く傷がなかった。
自分を躊躇いなく傷つける上、敵からの負傷を厭わない戦い方の結果なのは、先ほどの戦いを見てよく分かっていた。
相手が柱だろうが、一言言ってやりたそうな顔をしていたしのぶも、度肝を抜かれたのか何も言わなかった。
顔と両腕に火傷を負っていたが、一番ひどいのは明らかに自分で斬った腕の傷だった。診ます、と短く言って、実弥の左腕を取った。
「ひどい……縫合しないと。よく自分の腕をこんな風に斬れますね」
カナエが見ても、かなり深い傷だと分かる。よくもこの腕で戦っていたものだ。
しのぶが麻酔薬を取り出そうとすると、実弥はいらない、と手を横に払った。
「これだから蝶屋敷は嫌なんだ。いつ鬼が出るか知れねぇのに、麻酔なんか使えるか。腕が使いもんにならなくなるだろうが」
しのぶは、そう次々と鬼は出ませんって、と言いたそうな顔をしている。
でも事実ではある、とカナエは思った。いつでも鬼が出る可能性はある。ただ普通の人間は、そこまで常に最悪を想定してはいない。
それに、その時は周囲の助けを借りる、という発想が抜け落ちている。これまでこの男がたどってきた道を思った。
「でも……物凄く痛みますよ」
「いつもは自分で縫ってる」
「……分かりましたよ」
医療の経験が長いしのぶでも、麻酔なしで縫合するのは初めてのことだった。
淡々と手を進めるしのぶの額に汗が浮かんでいる。一方の実弥は、全く痛みを感じていないように窓の外を見ていた。
その姿を見ながら、カナエは実弥が初めて柱会議に出席した時のことを思い返していた。
当初こそお館様に暴言を吐いたが、相棒だった粂野匡近の遺書を手渡されて、それに目を通しながら涙を流していた。
実弥と匡近の二人組の話は、よく柱会議でも話題になっていたから知っている。
兄弟のように仲が良く寝食を共にし、鬼狩りでもいつも一緒だったという。二人揃って柱になる日も近いと思われていたのに。
この、心も身体も鋼のような男を知るにつれ、あの時の涙が胸を衝く。
あの柱合会議で実弥が退出した後、産屋敷から言われた言葉を思い出す。
「どうか皆、実弥を悪く取らないでほしい。彼はどんな厳しい状況でも、正しい判断を下し決着をつけてきた。その半面で、隣で戦う者を何度も何度も失ってきた。
守りたいものを守りながら勝てるほど、鬼との戦いが甘くないのは皆知っているとおりだ。あの怒りは、これ以上誰も死なせたくない気持ちの、裏返しだから」
「……ありがとう、不死川君」
「あぁ?」
「あの時、しのぶを……妹を助けてくれた。それに、不死川君が稀血で鬼を引きつけなければ、死者が多数出ていたでしょう。藤の里にも、被害を出すところだった」
「当たり前のことだ」
悔しそうな顔をしたしのぶが、その言葉にふっ、と表情を変えた。
包帯を巻き終わると同時に、実弥は服を着て立ち上がった。部屋を出るとき、思い出したように振り返った。
「風の隊員が世話になった」
「……当たり前のことをしただけよ」
ちらりとカナエを見た視線からは怒りが消えていて、普通の19歳の青年に見えた。
ばたんと扉が閉まる。しのぶが、長い長いため息をついた。
「なんだか、物凄く消耗した気分……」
「とても手際が良かったわよ」
カナエが褒めた時だった。廊下から、がたん! と何かが倒れる音がして、二人は顔を見合わせた。
実弥の後を追うような形で廊下に走り出る。実弥はまだ扉のすぐ傍にいた。
その視線の向こうには、先週保護した玄弥、という少年が居た。その目の前で、尻餅をついたアオイが震えている。
夕食の片づけをしていたのだろう、盆と皿が床に散乱していた。
「急に後ろから玄弥さんが走ってきて……ぶつかっただけ。大丈夫です」
「一体何が……」
玄弥を見やり、カナエははっとした。玄弥は、アオイにぶつかったことすら気づいていないようだった。
全身をわななかせ、実弥を食い入るように見つめていた。その唇から、かすれた声が漏れた。
「兄ちゃん……やっと、やっと見つけた」
兄?
カナエは驚いて二人を見上げた。
玄弥の言葉に、黙って立ち尽くしていた実弥がふっと顎を上げた。
「お前なんぞ知るか。人違いだ」
「嘘……嘘だ! 間違えるはずなんてない、ずっと探してたんだぞ!」
「くどい。気安く話しかけんじゃねぇ」
これ以上何か言う隙を与えない、一分の温度もない声だった。実弥はそのまま踵を返した。
焼け付くような視線を、玄弥はその背中に向けていた。それに気がつかなかったはずはないのに。
カナエは、散らばった皿を片付け、しのぶが放心した様子の玄弥を病室に連れ帰るのを見送った後、実弥の後を追った。
実弥の姿はすぐに見つかった。裏庭に続く扉を開け、立ち尽くしている。近寄っても、全く気づかないようだった。
「……弟さんなのね」
はっ、と実弥は振り返った。
「分かるわよ。外見も雰囲気も、よく似ているもの」
言わなかったが、特に、目が似ている。
何かを憎み、何かを傷つけなければ生きていけないようなその目。何かに飢えているその目が、よく似ている。
否定するか、無視するかと思ったが、実弥はカナエを見返してきた。
「あいつは何なんだ。鬼殺隊なのか」
「違うわ。先週近くで保護した一般人よ」
「たたき出せ。今すぐだ。俺の素性は聞かれても教えるな」
「分かったわ。すぐにそうします」
実弥は意外そうな顔をした。
「……今ならまだ、間に合うかもしれない。そうでしょう?」
痛いほどに分かってしまった。兄が弟を拒絶する理由を。
「私は、姉として間違えてしまったから。あの時……親を鬼に殺された時、妹を鬼殺隊に誘ったのは私。誘わなければ良かった。
しのぶは……しのぶだけには、普通に生きて欲しかったのに」
ずっと、しまいこんでいた本心がぽろりとこぼれだす。カナエは両手で顔を覆った。
「しのぶが死んだら、私のせいだわ!」
ずっと、後悔してきた。
共に戦う道を選ぶのではなかった。しのぶと断絶してでも、一人で戦えば良かった。
実弥は、しばらく無言のままだった。そして、ふと言った。
「弟妹は、兄姉の背中を追うもんだ」
そう言われた瞬間、頭の中に幼かったころのしのぶが浮かんだ。
姉の真似をしても何一つ思い通りにならず、かんしゃくを起こしては泣き喚いていた、あの姿を。
だから。
私のせいではないと、言ってくれようとしているの?
「妹に普通に生きて欲しいなら、お前がまず、普通に生きるんだな」
「……あなただって、そうできる筈」
「俺はお前とは違う」
そういい置いて、実弥はその場を後にした。カナエはしばらく、動くことができなかった。
Update 2019/11/29
実弥さんHappy Birthday!