クレフが、部屋の奥の方で、薬草を擂る音が聞こえてくる。海は、椅子に腰かけ、オットマンに右足を乗せて待っていた。その足首の部分は、見事に赤く腫れ上がっている。あの後、クレフが魔法でその場に出してくれた家(奇しくも、モコナが出してくれた家と全く同じだった)に入り、悪化するから治療が先だと言うクレフを押し切って、片足で悪戦苦闘しながらシャワーを浴びたのだ。今は、さっぱりと乾いた白いワンピースに身を通し、髪も乾かしていた。あんな風に泥まみれになったことなんて、人生に一度もなかった。できればあんな体験は、あれで最後にしたいと思う。

「随分長い準備だったな」
片手に、緑色の塗り薬を入れた箱を持ち、もう片手に湿布を持ったクレフが部屋の奥から現れた。腫れた足首を見下ろし、ため息をつく。
「だから、悪化すると言っただろう」
「……ごめんなさい。でも泥まみれでいるのだけは嫌だし……」
「全く」
小さな筆のようなもので、すくった塗り薬をぺたりと海の足首に置いた……とたん、海は悲鳴を上げて飛び上がった。
「つ……冷たっ!!」
「冷たいくらい我慢しろ」
クレフは平然としている。
「鬼教官!」
「オニキョウカンとは何だ?」
「風に借りた本には載ってなかったの?」
「どうせ碌でもない意味なのだろう」
軽口のつもりだったのに、語尾がわずかに震えた。その時になってようやく、海は自分の足が、全身が小刻みに震えているのに気がついた。「死ぬ」と初めて心の底から思った時の衝撃が、後からじわじわと恐怖となって蘇ってくる。海はクレフの顔をそっと見やった。今、海の足に触れているクレフが、彼女が震えているのに気がつかないはずはない。でも、彼は何もいわなかった。そして、湿布を貼ってくれるクレフの手はやさしかった。ずきずきと脈打つようだった痛みが、じんわりと目に見えて引いていくのに、海は驚いた。
「応急処置だ。もどったら、フウに治してもらえ」
湿布や薬を片づけながら、クレフが言った。

クレフは忙しい身だ、いち早く城に帰らなければいけないのだろうと思ったが、もう少しだけ、話していたかった。
「ね、クレフ」
「何だ」
「どうして、一瞬でここに来れたの?」
「あの宝玉だ」
クレフは事もなげに答えた。
「あれは、私とお前たちを繋いでいると言っただろう。私がお前たちを呼び戻せるのと同様に、私がお前たちのところに移動することもできる。ただし、後者のほうが何倍も早い」
「……だから、来てくれたのね」
「お前の声が聞こえた。お前が、魔法が使えなくなったと聞いていたから、ちょうど探していたのだ」
「え? 誰に聞いたの?」
「プレセアだ」
「……」
「お前のことを心配していたぞ」

優しく励ましてくれたプレセアのことが頭をよぎった。クレフには言わないでと言ったものの、言わずに済む問題ではないのは明らかだった。結果的に、プレセアが伝えていなければ、クレフは海を探さなかっただろう。クレフに見つけてもらえなければ、海は今頃、死んでいた。それを思うと、改めてぞくりとした。

「……プレセアに、お礼を言わないとね」
「ああ。……もう、ヒカルやフウも城に戻っているだろう。心配させないうちに、城へ戻らねばな」
クレフはそう言うと、壁に立てかけていた杖をかざした。宝玉が輝くと同時に、あたたかそうなストールが現れる。
「そんな恰好では冷えるぞ」
海にふわりと投げて寄こした。頭からかぶった形になった海は、ぷは、と顔を出す。
「だ、だいじょうぶよ。ここあったかいし……きゃぁっ?」
言い終わるよりも前に、もう一度クレフの杖の宝玉が輝いた。すると、家がぐにゃりと歪み、まるでモコナの口に吸い込まれるように、宝玉に向かって家が収束していく。二度瞬きをした時には、家は跡かたもなく、雨が止んだ後のしっとりとした空気が海を包み込んだ。

ここから歩いて帰るのはちょっと辛い、と思った時、今度は足元がモコモコと動いた。
「ちょっと、今度は何、何!?」
揺れる地面にしがみつくと、ふわふわした毛に触れた。
「グリフォン……」
ライオンの体に翼を持ち、鳥の頭を持ったクレフの精獣が、くるりと首だけ振り返って海を見ていた。
「魔法を使う時には、事前に説明してもらえると、心の準備ができて嬉しいんだけど……」
「私がお前を傷つけるような魔法を使ったことがあるか?」
「魔法はないわ。その杖で叩かれたことはあったけど」
「よく口が回る」
苦笑したクレフが、ひょいと海の隣に着地する。すると、グリフォンは無理やり体をねじ曲げて、背中のクレフに甘えようと頭を差し伸ばしてきた。
「城まで頼む」
クレフが頭をなでてやると、ごろごろと喉を鳴らした。そして翼を大きくはためかせると、ふわりと空に向かって舞い上がった。

前に乗った時は、アルシオーネに追われるという緊急事態だったからか随分速く感じた。でも、今のグリフォンのスピードは、追われていないためか、主人を背中に乗せているためか緩やかだ。
「あまりきょろきょろしていると、落ちるぞ」
「子供じゃないんだから……」
言い返そうとして振り返ると、クレフが手を海の方に差し伸べていた。
「……ありがとう」
そう言って、手を取る。海よりも華奢で小さいのに、なぜだろう、全身をつつみこまれるような暖かさを感じた。

しっとりとした風が、頬を撫でてゆく。雨が止んだ空には、綿のような雲の合間に、月が浮かんでいた。月光が降り注ぎ、クレフの銀髪はきらきらと輝いている。細かな、淡い光の粒子が落ちてくるのが見えるようだった。
こっちを見てほしい、という気持ちと、見ないでいてほしい、という気持ちが入り混じる。今振り返られたら、もう色んな感情を押さえられない気がした。でも、海には分かっている。だからこそ、クレフは振り向かないと。

「……ね、クレフ」
「何だ」
「月が、綺麗ね」
クレフは海に背中を向けたまま、月を振り仰いだ。真っ白な光が、セフィーロの夜の闇に少しずつ輪郭を持たせている。このまま、ずっと一緒に、夜空を行けたら幸せだと思ってみる。たとえ、クレフの答えを聞くことがなくても。
「……あぁ」
不意に、クレフが口を開き、海は息を飲んだ。クレフの表情は、顔をそむけているために見えない。
「私も、そう思う」
とっさに、答えが出なかった。もう、何も言わなくていい。何も返されなくていい。満月の光が体中に染みわたり、海はしびれるような感覚を味わった。答える代わりに、クレフの手をきゅっと握った。

そんな二人を、月だけが見ている。


Love me, tender fin.





* last update:2013/8/26