咲いたばかりの時は淡いピンクなのに、日に日に艶やかに濃い赤になる。 そんな紫陽花を、女の子が大人の女の人になるのに例えた人がいる。 そうかなぁ、と思う。あたしも、大人になれてるだろうか。 雨音がビニール傘に当たり、水玉が筋を作って流れ落ちてゆく。 色鮮やかな緑の葉にたまった水滴を、見つめる。 よく意外だね、と言われるけど、雨は嫌いじゃなかった。 腰くらいまである長い髪にも、もう慣れた。 臙脂色に近い落ち着いた赤色のスカーフを巻くのにも、白い半そでのセーラー服に身を通すのにも慣れた。 あんなに初めに違和感があったプリーツスカートが膝上で揺れるのも、何も思わなくなった。 もう、高校2年だし。「ジョシコーセー」って呼ばれるのも、違和感がない。 午後、三時半。 あたし、黒崎夏梨は、高校から家の近くの喫茶店、「中島珈琲店」へと向かってた。 向かってる理由はただ一つ、四時から八時まで、あたしがそのお店でバイトしてるからだ。 親父も、一兄も二人とも、あたしのバイトに対しては否定的だ。 「お前はまだ高校生なんだから、働いてないでもっと遊べよ」 一兄はそう言うし、親父ときたら 「夜道が危ないだろうが!」 と猛反対。もう子供じゃないんだからさ、って言ったら、子供じゃないから危ないんだ、って力説された。 ……ま、それくらいの意味は、あたしにだって分かるけどさ。それに、理由をちゃんと言わないあたしも悪い。 「医者になる」。それが、あたしの決めた道。 一兄は、なんだかんだで死神代行の仕事で忙しそうだから、医者と両立は難しいだろうし。 遊子は優しい子だから、人の死に日常的に触れなきゃいけない医者の仕事は向いてない。 でも、クロサキ医院はあたしにとっても、他の家族にとっても大切な存在だ。 誰かが後を継がなきゃ、なくなっちゃうもんな。だから、あたしがみんなの帰れる場所を、作ろうと思ったんだ。 医大に行くには、金がかかる。全額出すなんて言えないけど、それでも高校三年までに百万貯めるのが、あたしの目標だ。 という訳で、あたしは忙しい。 この忙しいのに、空気を読んでくれない奴は、残念ながらいっぱいいるんだ。 「そこの飛び切り綺麗なお嬢ちゃん」 横断歩道を渡りきったところで、背後から声をかけられた。周りに、あたし以外は誰もいない。 消去法で言って、あたしだ。あたしみたいな男女に声かけて、何がおもしろいんだろうと思うけど……物好きはなぜか、多い。 こういうナンパの手合いは、無視するに限る。バイトの時間も迫ってるし、あたしはそのまま早足になろうとした。 途端、背後から肩を掴まれた。 ……さすがに、うざい! 「離してください」 敬語を使いつつ、思いっきりキレた声で背後を振り返った。 思ったとおり、そこにいたのは二十代くらいの男。振り払おうとして、異変に気づく。 にやぁ、と笑った男の口元が、一気にコメカミのあたりまで裂けたからだ。思わず、喉の奥で悲鳴を上げそうになる。 「お前、虚かっ!」 ただのナンパ男かと思ってた分、初動が遅れた。普通の体格だったその男の背中が、むくむくと瘤みたいに膨らんでゆく。 見る見る間に、身長が三メートルくらいまでに膨らんだ。人間の原型は、その頃にはほとんどなくなっていた。 「っ、痛……」 あたしの肩を掴んだ手の力が強まり、ぎし、と骨が鳴る。 うかつだった、と思う。一時よりは数が減ったとはいえ、この空座町は、虚の巣らしいのだ。 虚は、その1メートルくらいにまで巨大化した口を大きく開けた。涎が糸を引いて、あたしは顔を背ける。 獣の唸り声に似ていたが、よく聞けば、人間の声に聞こえた。 「コワガラナクテイイ……」 「離せよっ!」 あたしが無理やり、虚にかけられた手を振り払おうとした、その時。ひょう、と背後で鋭く風が鳴った。 「あ……」 虚が、ぽかんとした声を出す。あたしの肩を捉えていた右腕が、肘の辺りで断ち切れていた。 ぼとり、と肘から先が地面に落ち、落ちた部分から一気に黒い霞のように消える。