その径(みち)には、一面の蝉時雨が降り注いでいた。
小さな石ころにも、深い翠の葉の裏にも、太陽は深い影を落とす。
そのヒグラシの声は円熟しきった夏と同時に、訪れる秋の気配を内包していた。
藍染達の裏切りから、百年。
三隊長による襲撃を受け荒廃したソウル・ソサエティが、平和を取り戻して久しかった。
さく、と草履が地面を踏んだ。
径(みち)に咲く花を見て、そっと避けてゆく。
大柄な桔梗のシルエットを刻んだ小袖を着こなした女だった。
黄金色に輝く長い髪は、波打ちながら背中へと流れ落ちている。
その腕の中には、こぼれんばかり花開いた、白菊の花束が抱かれていた。
松本乱菊。
その端麗な容姿に似ず、精霊廷の死神に知らぬもののない強者である。
だが、白い花びらに視線を落とし微笑む口元は、戦士というよりも母親を思わせた。
ざぁ、と葉が擦れ合う音が響き、乱菊は顔を上げる。
森は切れ、夏の日差しが、目の前に広がる水面に暴れていた。
目指す丘の間に流れる、川幅数メートルの川。
もちろん、彼女なら飛び越えることはたやすい。
しかし、風を起こせば、胸に抱えた満開の花びらが、散ってしまうかもしれない。
乱菊が逡巡(しゅんじゅん)した、その時だった。
分かっているかのように、一陣の冴えた風が吹きぬけた。
パキッ。
音を立てて、水面の一部分が凍りついてゆく。
乱菊の目の前に、橋をかけたように氷の路ができた。
乱菊は微笑んで、足音も立てずに歩み寄ってくるその男の、気配を感じる。
振り返った乱菊の視界に映ったのは、まばゆい銀色の髪。
乱菊を大きく上回る、長身。
そして、翻る純白の隊首羽織。
それを目にした刹那、乱菊は息を飲んだ。
「……どうした。松本」
ハッ、と乱菊は我に返った。
「……いいえ。ありがとうございます。日番谷隊長」
穏やかな翡翠色の瞳が、乱菊にひた、と据えられた。
一瞬の動揺は、気づかれずに済んだようだ。
日番谷が乱菊の横を通り過ぎたとき、サッ、と頬を涼やかな風が撫でた。
迷い無く引き結ばれた唇。まっすぐに前に据えられた瞳。
肩で風を切る、堂々とした足取り。
通り過ぎた横顔を見つめ、乱菊はふと、物思いにとらわれた。
爬虫類のような粘着性のある気配を持った「あの男」とは、全く似て非なる存在なのに。
なぜ……重ねてしまったのだろう。
日番谷の後を追い、氷の径(みち)を歩く。
いつか「あの男」と交わした会話が、耳を通り過ぎてゆく。
―― 男は、くちゃくちゃ喋るより黙ってるほうがいいの。
で、たまにしゃべる言葉がとても優しいの。
当たり前に仲間とか、家族とか。恋人とかを大切にできる、義理堅い男。
正義とか、勇気とか。努力とか。そういうベッタベタな言葉が似合う男がいい。
「ねぇ、隊長」
「なんだ」
日番谷が振り返る。
その拍子に、腰に帯びた氷輪丸の柄に結わえられた、桃色の飾り紐が目に付いた。
「それ、雛森にもらったんですか?」
「ウルセエな」
間髪いれず、不機嫌そうに眉をしかめて言い放たれる。
その辺は……全く変わってないのね。
「ねぇ、隊長」
「なんだよ!」
今度は振り返ってくれない。
「あたし、隊長みたいな男が、ずっとタイプだったんですよ」
動揺するか、怒り出すか。その頭を見上げたが、微動だにもしない。
ふっ、と振り返った日番谷は、頬に笑みを浮かべていた。
「それでも、お前が惚れるのは、タイプの男じゃねえだろ?
むしろ逆の、だらしねぇいい加減な男にしか惚れねえくせに」
フッ、と胸の中に、風が吹きぬけた気がした。
あぁ。同じことを、「あの男」にも言われた気がする。
「……。イジワルです、隊長」
全てお見通し、か。
「上司をからかうんじゃねーよ」
日番谷は、小さな丘の上で足を止めた。
そこには、翠に埋もれるように建つ、小さな墓標があった。
流れた年月に黒ずんだ、木の墓標には名は無い。
「ギン」
懐かしげに名を呼んで、微笑むことも、できない。
涙することも、まだできない。百年たっても、まだ。
死神と呼ばれた自分が、ひとりの死を受け入れることも出来ないなんて。
日番谷は、そんな乱菊を見下ろして、目を細めた。
「ごめんな」
「……え」
乱菊が顔を上げた時には、その姿は掻き消えていた。
一足千里を駆けるという日番谷の瞬歩だ。もう気配すら追えない。
たった、ひとりだ。
乱菊は、もう一度その、名も無き墓標を見下ろした。
乱世に生まれ、
乱世に生きて、
乱世に死んだ。
あなたは、乱世そのものだった。
でもだからこそ、あたしはあなたと、平和な世界を歩いてみたかった。
あたしは、抱えてきた花を、ゆっくりと持ち上げ……
乱世に、白菊を手向けた。