空気を引き裂くような一声を上げ、鵯(ひよどり)が青空を一直線に飛んでゆく。
一面の氷原に鎖されていた台地にも雪解けの時が訪れ、よく見ると草が雪を持ちあげている。
延々と続くかに思われた冬も、終わりを告げようとしていた。
高台にある古びた寺の軒先に、鞍をつけた葦毛の馬が一頭、繋がれている。「瑞雲(ずいうん)」と名付けられた、四番隊の神馬の一頭だった。
障子が何枚か破れているが、戌吊周辺の建物としてはかなりまともな方だった。

その中で一番小奇麗なまま残っている南向きの八畳間で、卯ノ花と、ひよ里と平子の三人が向き合っていた。
布団の上に上半身を起こした平子の胸元には包帯が見えたが、顔色は常人と同じくらい健康に見える。
卯ノ花が話し終わると、ひよ里と平子は同時に、ふぅん、と鼻を鳴らした。
「釈然としませんか? お二人とも」
「釈然とする訳ないわ。ウチら、ええ面の皮やん」
「隅におけん女やったんやなぁ、その緋真サンって言うんは。さすがあの朽木白哉の嫁だけはあるわ。最後まで会えんかったんは可哀想やなぁ」
二人はそれぞれに感想を漏らす。ひよ里が平子を睨みつけた。
「何いい人ぶっとんねん真二。詰めが甘いんや、その帯刀って奴。そんなに惚れとんならどこまでも一緒に行けばよかったやん」
「無粋やなぁ。それじゃ『約束』ができんやろ。お前には男の浪漫は分からん」
「分・か・る・か! 何偉そうにウチを除けモンにしとんや、このハゲ!」

やいのやいのと言いあう二人に、卯ノ花は楽しそうに笑いだす。バツが悪そうな顔をして、二人は黙った。
卯ノ花は、ついと立ち上がると、障子を少しだけ開けた。そして、寺から延々と、地平線まで広がる原野を見下ろした。
「私は、羨ましいと思います」
視線を外に向けたまま、ぽつりと言った。
「羨ましいって、どっちがや」
平子が卯ノ花を見上げる。ひよ里が、つられるように立ち上がると、卯ノ花の隣に並んで原野に視線を向けた。

「ひよ里さん。あなたも、東雲でこの原野を駆けて、痛感されたでしょう。この流魂街が、どれほど広いか。特にある目的を持った人々には絶望的なほどに。
それを知りながらも、どうしても探し続けたい相手を持つ人も。それほどの情熱を持って探してもらえる人も。幸せなのだと思います」
「そんなもんかぁ?」
ひよ里は肩をすくめたが、否定はしなかった。
「もっとも、その人が傍にいるというのが、言うまでもなく一番幸せなことですが。傍にある幸せには、案外気がつかないものです」
卯ノ花はそこまで言って言葉を切ると、平子とひよ里を見比べた。二人は一瞬視線を交わし、
「キモッ!」
ど同時に目を逸らす。卯ノ花は声をたてて笑った。

夕暮れに近づき、豊かだった午後の陽にも陰りが見えはじめている。
「……卯ノ花隊長、そろそろ瀞霊廷に帰った方がええで。夜はここは冷える」
平子の言葉に卯ノ花も頷き、枕元に戻ると医療器具を風呂敷に包み直した。
「あの薬が効いていて安心しました。ただ、あと2・3日は寝ていた方がよいですよ」
「……おおきに」
瀞霊廷唯一の医療隊として、忙しくないはずはない。それなのに、隊長直々に見舞いに来てくれた。平子は、卯ノ花に頭を下げた。
「……いつ瀞霊廷に戻られても、良いのですよ」
「無理やな」
平子は言下に否定する。
「勘違いせんといてや。誰を恨んでるわけでもない。でも、ワシらはあの瀞霊廷の組織そのものに、疑念を持っとるんや。
……あの組織は災厄を生む温床や。何千年もかけてあの形になったんや、今さらそうそう変わらん思うけどな」
卯ノ花は、問いかける前には、すでにどのような答えが返されるか予想がついていたらしかった。少し淋しげに、微笑む。
「そうですね。……失言でした」
「とにかく、この借りはいつか返すからな」
静かに、卯ノ花は首を振る。
「いいえ、かまいませんよ。貴方は私の大切な元同僚ですから。……それに、用事もありましたから」
「へえ用事。なんにしても、ありがとな」

