信貴羅が先を行き、その少し後に当主と興隆が続いた。そして三人は、とある廃屋の前で足を止めた。壁は崩れ、柱も途中で折れ、激しく燃えたのかほとんど墨化していた。焦げ付いた柱の残骸が、星が瞬き始めた空に向かって伸びている姿は無残だった。再興の足音も、村はずれのこの場所には届いていなかった。
「……あのかたですね」
 当主が口を開いた。その声は柔らかかったが、女にしてはやや低いようだった。
「視えるのですか! さすが、皇家の当主様だ。どうか、『あれ』を調伏してください」
 当主は、全身で震えている村長を振りかえり、口角をわずかに上げた。それは、意図が読めない謎めいた微笑みと村長の目には映っただろう。自信に満ちた「当主」らしい笑みではなく、敢えて言えば困っているようにさえ見えた。当主はその表情のまま前に視線を戻した。
「……少し、あのかたの話を伺ってみましょう。きっと、理由があるのでしょうから」

 廃屋の朽ちた柱に囲まれるようにして、一人の「人間」が座りこんでいた。常人の目に見えない時点で、もうただの人ではない。年代も、性別すらも分からない。ざんばらの髪は焼け焦げ、長い前髪の間から、大きく見開かれた目が覗いていた。ぽっかりと空洞のように開かれた口からは、おぉん、おぉん、と怖気を振るうような声が漏れている。泣いているのだろうが、もう自分がどうして泣いているのかも分からず、放心しているように見えた。服も焼け、痩せこけた身体に巻きついているような状態だった。
「……男か、女かぁ? ……『男』に今晩の酒を賭けてもいいぜ」
「信貴羅。このひとは女性だ」
 当主はそう言うと前に出て、「彼女」の前にかがみこんだ。興隆が鼻で笑った。
「お前はいつも逆を言うんだな。当主のことも、初めは女と言ったろう」
「悪ぃのは俺じゃねぇよ。性別不詳な方が悪い」
 当主は二人に視線をやって黙らせると、「彼女」と視線を合わせた。

「僕は、皇昴流といいます。少し、お話をさせてもらえますか」
 「女」は、へたりこんだまま、昴流と名乗った少年を見返した。そのまま瞬きもせず、じっとその端正な顔を見やった。昴流は瞬きして「女」を見返したが、不意にその頬に赤みが差した。
「も、もしかして、僕の顔に何かついてますか? まさか、今朝食べた海苔が口の周りにとか……」
 言いながら、慌てたように口の周りを手甲をつけた手でこすった。
「……ついてたら、さすがに俺か興隆が言うっての。当主ともあろう者が、しまらねぇ」
 呆れたように信貴羅がとりなした。まったくもうこの人は、という感情が表情にあらわれている。敬語も抜け落ちていることからして、二人は元々近しい間柄らしい。

「……あんたは、」
 不意に「女」が口を開き、二人は口をつぐんだ。
「……確かに女だ。ちくしょう」
 信貴羅が肩をすくめる。
「信貴羅。口を挟むな」
 興隆が信貴羅の肩を掴んで諌めた。
「あんただって挟んでるじゃねぇか!」
「二人とも、後にして」
 昴流が今度は声に出してとりなした。口数が多い三人を前に、口をつぐんだ「女」に、慌てた素振りで頭を下げる。
「す、すみません、僕に何かおっしゃるところだったんですよね。どうぞ」
「……あんたは、私を追い払いに来たんじゃないのかね」
 ようやく口にした「女」の声は掠れ、虚(うろ)を吹き抜ける風のようだった。
「いいえ」
 昴流はきっぱりと否定した。
「貴女が望まないのなら、ここから動いてほしいとは言いません。村人たちがここに住みたいと思うのと同じように、貴女にもここに留まりたいと思う自由がありますから」
 驚いたように昴流の背中を見やった村長にかまわず、続けた。
「……ただ、貴女はもうとっくに、お亡くなりになった身でしょう。死者がこの世に留まるには、必ず理由があります。どうしても叶えられなかった『願い』をこの世に遺しているのではないですか? 僕にお手伝いができることでしたら、何なりとしましょう。どうか、僕に話してくださいませんか」

