かすかな痛みと共に、プツ、と肌が切れる感触があった。
白肌を流れ落ちる雨にわずかに朱が交り、血の匂いが周囲に漂った。
日番谷の荒い息遣いを間近に感じる。切っ先を支えた氷輪丸の刀身は、カタカタと震えが止まらない。
乱菊が手を離せば、そのまま地面に落ちてしまうだろう。

一瞬稲妻がひらめき、刀はそれ自体が光の塊のように輝いた。
「……やっぱり、思った通り美しい刀ね」
日番谷は、魅入られたように乱菊の首もとを見つめたまま、動かない。
その色を失った唇を見下ろして、もう元の関係に戻ることは、できないのだと知った。

皮肉なものだ。
影の第二席に狙われる可能性があると知り、一度は殺されても仕方ないと割り切った。
しかし、やはり生きていたいと思ったのは、この少年の行く未来に、死神の同志討ちなどと言う悲劇が起こらないようにと思ったからだ。
それなのに、暗殺者として乱菊の命を取りに来たのは、悲劇から一番護りたかった日番谷だった。

乱菊は、そっと手を伸ばす。怯えている少年の目は、感情の昂ぶりのせいかいつもより明るく見える。
―― あたしはそれでも、この子を護りたい。
自分を殺す人物であってもいい。乱菊は、生まれて初めて、自分の中にもこのような感情があると知った。
「何を見たの?」
左手が日番谷の銀髪を撫でた時、震えがぴたりと止まる。乱菊は、手をこめかみのところで止め、少年の顔を覗き込んだ。
「どうして、刀を取らなければならなかったの」
日番谷は口を開きかけたが、首を振った。言えない、ということだろう。
そのうなだれた表情が、初めて日番谷と会った時と重なる。

祖母を慕い、祖母の身を護るために死神になると決めた、今よりも格段に幼い、日番谷の姿を思い出す。
―― 「今のままじゃ、あんたはおばあちゃんを殺すことになる」
「死」という言葉に顔色を変えてから、まだそれほどの時間は流れていないというのに。
あまりにもその境遇が変わりすぎていることに、胸が痛んだ。

どうして日番谷が刀を取ったのか、理由を推測するのは難しくない。
死神の実験で、数多くの流魂街の住人が犠牲になっているのだ。特に、瀞霊廷周辺に被害は集中しており、潤林安でも何人も死んでいる。
あれほど大切にしていた祖母が犠牲になる可能性も十分になるのだ。
事態を知り、死神がその根を絶てずにいることも知ってしまったとしたら、護るために戦おうとするのはむしろ自然ではないのか?

最も罪深いのは誰なのか。
流魂街の民を犠牲にしてでも、力を手に入れようとした死神なのか。
経緯は不明ながら、日番谷を見出し、彼を第二席に指名したに違いない砕蜂なのか。
それとも、敵の確信に迫りながらも、今の今まで沈黙を続けた乱菊なのか。
それとも……命じられるがままに、暗殺者として刃を振るった日番谷なのか。
日番谷以外の者たちには、それぞれの行動を自分で選んできた。でも日番谷が、自分から望んで暗殺者になったとは乱菊には思えない。
その瞬間、乱菊の心を憎悪にも似た悲しみが貫いた。
「ごめんね」
銀髪から指を離し、乱菊は唇を噛んだ。
「あたしは『また』、間に合わなかったみたいね」

日番谷は乱菊の心を覗き込むように、その深い翡翠色で見返して来た。
しかしその目は、まだ現実をとらえていない。靄の向こうにいるように、どこかぼんやりとしている。
その目を見返しながら、「影の第二席」にまつわる噂を思い出す。
姿を見られるか、失敗すれば「影の第二席」は死をもってあがなわなければならない。
日番谷の前任の「影の第二席」だと七緒が推測していた嵯峨野夜舟は、二番隊舎の裏で磔にされて死んだ。
その処刑じみた死は、任務に失敗したから――と想像するのは難しくない。

乱菊が日番谷に殺されなければ、日番谷が砕蜂に殺される。
―― あんな死に方だけは、絶対にさせない。
「終わりにしましょう」
乱菊は静かに告げた。手にしていた氷輪丸の切っ先に、力を込める。
「ま……てよ。何を」
「気にしないで。あたしには、殺されるだけの理由があると分かってたから。それに」
乱菊は自嘲気味に続ける。これではまるであの幼馴染と同じだ、と思いながら。
「そこまでして護りたいような命じゃないわ」
語尾が掠れるのを他人の声のように聞いた。やはりあたしも、こんな命でも無くなる時には恐怖を感じるのか。
刃をそのまま、押し込むために力を込める。

「止めろ!」
その瞬間に一声、日番谷が叫んだ。
今までの揺るぎは一瞬で吹き払われ、魂を取り戻したかのように張りのある声だった。
日番谷は思い切り、刃を後ろに退き、乱菊の手を振り払った。そして、氷輪丸を背後に放り投げる。
カシャン、と雨の中から乾いた音が返って来た。
「何、考えてんだ。殺せっていうのかよ! そんな馬鹿な事……」
「馬鹿ね」
乱菊は切り返した。
「たった数日前に言ったはず。もしあんたが、あたしを殺すように命じられたら……」
「よせ!」
日番谷は声を荒げた。闇の中で射ぬくように見つめている、翡翠の瞳。初めの動揺や恐怖を経て、今ははっきりとした意思を映している。
やはり美しい、とこんな時なのに思った。
「殺せと言ったでしょ!」
「できないと言ったはずだ!」
「他に選択肢はないわ」
「いや、ある」
日番谷はそう言うと、くるりと乱菊に背を向けた。
「どうするつもり……?」
「砕蜂と話す」
首だけ振り返った日番谷の表情が、まるで別人のように大人びて見えた。
「……あんた」
「やっと今、夜舟の行動の意味が分かった」
「何を、言ってるの……」
砕蜂と話す? そんなことができるわけがない。
このまま行かせてはならない、と乱菊の全精神が警鐘を鳴らしている。
行けば―― 殺される。磔にされた夜舟の死に顔が脳裏に浮かぶ。

日番谷は、乱菊が知る限り、初めて笑った。
「ありがとう」

「あたしを――」
一歩踏み出した足が、ぬかるみでもつれる。喉からうまく言葉が出て来ない。
「あたしを、殺しなさい。あたしにはその理由が――」
「あるとしても、あんたはもう、十分苦しんでる」
泣くなよ。そう言われて、乱菊は初めて、自分が涙を流しているのを知った。
「その罪を背負って、生きてくれ」
「無理よ、独りじゃ。重いのよ」
思いもかけない弱音がぽろりと転げ出し、乱菊は両手で顔を覆った。
愛すべき男が、憎むべき罪に手を染めていると言う事実。
乱菊には、目を逸らすことも、同じ罪に加わることもできず、ただ目を見開いてみていることしかできないのだ。
これはもう、ただの「弱さ」ではない。「罪」だと思う。死んだ方がずっと楽だ――そう思った。

日番谷の視線を感じる。
「あんた……」
一歩歩み寄ったのだろう、じゃりっ、と砂が鳴った。
その音に混じり、かすかな、かすかな音が聞こえた。
風を裂き、一直線に闇を貫くその音―― 聞き慣れた、今この瞬間はもっとも聞きたくない声がひそやかに届いた。
「―― 射殺せ。神鎗」
「逃げなさいっ!」
乱菊は力の限り叫んでいた。