今年の梅雨は、本格的な雨の日が多かった。 霧雨、俄雨、地雨、夕立。日本には、雨の名前が多い理由が頷ける。 畳は足で踏むと、じっとりと重く湿気を含んで感じられた。 周囲を水音で囲まれた店の中で、古いきものに囲まれて一人座っていると、自分が金魚鉢の中に閉じ込められた魚のように思えてくる。 その日の朝、住居兼店舗になっている小さな建物の二階で、わたしは目が覚めた。 子供の頃の夢を見ていた。夏休みには、毎朝六時半から、近くの神社でラジオ体操があり、子供は出席が必須だった。 行けば、スタンプシートに、小さな赤い「出」のスタンプを押してくれる。それがたまるのが、楽しみだった。 ダンボール紙の少しでこぼこした感触、右端に穴を開けて通していた紐が薄い青だったこと。二十年近く経っているのに、はっきり思い出す。 家に戻って朝食を待つ間、畳に転がって扇風機に吹かれていた時の心地よさ。ガラス戸の向こうは、燃え立つような緑だった。 どうして、そんな夢を見たのだろう。 そう思いながら、わたしは布団で体を起こす。東京の下町に出て、このアンティークきもの屋を開いてから、二年になる。 それから一度も、実家には戻っていない。きちんと生計が立てられるようになるまで実家には戻らない、と自分の中で誓いを立てたからだ。 今年は、戻れるだろうか。頭の片隅でいつも考えているから、こんな懐かしい夢を見たのだろうか。 黒白の格子柄の、紬のきものに袖を通し、青い帯をきゅっと締めると、店舗として使っている一階に降りる。 外へ通じる引き戸をガラガラと開けた瞬間、今朝の夢の理由がわかった。 昨日までの梅雨はどこへやら、ごんごんと音が立ちそうな勢いで、真っ青な空に入道雲が立ち上っていた。 街路樹からは、ミーンミーン、と初蝉の声が聞こえてくる。ああ、夏だ。わたしは思わず、大きく深呼吸して夏を吸い込んだ。 *** 夕方の六時。店が閉まる時間になっても、わたしはぐずぐずと暖簾を下ろさずにいる。 梅雨明け宣言が出されたこの日は、週末だったこともあり、若い女性が何人も連れ立ち、浴衣を買い求めにやってきた。 浴衣は家着のようなもの、あまり正式な場で着ていけるものでは本来ない。 でも、色とりどりの浴衣を体に当てて見て、はしゃいでいる女の子たちを見ていると、こういう楽しみ方もあるんだと思う。 きものは少しずつ形を変えて、これからの世の中にも伝わっていけば、それでいいと思う。 「……まだ、来ないのかな」 レジのお金をそろえながら、思わず呟いた独り言に、わたしは苦笑する。 こんな風に、季節が変わるときに、ふとやってくる、わたしにとっては、特別なお客さん。 朝ごはんを食べながら思ったことは「彼」のことだったのに、まだやってくる気配を見せなかった。 下駄に素足を通し、カラカラと音を立てながら引き戸を開ける。途端に飛び込んできた朱色の光に、眼を細める。 引き戸に手をかけて通りを見回すと、裏道へと抜ける細い坂道が視界に入る。誰もいないのを見て、今日は来ないのか、と何となく諦めがついた。 大通りをぐるりと見渡し、暖簾を下ろそうとした時だった。 「……まだ、入れるか?」 斜め下から、不意に落ち着いた声が投げかけられた。男にしては高く、女にしては低い独特な声音。声をかけられた瞬間、「彼」だとすぐに分かった。 「もちろん。待っていたのよ」 そう言って見下ろすと、まぶしい銀色の髪が、夕焼けに染められていた。 朱色の水彩絵の具を薄く溶いて、さっと刷毛で刷いたみたいな一面の景色の中でも、その瞳の翡翠色だけは、全く影響されていない。 わたしは大柄ではないけれど、わたしの肩くらいまでしか背丈がない、まだ子供だ。それなのに、いつも不思議なほどに大人びた顔をしている。 ちらりと、男の子の背後に視線をやる。そこには、あいかわらず無人の坂道が見えていた。 さっきわたしが無人なのを確かめ、視線をそらしてから数秒でこの男の子は現れた。 この方向からやってくるのは、あの坂を通るしかない。そして、どんなに走っても、数秒でここに来れるはずはないのだけれど。 今だって、自分で気づいているのかしら? わたしにも、電信柱にも、郵便ポストにも。