卯ノ花は一礼すると、軽やかに部屋を出て行った。彼女がいなくなってからもしばらく、花のような残り香がしばらく残っていた。
平子とひよ里は、顔を見合わせる。
「ところで、用事ってなんや?」
「へえ用事。って分かったようなクチきいてたんはお前やろ、ハゲ」
ひよ里は卯ノ花が閉めて行った障子を再び、何気なく開ける。開けた瞬間、あっちゃぁ、と声をあげた。
「な、なんやひよ里!?」
「しもた。東雲、一緒に連れて帰られよった」
ひよ里は、顔じゅうで渋面を作りながら、数日前に自分が借りた神馬の名を挙げた。
「なにィ?」
平子が、胸の傷を庇いながら立ち上がる。二人して障子の向こうを見やった。

遥か遠くを、瑞雲に跨り卯ノ花が駆けてゆく後ろ姿が見える。その隣に、東雲がぴったりとつけていた。
「さすがしっかりしとるわ、あの姐さん……」
「感心しとる場合か!」
とはいえ、この距離で神馬に追いつけるはずもない。二人は諦めて、一人と二頭の後ろ姿を見送った。


**


「おーい、邪魔するよ」
十番隊隊首室の扉を押し開けた京楽は、無人の隊首席と、長椅子に座って煎餅を頬張っている乱菊を交互に見た。
「隊長になひかごほうでふか」
口の中をもごもごさせながら乱菊は答えたが、京楽はそれくらいでは突っ込まない。
「ああ、ちょっと親交を深めようと思ってね」
「親交って」
乱菊はごくり、と茶を呑み込んでから答えた。
「ウチの隊長が、そういうの大嫌いって知ってるでしょうに。特に京楽隊ちょ……」
「そんなことよりもさ」
京楽は思い切り乱菊を遮ると、勝手に向かい側の長椅子に腰を下ろし、乱菊の方に身を乗り出して来た。
「涅隊長がついに、野分を十番隊に引き渡したんだって? 総隊長の再三の指示にも従わなかったんだよ、あの人。一体どんな魔法を使ったんだい」
「あー、それですか。隊長とあたしもよく知らないんです、実は。久徳のオジサマと涅隊長が話しあいをされたのは知ってるんですが」
乱菊はつぎの煎餅に手を伸ばしながら答える。
「ああ、久徳君」
京楽は意味深に、真央霊術院時代の同期の名前を口にした。
「それなら納得だね。彼ならやりかねない」
「なんでそう思うんです?」
「ま、古い付き合いだから、って言っておこうかな。とにかく僥倖、日番谷くんも安心だろう」
乱菊はわずかに肩をすくめた。
「安心っていうかもう、隊長は大喜びですよ」
「へえ大喜び。日番谷くんがねぇ……大喜び?」
京楽は目を丸くした。
「そんなキャラだったっけ?」
乱菊は微妙な表情を返した。微笑ましいし見守ってやりたいが、今いち理解できないし乗りきれない。そんな感情が顔に現れている。
「野分に会いに行く時間を作るために、隊長ったらいつも以上に仕事熱心なんです。こないだなんて、休み時間過ぎても戻らないから探したら、一緒に寝てたんですよ」
京楽はあははと笑いだす。
「いいじゃない、君の隊長がそれで満足してるんなら。何が不満なの」
ばりばりぼりんと煎餅を飲み下す乱菊を、面白そうに見やった。
「いえ、いいんですけどねもちろん。でも隊長もそろそろ、女と好いた惚れたの話があっていいと思うんです。相手が馬って言うのがちょっと」
「生産性がないって?」
「ウチの隊長を下ネタで汚さないでください」
「話を振ったのは君でしょうに」
京楽は苦笑いした。乱菊はそのまま思った通りを口にしているのだろうが、本当はただ、日番谷にかまってもらえなくなったのが淋しいんじゃないかと想像する。
そんな目で見られているとも気がつかず、乱菊は視線を明後日の方向に逸らせた。
「そういえば……こないだの話はどうなったのかしら」
独り言のような小声を耳聡く聞きつけた京楽が、眉を上げる。
「色恋沙汰かい?」
「……と思ったんですけど。相手が誰なのか聞き出せてなかったんですよね」
切なく自分の名を呼ぶ女。その存在を乱菊に指摘された時、日番谷は柄にもなく動揺していた。
全く心辺りがないわけではない、ということだ。彼は鈍いが、決して初心ではない、と乱菊は勝手に思っている。
「……まぁ、女あしらいが上手い日番谷くんっていうのはあまり見たくないけどね。それより、噂の彼はどこへ行っちゃったのかね。例の野分かい?」
「あ、今回は違います。朽木邸です」
「朽木邸?」
京楽は首を傾げた。緋真をめぐる騒ぎから早二週間、片腕を失う重傷を負った白哉の傷も癒え、朽木邸はようやくここ数日で平穏を取り戻していると聞いていた。
「ほら、あれですよ」
乱菊は笑顔で、自分の左腕のあたりをポンと叩いて見せる。
「ああ、あの日だったね」
京楽も微笑み、朽木邸の方角をちらりと見やった。