 興隆も信貴羅ももう口を挟まず、黙って昴流の言葉を聞いている。村長でさえ、恐怖を忘れたようにその場に立っていた。村長には「女」の姿は見えないが、それでも昴流の口調から、相手の正体が妖怪ではなく、人なのだと納得できたのだろう。それほど彼の口調には、親しい人を前にしたかのような誠実さが満ちていた。
 「女」はしばらく黙っていたが、やがて目を伏せた。もう何も話さないのではないか、と思いだした時、不意に口を開いた。
「……人の言葉を話すのは、久し振りだ。話しかけてくれる相手も、いなかったからね」
 その声は、虚を吹き抜ける風のように掠れていたが、昴流を見返した目に、理性の光が戻っていた。

「私はこの村の生まれでね、この家に、一人息子と住んでおりました。でも息子が先だっての戦に取られて、私は悲しくってね……。でも必ずこの家に帰って来ると言ってくれたから、それだけを励みに生きていたんだよ」
 そして、もう崩れ果てた廃屋を仰ぎ見た。
「私は待ち続けた。そしたらある日、野武士がこの村を襲い、全部を奪って、焼き払っていったのさ」
「……貴女も、その時に?」
 「女」は頷いた。その拍子に、涙が頬を転げ落ちた。
「息子が、ここへ帰って来るはずなんです。家も私もいなければ、あの子は途方に暮れてしまう。その姿を思い浮かべるだけで、胸が張り裂けそうに痛いんです。そう思うと居ても立ってもいられず、今日は戻るか、明日こそ戻るか、と村を探しまわっておりました」

 昴流と信貴羅は顔を見合わせた。仮に息子が生存していて戻って来たとしても、よほど霊感が無い限り、息子は母親を見ることができない。悲嘆にくれる息子を前に声をかけることもできず、苦しむのが目に見えていた。
「……息子にもう一度逢いたい。それができたら、悔いはありません。どこにでも参ります」
 「女」の目が苦痛にゆがんだ。苦痛が、理性を追い越すのが見ていても分かった。おぉん、おぉん、と獣の声で啼く女の前に、今まで黙っていた興隆が進み出た。
「……ご婦人。先だっての戦、と言ったな。それは、白木が原での戦のことか」
 「女」は白木が原、の名前にびくりと反応し、頷いた。
「……気の毒だが、黙っていても仕方がない事だ。白木が原の戦では、敵味方とも全滅したと聞いている」
「息子が……死んだ、というのですか」
 顔を上げた「女」は、ぶるぶると震えるばかりでしばらく何も口にしなかった。戦場に送りだした時点で死は覚悟していたはずだが、その覚悟も、事実の前には何の力もないのだと思わせた。

「あなた方は……陰陽師なのでしょう。陰陽師は、神に等しい力を持つのでしょう? この老いぼれた女一人の願いも、叶えてはくださらないのですか」
「残念だが、この世に神はおらぬ」
 興隆はきっぱりと言った。その言葉に、「女」の嗚咽が被さる。
「興隆。言いすぎだ」
 信貴羅が嫌悪感を表に出して興隆を見返した。
「下手な同情はためにならんぞ、信貴羅。希望をもたせてここに残って、一体何になる? この世は残酷なものだ」
「……あの世に行ったからとて、何になりましょう。あの世で息子を探せとでも? どこへ行けばいいというのです」
 信貴羅は、雑な仕草で後頭部をバリバリと掻いた。
「あの世のことは、誰にも分からん。知ることもできねぇし、影響するなどもっての……」
 そこまで言いかけて、はっとして昴流を顧みた。昴流は片膝を地面につけて座ったまま、「女」の乱れた髪の上に、温度を測るように掌をかざした。
「村人たちが全員逃げ出しても、貴女は留まりつづけたんですね。ご子息のために」
「ええ……ええ! そうです」
 打ちひしがれていた「女」が、涙ながらに何度も頷いた。
「そうですか」
 昴流は、まるでその景色が目の前に見えているかのように、辛そうな顔をした。そして立ち上がると、ふわりと右の掌を宙に向けた。

「……何を」
 村長が目を見開いた。昴流のゆったりとした白い袖が闇に揺れ、かすかな風が周囲を揺らす。その風はやけに冷たかった。今までの昴流れとは一段低い声が、周囲に染みるように広がってゆく。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前……」
 温度が変わってゆくのが、今やはっきりと分かった。昴流を中心に、風がゆっくりと吹いている。風に吹き上げられ、昴流の前髪がたなびいている。露わになった白い横顔は、端正を通り越し凄味があった。
 一瞬の沈黙の後、昴流はさっと袖を横に払った。びくり、と村長が身体を揺らせる。昴流が口にしたのが「力ある言葉」であることは彼にも分かっていたらしい。しかし、次の瞬間に村長が目にしたのは、彼がその瞬間にした、どんな想像とも違っていた。
 昴流の身体の向こうに、さっきまではいなかった一人の男が、立ちつくしていたのだ。