長い長い影ができているのに、「彼」の足元には、影がない。 「どうぞ」 わたしは微笑むと店の中に体を引き、この世のものではない、男の子を店内に導きいれた。 *** ここ最近の着物ブームは、女性が主流だ。女性に誘われて男性が着ることもあると思うけれど、店にまでやってくる男性は少ない。 増して、男の子供の着物となると、なおさらだ。 ただ、数年前に、戦前までは貴族だったという屋敷から、大量にきものを譲ってもらった中に、男の子のものがいくつか混ざっていた。 さすがに尊い身分の子供が身に着けたもの、子供用といっても、子供子供したものではなく、小さな大人用と言っていいような色や素材のものが多かった。 今の男の子は、着物なんて着ないでしょう、という、売り渡してくださった老婦人の苦笑に、わたしも頷いたものだ。 結局、申し訳ないような値段で譲ってくださったのだけれど、それを店の片隅においてから数ヵ月後にふらりと、その男の子は現れるようになった。 一見して、不思議な子だと思った。 背筋がすっと伸び、身のこなしがきびきびとして、明らかに今の子供とは違っている。 誰かに似ている、と思って、明治生まれだったおばあちゃんをふと思い出した。そう、まるで時代劇の世界から抜け出してきたように見えるのだ。 言葉遣いも、しっかりとしていて発音も綺麗だ。どこの方言も感じられない、さらりとした言葉遣い。 そのくせ、外見は外国人そのものだった。髪はプラチナどころではない純粋な銀色だし、瞳の色は青く、肌の色も白い。 何者なのだろう、と思っていたけれど、「彼」の不思議さを知るにつれ、何も思わなくなった。 彼は、「日番谷冬獅郎」という存在で、他のなにものでもない。それだけ分かれば、十分だった。 今も「冬獅郎君」は、なんだか難しい顔をして畳の上に膝をつき、きものを取り出して眺めている。 まるで、書物を読んでいる書生みたいな表情に、わたしはなんだかおかしくなる。すいっ、とそのこめかみから頬にかけて、汗が流れ落ちた。 「……ありがとう」 大きな和うちわで、ぱたぱたと風を送ると、髪をそよがせて冬獅郎君が振り返った。 「暑い? ごめんね、ここにはクーラーがないから」 「くーらー? って何だ?」 「涼しくする機械のことよ」 不自然な会話にも、もう慣れている。わたしは冬獅郎君を仰ぎながら、背後に立った。 「このきものなんてどうかしら。麻でできているから、風通しがよくて、夏にはちょうどいいわよ。汗を掻いても洗えるし」 「不思議な色だな。御召茶か」 よく知っているわね。思わずそう言おうとして、口をつぐんだ。 御召茶は、「茶色」という名前からは想像がつかないけれど、青と灰色が混ざった青系の色だ。夏には、涼しげでちょうどいい色彩でもある。 ためしに引き出してみて、肩に当ててみる。翡翠色の目にとても合っていて、 「似合ってるわ」 お世辞でもなんでもなく、すんなりと声が出た。身の丈も、どうやらちょうどいい位だ。 「じゃあ、それにする」 「鏡で合わせてみなくていいの?」 「あんたの目は確かだからな。必要ない」 そんな嬉しいことを言われて、わたしは思わず微笑む。お店を開いて二年。 生計を立てられるようになったら帰るつもりだったけど、実はお金なんてどうでもよくて、確かな「眼」を持てた時に、一人前になれるのかもしれない。 「包んでくれ」 そう言うと、冬獅郎君は座ったままわたしに向き直った。いつものことだけれど、値段を聞くことはない。 どこかのいい家の子なんだろうと思うけれど、それなら親も連れず、ひとりで古着を買いに来るのは不自然だ。 どこか別の世界から、タイムスリップして現れたのだろうか。そんな子供染みた想像が浮かんで、おかしくなる。 きものを受け取って軽く整え、立ち上がって冬獅郎君を見下ろした時、右手で左肩を揉み解しているのに気づいた。 おおよそ子供らしくない仕種だけど、肩が凝っているみたい。疲れているのかな、と思う。 世間はそろそろ夏休みだし、もしかすると宿題に追われているのかもしれない。 「……お客さんからいただいた和菓子があるから、いかが? 