伽藍(ガラン)
伽藍(ガラン)
鉦が鳴る音が聞こえる。
あぁ。市丸は、ひとり大きく息をついた。
また……ここに、戻ってきたか。
空も山も鳥も草も水も人も心も、
芯まで染め通るような、圧倒的な夕焼けの朱(あか)。
でも、市丸の心までは染められない。
「無」に色をつけることは、陽の光でも出来ない。
巨大な、伽藍堂。
鉦の音がいくら聞こえても、人の声が漣のように届いても。
市丸は、誰にも出会わない。
一度だけ……少女が訪ねてきたことがあるが、その記憶ももはや朧だ。
きしきし。
音を立てて、廊下を歩む。
節くれだった柱に手を置き、鉦のある台座に目を向けた。
ふぅわり。
漂ってきた香りに、市丸は目を見開いた。
たんたん、と足音を立て、鉦の元に向かうと……
そこには、先客がいた。
「乱菊……お前なんで、ここへ」
まるで風景の一部のように自然に、乱菊がそこに居た。
紅い唇の口角が、ゆっくりと引き上げられる。
気まぐれな猫のようなその瞳は、今は穏やかな彩(いろ)に満たされている。
優しい表情のまま、乱菊はポン、と言葉を放り投げた。
「アンタとはもう、絶交よ」
投げられたボールを胸で受けるように、ギンはわずかにのけぞった。
「絶交、か。しゃーないな」
頭を掻く市丸の姿は、まるで悪戯を叱られた子供のようで。
乱菊は苦笑する。
そして、市丸にゆっくりと、歩み寄る。
「でも、これはただのユメだから。ちょっとくらいの戯言は赦されるわよね」
乱菊のぬくもりが、まるでパズルのピースを合わせるようにぴったりと、市丸の胸に収まる。
艶めく唇が、市丸の耳の横で囁く。
「愛してるわ」
あたたかく、やわらかに息づく其れに、市丸が腕を伸ばしたのは、おそらく無意識だったのだろう。
その右の手のひらが乱菊の背中に触れる、と思った刹那。
ふっ、と乱菊の姿は消え失せた。
柄にも無く慌てて、腕の中に視線を落とすが、
ただ……そこには、虚(うつろ)が広がるのみ。
「くっ……」
市丸の口から、乾ききった砂のような、笑みが漏れた。
くつくつと、発作のような笑いが次々とこみ上げる。
そして……右の手のひらで、目の辺りを強く強く、押さえつける。
圧倒的な夕日が、そんな市丸を照らし出している。
其れは、尽き果てぬ胡蝶の夢。
―― SUITE, SWEET DREAMS FIN.