蝉時雨、どころじゃない。
これじゃ蝉ゲリラ豪雨だ、と黒崎夏梨はげんなりしていた。
窓の向こうで、むくむく音を立てそうに沸きあがっている入道雲。
その天辺で照り映える太陽を、恨みがましく見上げた。

名前に「夏」がついているだけあって、夏梨は夏が大好きだ。
熱風が吹き荒れようがギラギラ照らされようが逆にテンションが上がるくらいだが、夏梨にとっての不幸は、彼女の友達が全員そうではない、ということにあった。

何しろ、夏休み初日にさっそくサッカーで盛り上がっていたら、友達の一人が熱中症で倒れたのだ。かなりの重症で、二・三日ではあるが入院することになってしまった。
夏休みに入ったばかりだというのに学校に呼び出されて事情聴取された挙句、「外でのサッカー禁止」と担任からきっぱり言い渡されてしまったのだ。
もっとも、それくらいで引き下がる夏梨ではない。必死に食い下がり、理屈を並べ、何とか条件付きにすることに成功した。
―― 「条件って何だよ?」
保護者代わりに学校まで迎えに来た一護に、夏梨は意気揚々と言ったものだった。
―― 「最高気温が30度を越えた日だけ、サッカーをしないって条件がついたんだ!」
それを聞いた一護は、思わず、という風に苦笑いした。
―― 「夏梨……詰めが甘えよ」
そのときは、どういうことだか分からなかった。しかし、その日の週間天気予報を見た夏梨は、愕然とすることになる。
―― 「最高気温が30度以下の日なんて、一日もないじゃん!」


サッカー、事実上の禁止。
テレビ。昼下がりの今は、不倫してる女の人のどろどろ愛憎劇が絶好調だ。
ゲーム、もう十回もクリアした。
つまりは、夏梨はその日の午後、ヒマでヒマでたまらなかったのだ。
ちらり、と机の横に転がしてあるサッカーボールを横目で見る。
家の前の道路で、一人で蹴ってたらバレやしないと思う。
譲歩した振りをして、ちゃっかりとサッカーを禁じた担任に、だまされたと思う。
「う〜……ん」
それでも、一旦口に出してしまったことは覆せないのだった。
「オトコの約束」。自分は男じゃないが、感覚的にはそれに近い。
「あ〜あ!」
家の中は、誰もいない。一護は友達の家に遊びに行っていたし、遊子も珍しく家を空けているし、父親は仕事だ。大声を出しても、誰も返事もしてくれやしない。

退屈すぎて眠くもならない。そこまで考えた夏梨はやむなく、机の前に腰を下ろした。
勉強机の上には、1ページたりとも手をつけていない、夏休みの宿題のドリルが数冊、積んである。
夏梨の成績は悪くない……というよりも、けっこう良かったりする。
体育はいわずもがなだが、法則にどんどん当てはめていく算数は性に合っていた。
逆に、一護や遊子は成績がいい国語は、なんとなく苦手だったりもする。
勉強が嫌いということはないのだが……いかんせん勉強よりも楽しいことが多すぎて、今まで手をつけていなかったのだ。
「しょ―――がないなぁ」
夏梨はたっぷりため息をついたあと、ようやく机の前に座ったのだった。


座って、鉛筆削りを弄んでいた時だった。
―― ん?
夏梨は眉をひそめた。
ひた、ひた。
部屋の窓の向こう、道路の方角から、足音が聞こえた気がしたからだ。
―― 空耳か?
エアコンを入れているため、窓は締め切っているのだ。足音なんて普通は聞こえない。
聞き流そうとして、鉛筆を掴んだ手が、止まった。

近づいてくる。

そのことに、気づいたからだ。
なんだか分からないが、ただ不吉な感じだ、ということだけは分かった。
悪霊とか、虚とか、破面とか。とにかく、この世のものじゃない感じだ。
陽炎に揺られるアスファルトの通りの中、ゆっくりと歩いてくる「それ」の姿が、頭に浮かぶようだった。

聞こえないはずの音が聞こえて、見えないはずの影が見える。
まともなことであるはずがなかった。

ひた、ひた。
手にしていた鉛筆を、気づけば握り締めていた。
―― 来るな、来るな……
夏梨の思いとは裏腹に、足音はどんどんと近づいてくるではないか。

ひた。

……止まった。しかも、この家の前で。
夏梨は机の下に転がしてあったサッカーボールを手に取った。
そして、そろり、そろりと廊下に出て、階下に見える玄関を見下ろした。
がちゃり、と硬質な音が響き渡る。
鍵がかかっているはずなのに、などと疑問を感じる間もなかった。夏梨は思いっきり足を振り上げていた。

「悪霊退散っ!」
渾身の力を込めた一撃だった。ボールはバウンドすることもなく、一直線に玄関へと向かう。そして、ドアをちょうど開けて現れた影のど真ん中に、鈍い音を立ててヒットした。
「よっしゃ……って、あれ?」
一瞬、「それ」が吹っ飛ぶ瞬間、見慣れた色が見えたような。……銀色、だったような。
全開になったドアが背後に跳ね返り、ガン、と鈍い音がした。
道路へ吹っ飛んでいったはずのボールのバウンド音は、聞こえない。

ばすっ!

大きな音を立てて、ボールが玄関先に押し付けられた。
そして、ボールを掴んだままゆっくりと再び現れた人影を見て、夏梨は喉の奥で悲鳴を上げる。
「かー・りー・んー……!」
「わーっ、冬獅郎! ごめん、ごめん、ごめんって!」
怒り心頭、という表情の冬獅郎に、慌てて夏梨は階段を駆け下りた。