量が多くて困っていたの。きものを畳むまで少し時間があるし」 そう言うと、とまどいがちに見上げてくる。堂々とした立ち振る舞いなのに、そういう遠慮ぶかいところが、何だか急にいたいたしいようにも思えて、 わたしはすぐにその場を立った。 お客さんにもらった、というのは嘘だ。わたしが昨日自分の分だけ、お店によって買ってきた。 「羽二重」という昔からあるお店で、そこの団子は文豪も愛したという、絶品の味わいだった。 みたらしと餡子の串団子をひとつずつお皿に並べ、緑茶には氷を落として、冬獅郎君の前に置いてきた。 ゆっくりと休めるよう、わたしはその場をはずす。そしてできるだけ時間をかけて、ていねいにきものを包んだ。 冬獅郎君のいる方向は、ことりとも音がしてこない。 「彼」がいったいどこから来て、普段なにをしていて、どこへ行くのか想像もつかない。 でもどうか、毎日が心穏やかなものであることを、祈りたいような気持ちになる。 まるで、あのいくつも年下の男の子に恋しているみたいだ、と自分でもおかしくなる。 たっぷり十五分くらいあけて、わたしは冬獅郎君のところへ戻った。 すぐに気づいて、忍び足になる。箪笥に背中をもたせ掛けて、スースーと寝息をたてていた。 皿に置かれていた団子は、餡子だけきれいに食べられていて、みたらし団子はそのまま、残っていた。お茶は空になっている。 仰いでいるうちに眠ってしまったのか、傍にはうちわが投げ出されていた。その額には、汗が光っている。 わたしはくすりと自然に微笑んでいた。傍に置いてあった手ぬぐいを取ると、額の汗をそっとぬぐってやる。 気づかないよう細心の注意を払ったはずだけれど、ほぐれていた眉間の皺が、ぐっと深まる。 あら、と思うよりも先に、手ぬぐいを取った手首をつかまれた。思いがけないほどに強い力に、驚く。 「やめろ松本。子供扱いすんじゃ……」 開かれた不機嫌そうな瞳が、わたしに向けられると同時に、ハッと見開かれる。 「わ、悪ぃ」 わたしはびっくりした顔をしていたらしい。慌てて手首を離して謝ったのを見て我に返り、首を振った。 「はい」 包みを渡すと、やっと自分が何をしにここへ来たのかはっきりしたみたいで、頷いて受け取った。 すぐにいつもの調子に戻ってしまったのを、ものたりないと思う。 お金を払って、スニーカーに足を突っ込んだ冬獅郎君を見送り、店先まで出る。 「……次は、松本と来る」 不意に、冬獅郎君がそう言った。 「四六時中顔を合わせてる女だ。うるさくなりそうで嫌だけどな」 うるさい、なんて乱暴なことを言いながらも、その言い方は穏やかだ。きっとその女の人も素敵な人なんだろうなと想像する。 ひとつだけ、冬獅郎君のことを知る。それがなんだか、ほっこりと嬉しかった。 「また、冬獅郎君に合うきものを見つけておくから」 そう言ったのは嘘ではなかった。卸に行く時も、無意識のうちに、「彼」に似合うきものを探している自分がいる。 冬獅郎くんは顔をあげて、わたしを見た。そして、引き戸に手を開けて、引き開ける。 「ありがとう。またな」 そう聞こえた瞬間、どう、と風がふきつけて、わたしは思わず目を閉じた。 夏のけだるい空気を吹き散らすみたいな、冷たい清水の中に飛び込んだみたいな、涼やかな風。 眼を開けると、そこにはもう冬獅郎君の姿はなかった。思わず店内を振り返ったけれど、風が吹いたなんて嘘みたいに、しんとしている。 夢、だったのかな。 もう一番星が黄色く光る空をながめながら、ふと考える。 「またな」。 言葉の余韻がよみがえり、わたしはひとり微笑むと、暖簾に手をかける。
ふと思い立って書いてみました。小川糸さんの影響を多分に受けた話になってます^^;
なんか、夢小説みたいな感じだなぁと書いてて思いましたが、「わたし」を自分に当てはめて読む、って読み方もできるのかも。
日番谷君、実は着物に困ってそうですよね。ソウル・ソサエティじゃ、子供子供したのしかなさそうだし、他のはサイズがでかそうだし(笑
こっそり現世に通ってたら面白いなぁ、って想像から生まれた短編でした。おそまつさまでした。
[2010年 7月 4日]