遥か下から吹き上げる風が、銀色の前髪を揺らしていた。 眼下には、豆粒のような東京の街並みが広がっている。地上から、300メートルほどの高さはあるだろうか。 東京タワーの展望台に、日番谷は佇んでいた。ただし、展望台の中ではなく、外の鉄骨の上だ。 かすかに聞こえた悲鳴に振り返ると、すし詰めになった人々が、窓際からおそるおそる下を眺めている。 ―― キャーキャー言うならなんでわざわざ、こんな高いとこに来るんだ。 人間の考えることはさっぱり分からん。 1ヶ月前、朽木白哉を「なつめ堂」に紹介したのは、まったくの偶然からだった。 懇親会の真っ最中に、隣に座っていた白哉が、日番谷が来ていた着物を質がいいと褒めたのだ。極めて珍しい……というか、初めてのことだった。 この着物を買った店に今から行ってみるかと戯れに返すと、頼むといわれたから心中驚いた。 ――「でも、古着だぜ? いったん誰かが着たものを、好んで身につけるあんたじゃなさそうだが」 ――「全てがそうではない。訳あって誰も袖を通していないものもある。現に昔、直接現世に買い付けに出向いていたこともある」 ――「へえ」 確かに、なつめ堂でも実質新品の「古着」は少なくない。白哉が自分と同じ行動をしているのを意外に思いながら、ちらりと周囲を見渡した。幹部級の全ての死神が揃う、定例の懇親会だった。 そろそろ場が温まってきていて、踊るもの脱ぐものと騒がしいことこの上ない。 ――「今、行くか?」 ――「ああ」 単に、面倒な懇親会から抜け出す口実にするだけだったら、棗の店に連れていかなかっただろう。 たとえ案内する相手が死神の隊長だろうが、それは棗に対して失礼だからだ。 でも白哉が着物に示した興味は本物に思えたし、確かにあの店においてある上級の着物なら、彼が来ていてもしっくり来る気がした。 それに……白哉が常連客になれば、棗にとってもいいカネヅルだと踏んだのだが、これは予想以上だった。 あの後すでに一度、白哉は付き人を連れてなつめ堂に立ち寄っているらしい。 白哉を紹介したその日の夜、棗と交わした会話が耳をよぎっていた。 ――「じゃ、東京タワーってのは、人間の懐古主義の塊みたいなもんだな。言うならデカイ墓だ」 人間は、死んだ後も自分のいた痕跡を残したがる。それは形のある墓だったり、人の記憶の中だったり、さまざまだ。 もっともそう思うのは、人間だけではないだろうが。 ――「そうかもしれないわね」 湯呑をおき、頬杖をついた棗はそう言って微笑んだ。 ――「でもわたしは、死んでしまったら、綺麗さっぱり消え去ってしまいたいわ。先に死んだ人と再会できる、とか。来世があるとか言うけれど、そうでないことを願うわ。 死んだら、無になる。それが一番いいと思うわ」 ――「……それは」 ――「言わないでね」 反応を返す前に、つ、と指先で口元を押さえられた。言葉に詰まると同時に、指は離れていく。 日番谷の口から、あの世ではどうなるのか聞きたくはないのだろう。もっとも、それを話すことは禁じられている。 そういわれたとき、なんとも言えず、嫌な気分になった。棗と一緒にいる時には珍しい感情だった。 ――「……なんで、そう思う」 ――「秘密」 そういって微笑んだ棗が何を考えていたのか、日番谷には分からない。意外なほど、ショックでもあった。 かつて合間見えた棗の祖母のように、本当にささやかでもいい、死んだ後に覚えておいてもらいたいと願うのは、自然なことだと思っていた。 そして、死んだ人を恋しく思うことも。棗が声を上げて泣いたのは、日番谷の知る限り、祖母が死んだ時だけだ。 それなのに、自分は消えてしまいたいというのか。 大切な人を失えば、周りの人間がどれほど辛いか、わかっているはずなのに。 ――「人間は、いいよな」 その時口をついたのは、まだ酔いが少し残っていたからか。 ――「短い人生を好きなように生きて、死神みたいに長い寿命の奴に記憶だけ押し付けて死んでよ」 日番谷は、眼下いっぱいに広がる東京の街並みを見下ろした。 3000万もの人々がこの瞬間にも笑ったり、怒ったり、泣いたり悲しんだり、日々を生きている。 でも、100年後――この景色の中にいる3000万人の人間は、もう誰もいない。 突然、ぞくりとした。100年後、俺はいったいどんな気持ちで、棗のことを思っているのか。 日番谷は視線を逸らし、東京タワーを睨むように見上げた。 死神としての長い長い寿命の中で、一体どれほどの塔を、自分の中に積み上げなければならないのだろう? ――「ごめんね」 棗の言葉が耳によみがえり、日番谷は視線を伏せた。 日番谷は、棗の過去を聞いたことが一度もない。 棗が、日番谷の過去を自分から一度も尋ねたことがないためだ。 それは、暗黙の諒解として、初めて会った時から二人の間に横たわっていた。 これからも尋ねることはない――きっとない。 でも、その深さをふと想った。
2014/1/26(Last update; 2014/1/27)