その時にはもう、誰が来たのか分かっていた。 通りにせり出した紫陽花の花を避け、歩いてきた黒装束の男に、あたしの視線は吸い寄せられる。 日番谷冬獅郎。死神だ。手にした日本刀の刀身が、にぶい銀色に光っている。 「コ、コノ……」 「通常の輪廻へ環れ」 冬獅郎の言葉は、短かった。襲い掛かろうとした虚を、一瞬で分断する。 全身が霞になって消えたのを確認してから、ヒュッ、と音を立て、刀身を鞘に戻した。 あたしは傘を手に、冬獅郎に歩み寄る。傘を差しかけようとしたら、いらない、というように手で制された。 見れば、雨は冬獅郎には当たらず、体をすり抜けて地面に落ちている。 「……冬獅郎」 「本当にお前には、妙な奴ばかり寄ってくるな」 「あんたがその、最たる者じゃないか」 そう言い返してやると、端正な顔が思い切り引きつった。でも否定はしない冬獅郎に、あたしは少しだけ、安堵する。 「なかなか言うな、お前」 「世の中には変わり者が多いね、あたしみたいな男女に近づくなんてさ」 はあああ、と冬獅郎は返事の代わりにため息をつく。 「なんだよ?」 「お前、まだ自分が小学生だと思ってんじゃねぇだろうな?」 水溜りには、もう小学生とはとてもいえない、17歳になったばかりのあたしが映っている。 あんただって。そう言おうとした時だった。 ふわり、と上空から降りてきた、冬獅郎と同じ黒い影にあたしの視線は吸い寄せられる。 「死神……?」 あたしと同じくらい長い、黒い髪がさらりと流れる。黒装束を着て、手には刀を持っている。 今まで何人もの死神に会ったけど、見たことが無い顔だ。ただ、「可憐」って言葉がぴったり来る、黒目がちの女の人。 あたしより年上の外見だけど、年下みたいにあどけなくも見える。意志が強そうな、意外としっかりした眉をしていた。 「日番谷隊長。西の上空に、虚の群れを発見しました。排除しても?」 外見に似合った可愛い声だけど、声の調子が凛と張っている。 「ああ、俺も行く」 堂々とした声で冬獅郎が返す。ああ、こいつは「隊長」なんだって、思わされる。 この女死神だって、半端じゃない霊圧の持ち主なのは、あたしにも分かった。冬獅郎の副官の乱菊さんと、同じくらいか。 虚の群れの前にも全くたじろがないその態度を見ても、経験を積んだ死神なんだろう。 ちらりと女死神はあたしを見て、目が合ってるのに気づくと少し意外そうな顔をした。普通の人間に、死神は見えないもんな。 でもすぐに冬獅郎に視線を戻し、わずかに頭を下げると、その場から姿を消す。「瞬歩」って言うんだ、って聞いていた。 そのわずかなやり取りで、二人の間にしっかりとした信頼関係があるのが分かった。 その女死神が先に行っても、冬獅郎が慌てて後を追ったりしないことからも、それは明らかだ。 「お前、まだあの珈琲店で働いてんのか?」 振り返ると、そんなことを言ってきた。あたしがうなずくと、少しだけ微笑んだ。 「じゃ、雛森と後で行く」 雛森、っていうのか。あの人にぴったりの苗字だな。そう思った時には、冬獅郎は刀を手に、上空へと姿を消していた。 *** 細かい雨が、中島珈琲店の硝子のドアに音もあたっている。 四時半を回り、外は明るすぎも暗くもない、微妙な光度を保っている。あたしはさっきから、外の景色を見てばかりいる。 ジーンズにTシャツ、というラフな格好に着替え、上から制服代わりのグレイのエプロンを身に着けてた。 冬獅郎は、まだ来ない。あいつに何かあったなんて心配しないけど、あの女の人と一瞬見交わした視線が、妙に記憶に残ってた。 ただの上司と部下にしては、なんだかとても、親しげなように思えて。 でも、そんなの一瞬のこと。気のせいか、とやり過ごそうとする。 「夏梨ちゃん、トレイ洗い場に下げといて」 洗い場から声が飛び、はあい、と返事をする。トレイを手に振り返った時、あたしは思わずその場に固まった。 何食わぬ顔で、冬獅郎とその女の人が、人間の格好をして店内に入ってきたからだ。 