少女が去って行った後も、彼女が残していった感情の余韻が部屋の中に残っているようで、プレセアはしばらく座ったままでいた。
―― 片づけなきゃ。
そう思って、海と自分が使っていたティーカップとテーブルから取り上げる。洗い場に向かおうとした時、テーブルにぶつかりティーカップがが床に落ちた。あ、と声を上げるよりも先に、がしゃん、と音を立ててカップが砕ける。
「やだ。何をやってるのかしら、私」
しゃがみこんで、陶器のカケラを拾い集めながら、プレセアはほろ苦く微笑んでいた。

私の心は今、毛羽立った板のように、ざわざわしている。動揺している、と言ってもいいかもしれない。海が誰に心を寄せ、何に悩んでいるのか、一瞬で分かってしまった。かつて、私も、そうだったから。

長い長い時間の中で、特別な誰かを持つことを忘れてしまったひとを、一人知っている。
これほど傍にいるのに。これほどお慕いしているのに。どうして気持ちが伝わらないのかとひとり苦しんだ夜も何度もあった。彼にとって、愛すべき対象も守るべき対象も「セフィーロ」そのものであって、具体的な「誰か」ではありえなかった。分かっていても、「どうして」という気持ちは残って消えなかった。

彼の元にとどまるには、ひとつの選択肢しかなかった。
見つめ合うことができないのなら、せめて彼の隣で、彼と同じ方向を見ているしかない。
無茶をしがちな彼を支え、ともにセフィーロの再生のために力を尽くす日々は、充実してはいた。しかし、「ありがとう」そう穏やかな声で告げられる度、ちりりと痛む心はどうしようもなかった。昔の、彼を愛してやまなかったころの自分が「それでいいの?」とかすかな音で胸をノックする。

「『かつて』私もそうだった……じゃないわね」
プレセアは、ティーカップのかけらを拾うのを止め、いつの間にか手を止めていた。
「今だって、そうよ」
気持ちを押し殺しているのは私も同じ。ただ、海より少しだけ、気持ちの整理がついているだけだ。

私の中で、彼を想う気持ちは死ぬどころか、どんどん育ち大きくなっている。
彼が、海を大事に、大事に扱っていることを知っている。そして海も、彼に恋している。私ではついに届かなかった手は、海ならいつか、届くのだろうか。
それじゃあ、私は、私は――

はっ、とした。思わぬことを考えていた自分自身に、ほろ苦い笑みを浮かべる。私は、あのしっかり者で可愛らしい少女に、嫉妬しようとしていたのだろうか。
ふぅ、とプレセアは息を吐き出す。そうすると、少し気持ちが軽くなった。嫉妬、なんて、感じなくなって久しい感情だ。私は、まだ彼をそんなに想っていたのか。そう思うと、醜いはずの感情をそっと抱きしめたくなった。

―― 私は、彼をお慕いしている。でも、海のことも大事に思っている。
感情の種類は違っても、「愛情」という大きな言葉でひとくくりにできる。どちらとも一緒にいたいし、どちらも幸せになってほしい、その気持ちに偽りはない。
プレセアは、砕けたティーカップをそのままに立ちあがった。どうしても今、話をしなければならないような気持ちだった。


**


「―― 失礼します、導師クレフ」
頭を下げ、クレフの自室に足を踏み入れた。
「プレセアか。今日は御苦労だったな。入るがいい」
いきなり部屋にやってきたプレセアを、クレフはやさしく迎えた。空中に出現した椅子に、礼を言って腰掛ける。
「申し訳ありません。お仕事中でしたか?」
「いや」
クレフは、机の前に座り、プレセアを見返した。そして、机の上においてあった本をプレセアに示してみせる。
「異世界の本ですね」
「ああ。興味深いが……私には、お前の言う通り情緒が足りないようだ」
ふふ、とプレセアは笑った。そして、椅子から立ち上がると、クレフの元に歩み寄った。