 男は、ぼろぼろになった甲冑をまとい、槍を手に、放心したようにその場に立ちつくしていた。ゆるく巻いていた鉢金がするりと頭から落ちる。がしゃん、と大きな音を立てるはずのそれは、空中でふっと霞のように掻き消えた。彼の輪郭は、淡く白い光に包まれていた。
「お……まえ」
 「女」が、膝立ちになって立ち上がった。目が、飛び出るばかりに見開かれている。
「おっ母さん……。分からないんだ。戦場で、戦って戦って……剣で突かれて、焼けるように熱くなって……気づけば、ここにいたんだ。俺、いつの前に帰ってきたんだろう?」
 彼は夢から醒めやらぬ表情で、よろよろと前のめりに歩いた。よろめきながらも駆けだした母親と抱きあい、互いの動きが止まる。しばらくの間、むせび泣き以外の何も聞こえて来なかった。

「……当主」
 興隆が、昴流を見やった。懸念するような色が、その表情にはあった。
「貴方に言うことではありませんが、一度成仏しあの世に渡った魂を呼び戻すことは禁じられている筈」
「……そうですね。陰陽師……殊に皇家にとっては当然のことです。でも、それはあの人たちには、何の関係もないことです。僕はあの方に、自分にできるだけのことをすると約束しました」
 昴流は、興隆を透明な視線で見返した。
「それに、僕には、あのかたが言っていることが分かるんです。僕にも、遠く離れているけれど大切に思うひとがいます。僕自身が辛いのは耐えられますが、あのひとが泣く背中を想像するだけで、僕は苦しくなるんです」
 感情を吐露する言葉とは裏腹に、彼の声音にはどんな感情も含まれていなかった。そのことが逆に、どれほど彼が苦しんできたかを如実に物語っていた。興隆は口を開きかけたが、結局何も言わなかった。

 「女」と、その息子の二人は、並んで立っていた。母親の手を取り、男は興隆、信貴羅と視線を移した。そして最後に昴流を見つめると、二人で揃って、深く頭を垂れた。
「……お幸せに」
 昴流がかけた言葉は、生きている人間に対するものと少しも変わりがなかった。そして二人の姿は、蝋燭の炎がふっと消えるように、残像も残さずその場から掻き消えた。

「……成仏したか。ま、終わり良ければ全て良しってか」
 信貴羅が両手を頭の後ろで組んで、二人が消えた方を見やった。昴流は、廃屋の前で目を閉じ、手を合わせる。すると、廃屋は灰のように崩れ、柱が地面に次々と倒れた。残骸を見るに、今まで持っていたのが信じられなかった。
「……あのかたの意志の力で、この家は形を保っていたんです」
 昴流は、その場で棒立ちになっていた村長を振り返った。
「って、あの村長には、女もその息子も見えちゃいねぇだろうが」
「……見えてはおりませんが、理解はできました。もう、成仏したんですね」
「ええ。ここに家も建てられるでしょうし、寝込んでいる人々も、ほどなく快方に向かうでしょう」
「……良かった」
 村長は長いため息をついた。そして、付け加えた。
「村が復興できて、良かった。そして、その方が成仏できて良かった」

 村長は、周囲を何度も見まわした。最後に空を見上げ、ほぅ、とため息をついた。
「こんなに美しい夜空を見たのは久方ぶりです。……空を見る余裕もなかったんでしょうか」
「瘴気がこの村を覆ってた分、空が霞んで見えなかったんだろう。急速に空気が清らかになってる」
 信貴羅が頭の後ろで手を組み、同じように星が瞬き始めた夜空を見上げた。

 村長は、頼りない足取りながらも前に進み出て、昴流の隣に並んだ。そしてゆっくりと、手を合わせた。
「……ここには祠を建てましょう。子供を想う母の気持ち、分からぬ者は村人にはいないでしょうから」
「ありがとうございます」
 頭を下げた昴流を、村長はまじまじと見た。それこそ憑き物が落ちたように、その表情はさっぱりとしていた。
「確かに、そこの方がおっしゃったように、今の世は残酷です。だからこそ、あなたのような方が存在できるのでしょう。……まるで、神のようだ」
「い、いえ、僕はそんな」
「こんな赤面症の神がいるかよ。おら、帰るぞ」
 信貴羅が、一周りは小さい昴流の肩に腕を置いた。去って行く三人の後ろを、村長はいつまでも、手を合わせて見守っていた。




* last update:2013/8/26