冬獅郎はジーンズのポケットに手を突っ込み、女の人はヘッドフォンのコードを首にかけてる。 どこからどう見ても、どこかの中学生と高校生の組み合わせに思える。間違っても、死神なんかには見えない。 「いい、いらっしゃいませ」 「なに動揺してんだ。行くっつっただろ」 そりゃそうなんだけど、死神の冬獅郎が客で、カウンターの向こうであたしが接客するって。変すぎるだろ、この状況! カウンターを挟んで向かい合うと、また身長差が開いたことに気がつく。 あたしだって163センチあるから、女としては低い方じゃないんだけど、冬獅郎はあたしよりもぐんと背が高い。 今冬獅郎の隣に立ってる女の人はあたしよりもっと低くて、冬獅郎の耳くらいまでしか身長がない。 死神の格好だった時はもっと大きく見えたけど、改めて見るとかなり小柄だった。 あたしがじーっとその人を見ていたからだろう。注文を終えた冬獅郎が後ろを振り返った。 「ああ、五番隊の雛森副隊長だ。雛森、こいつは、黒崎夏梨。黒崎一護の妹だ」 「一護君の?」 意外そうな声が返される。ていうか、あたしが一兄の妹だと知った死神は、みんな同じ反応をする。 一兄は、死神の世界では相当な有名人らしい。……どういう意味で有名なのかは、敢えて聞かないことにしてるけど。 一兄のことだ、何かとんでもないことしてそうだ。 雛森、っていう人が、驚いた顔をしたのはつかの間だった。すぐに、にこっと微笑む。 同じ女なのにドキッとするみたいな、優しい笑みだった。 「はじめまして、雛森桃といいます。よろしくね、夏梨ちゃん」 「雛」も「森」も「桃」も、この女の人にはピッタリだ、と改めて思う。 同じ副隊長でも、乱菊さんとは随分印象が違う。違うけれど、どっちもとても、女性らしい感じがする。 「あ、よ、よろしく」 妙に声が緊張してしまって、慌てて冬獅郎に向き直る。 「……なんで現世にいるんだ? 仕事か?」 「ああ。視察にな」 なんの視察なんだ、と聞こうとした時、また別の客が入ってきて会話が途切れる。 きっと昼飯を食ってないのか、珈琲と、サンドイッチを一つずつ頼んだ二人に、あたしは番号札を渡した。 全然、後でもいいからね。そう微笑んで背中を見せた桃さんと冬獅郎が気になって、 あたしは珈琲を準備しながらも、ちらちらと二人の方を見てばかりいた。 二人は、テーブル席に向き合って座ってる。桃さんが、バッグからガイドブックみたいなものを取り出す。 まさか観光? って思ってる間に、テーブルの上に広げた。どうやら、地図らしい。 二人して、真剣な表情で地図に見入って、指を差したりしてるから、これも仕事なんだろう。 桃さんは、裾がふわりとフレアラインになってる、白のガウチョパンツをはいてた。 パンツの裾から覗くふくらはぎは、すんなりと細い。ピンク色の、ラウンドネックの半袖を着て、茶色のサンダルを履いてる。 優しそうな雰囲気に、よく似合ってた。 冬獅郎は、ジーンズ生地のハーフパンツに、ラフな黒のTシャツ。 テーブルの下でぶらぶら揺れているサンダルは、ビルケンシュトックのものだと見当をつける。 湿気のせいだろうけど、たぶん無意識に、前に落ちてくる銀髪を何度も手で掻きあげていた。 桃さんが、地図に落ちた髪を背後に手ぐしで流す。その時、冬獅郎がポケットに手を突っ込んで、髪ゴムをひょいと渡した。 ……え? 髪ゴムって、冬獅郎は必要ないよな。ていうか、何で持ってるの? それを当たり前みたいに受け取って髪を束ねた桃さんを見て、違和感がどんどん大きくなる。 いや、はっきり言ってしまえば、それは「違和感」っていうよりも「不安」。 向かい合った二人の横顔が、顔は違うのになぜかそっくりに見えたのも、不安に拍車をかける。 冬獅郎が、あたしに戯れめいた言葉をかけるようになってから、少し時間が経っている。 どう返していいのか、どこまで本気なのか分からずに、のらりくらりとしていたけれど。 