座ったまま、クレフはプレセアを見上げてくる。その華奢な肩に、どこからか部屋の中に紛れ込んで来た、カナリア色の小鳥が止まっている。
「……ウミが、魔法を使えなくなってしまったと言っています」
「……なに?」
やはり、クレフは気づいてはいなかったらしい。目を見開き、プレセアを見返してくる。
「本人から聞いたのか」
「ええ。今日、使えないことに気づいたと」
「ウミは無事なんだな?」
「ええ」
「ヒカルとフウは魔法は使えるか?」
「ええ、そのようですわ」
矢継ぎ早に問いかけると、クレフは黙り込んだ。ゆっくりと、プレセアは言葉を続けた。

「ウミには今、誰よりも大切なひとがいます」
意を決して、そう切り出した。クレフは一見無反応に見えたが、その視線がわずかに揺らいだのを、プレセアは見逃さなかった。
「……でもウミは、その気持ちを押し殺してしまおうとしています。自分の『心』を否定するものに、『魔法』は使えない。私はそう思いました。……導師クレフは、どう思われますか」
「……」
プレセアの言葉に、クレフはどの感情も示さなかった。その無表情は、彼女にとっても見なれぬものだった。プレセアは、わずかに視線を伏せた。
「そんな気持ちは、あなたには理解の外なのですか?」

その大きな青い瞳には、悲しそうなプレセア自身の姿が映っている。
何も、言ってくれないのね。本当は、全てわかっているのに。
「……あなたは、ずるいですわ」
言葉はわずかに震えた。


クレフは、掌を背後に残されていた椅子に向けた。すると、音もなくスッと椅子が近づき、プレセアの背後で止まった。
「座れ」
とん、と肩を押されて初めて、体が強張っているのに気づいた。
「申し訳ありません」
そう言って座る。海のひたむきな気持ちが切なくて、自分自身の気持ちも呼び起こされて、気づけばここに来ていた。でも、一体何がしたくてここにいるのか、もう分からなくなっていた。いきなり、感情的になったことが恥ずかしい。できることなら、今すぐこの場から逃げ出したいくらいだった。

クレフは立ったまま、うつむいたプレセアを見下ろした。
「……長く生きすぎたのかもしれん」
「え?」
プレセアが見上げると、クレフは甘える小鳥の頭を、指先で撫でてやっていた。
「私は、あまりに多くの人の死を、見送りすぎた。どうしても失えないと思った人もいた。それでも、指の間から砂が落ちるように、全ていなくなった。この手には、誰も残らなかった。そして私だけが今も生きている」
クレフは、自分の掌を見下ろしていた。その視線に、苦しみとも怒りとも悲しみともつかない感情が閃いたのを、プレセアは確かに見た。プレセアは、クレフがそんな顔をするのを初めて見た。
「失って、失って、失ってゆく。……いつまで、同じことを繰り返さねばならぬのかと、思うこともある」
「クレフ」
プレセアは、彼の手を取った。それ以上、聞いていられなかった。

「……みな、私のことを誤解している」
クレフは取られた手はそのままに、わずかに微笑んだ。
「私は無力だ」
「だから」
うまく、頭の中で言葉がまとまらない。
「だから、……」
ただ、思った。確かに皆は、クレフが万能であると信じているから、彼を敬っているし最高責任者として当然のように認めている。
でも、プレセアは違う。きっと海も違う。思い悩むこともあれば、倒れることもあるクレフの生身の部分を知っている。強いからではなく、彼が弱さを持っているからこそ、傍にいたいと思うのだ。

クレフは、もどかしい表情を浮かべたプレセアを見ると、微笑んだ。
「……私の望みは、おまえたちが普通の幸せを手に入れ、生きて行ってくれることだ」
「……おまえたち、とおっしゃるのですね」
プレセアは、ひっそりと微笑んだ。
「あなたは……やっぱり、ずるいですわ」





* last update:2013/8/26