他の女の人に興味を持つことはないだろう、ってなぜか思ってたあたしは、もしかしてとてもうぬぼれてたのか? 「……お待たせしました」 マニュアル通りの言葉を口にしたあたしの声音は、自分でも少しぎこちないと思った。 その時に聞こえた、桃さんの声。 「――でね。どう思う? 日番谷君」 ドキリ、とした。やっぱり、上司と部下ってだけの関係なら、隊長に対して副隊長がこんな呼び方をするとは、思えない。 「夏梨か」 あたしが動揺してるのがバカみたいに思えるほどアッサリ、冬獅郎は振り向いた。 ちょうどいい、と独り言を言うと、地図の一角を指し示して見せる。 「この辺、人通りあるか?」 「え?」 トレイを隣のテーブルに置き、覗き込んでみると、それは空座町の地図だった。 冬獅郎が指差しているところを見下ろして、街のはずれだとすぐに気づいた。 「いや? この辺は倉庫郡だし、昼間でもほとんど人は通らないけど。なんで?」 「新人の死神の、初仕事の場所をどこにしようかと思ってな。新人の教育係に選ばれたんだよ、俺達。なんでか知らねぇが」 嫌そうな顔をした冬獅郎は、ううん、と両腕を天井に向けて伸びをした。 「砂糖取ってくる」 「あ、あたしが……」 「いい」 身を乗り出したあたしを置いて、冬獅郎はさっさとカウンターに歩いていってしまった。 その場には、桃さんとあたしが取り残される。 「……えー、と……」 誰かと話を切り出すのに、こんなに迷ったのは久しぶりかもしれない。 率直に聞いてみたいことはたくさんあるのに、どう言っていいのかわからない。 ちら、と隣の桃さんを見た時、思い切り目が合って、ドキリとする。 「あ、あの」 「日番谷隊長とあたしの関係?」 ぴしゃりと言い当てられて、なおさら言葉に詰まる。ふふっ、と桃さんは顔全体に微笑を広げた。 「前に一緒に暮らしてた、幼馴染よ。たまに今も、実家で顔を合わせるけど」 幼馴染。そう言われて、すぐにあたしの頭の中に、前に冬獅郎に聞いた言葉がひらめく。 死神になる前は、おばあさんと、ちょっと年上の女の人と三人で暮らしてたって。 なんだ、そんなことか。あからさまにあたしは、ホッとした顔をしたらしい。 「だから安心して?」 そうイタズラっぽく続けられて、うろたえる。 「そういうんじゃないって! 冬獅郎なんか……」 「俺なんか、何だって?」 ギクリとして振り返ると、冬獅郎が胡散臭そうな顔をしてすぐ後ろに立っていた。桃さんがにこりと笑う。 「何でもないです、日番谷隊長」 「……お前に隊長隊長呼ばれると、ますます胡散臭ぇんだよ」 「じゃ、シロちゃんでいい?」 「フザけんな」 怒るかと思った冬獅郎は、苦笑いしただけだった。 ふわりと流れた二人の空気に、やっと理解する。そっか、この二人の雰囲気、一兄と遊子と、あたしの雰囲気に似てるんだ。 「じゃあな」 「じゃあね」 そう言って去っていった二人の余韻が、時計が五時を指した珈琲店の中に残っている。 トレイを下げるところも、ドアを先に開けて桃さんを通すさりげない仕種も、なんだか一兄に似てて。 家族を大切にする男の人って、はっきり本人には言わないけど、かっこいいと思うよ。 なんだかほほえましいような、ちょっと寂しいような気持ちで、二人がついさっきまでいたテーブルに歩み寄る。 片付けようとして、紙で小さな箱が折られているのに気づく。 箱には、桃さんの手に違いない、かわいい文字が書き込まれていた。 「―― 夏梨ちゃんへ。お仕事、がんばってね。冬、桃」 小さな箱の中に入っていたのは、二人が摘まんでいたクッキーが一枚。 こっそり口に運んだひとかけらは、しっとりと優しく、口の中で溶けた。
ええと……なんでしょ、この話(笑
シエスタは、お昼ご飯食べた後のうたた寝。気持ちいいですよね〜あれ。
時間的に、夕暮れ刻にお昼寝は「ありえない」んですが。
現時点では想像できなくても、いつかはのどかな日雛を見てみたい、っていう願望です。
[2010年 6月 17日]