**


ルキアは一時間ほど前からうろうろと、廊下を行ったり来たりしていた。
死覇装の襟元もきりりと正しく着物には皺ひとつなく、どんな正式な場にも出ていける格好である。
もうそろそろ、上官である浮竹が、ルキアに「あるもの」を届けに来るはずだった。
「落ちつけ……落ちつけ」
別に今さら何が試されるわけでもないのだ、と自分に言い聞かせる。しかし、落ちつかないのはどうしようもなかった。
外は明るく、春を思わせる柔らかな青空が広がっている。朽木邸の庭の木々も芽が膨らみ始め、凍てつくようだった空気も緩みつつあった。

鳥が囀り交わす声に混じって、馬が短くいななく声がした。
「黒丞?」
声が聞こえた方を見やる。するとほどなく、ぶるる、と鼻を忙しなく鳴らしながら、黒丞が現れた。
相変わらず、鋼のような筋肉に全身を覆われた、惚れ惚れするような美しい馬だった。黒い鬣が艶々と日光に光っている。
黒丞は苛々とした足取りで庭に入って来ると、ルキアを見た。敵意もなければすり寄って来る訳でもない。そのまま、また周囲に視線を戻した。

あれから、ルキアは黒丞に一度も乗っていない。
瀞霊廷から戌吊まで2時間足らずで駆け抜け、周囲を驚かせた一組でありながら、互いに互いの存在を気にかけなくなっていた。
今もし黒丞に跨れば、きっと喜ばれはしないだろうが、前のように力づくで降り落とすことももうないだろう。
ルキアは黒丞を「理解した」と思った。だからもう、彼女に挑んだりはしない。おそらく黒丞にとっての自分も同じだろう。

「一体、どうしたのだ」
ルキアは落ち着きがない黒丞に、思わず話しかけた。
しかし黒丞は逆に、お前こそどうして落ち着きがないのだと言わんばかりに、堂々と睨み返してきた。
そして、宙を向いて軽くいななく。あちこちを見まわす素振りからは、明らかに何かを探している。
そういえば、とルキアは思い出す。兄の白哉は、昨日から六番隊舎に泊まり込んで屋敷をあけていた。
相変わらずだな、と苦笑を洩らす。この屋敷に白哉がおらず、自分だけが取り残されることが、一種のトラウマになってしまっているのかもしれない。
「兄様を探しているのか」
ルキアが呼びかけると、黒丞は振り返り、ルキアをじっと見返して来た。今の今までそっけなかったくせに、その分かりやすさに可笑しくなってくる。
「もうすぐ戻られる。気になるなら正門の前に行け」
そう言って、正門のほうを指差してやる。
その言葉の意味を全て理解したわけではないだろうが、黒丞は少しの間首を傾けると、とっとと正門に向かって駆けだした。

「おい、黒丞はどこだ!」
遠くから、馬丁達が叫びかわす声が聞こえる。
「また白哉様を探してるんだろうよ。全く、盛りがついた猫みてぇに……放っておけ。白哉様もそう仰ってた」
思わず、聞いていたルキアから笑いが漏れた。
「羨ましいぞ、黒丞」
思わず、そう呼びかけていた。
あんな風に、誰にも自分にさえもおもねることなく、恋しい男を探して鳴いて歩いたら、楽しいだろうかと思ってみる。
我ながら柄でもない、と思う傍から揶揄するもうひとりの自分がいる。
しかし、思っているだけなら外に漏れるでもない。いろいろな顔を見せ、いろいろに思う自分自身を、少し楽しめるような余裕が出来ている。
まだ、感情をうまく処理して相手に伝えることは苦手だが。ルキアはそっと手を胸に置いた。



「何、笑ってんだ」
突然後ろから声を掛けられ、ルキアは思わず、悲鳴と共に振り返った。
「ひひひつがや隊長! いつからそこに!?」
「今さっきから」
日番谷は、思い切りのけぞったルキアを怪訝そうに見た。
彼に会うのは、戌吊の一件以来で、二週間ぶりだった。
寒さを好むこの男らしく、まだ吹く風は冷たいというのに軽装で、隊首羽織さえ着ていなかった。
寒風のせいか顔は真っ白で、翡翠色の瞳がますます映えて見える。

日番谷は、ちょっと立ち寄ったという素振りで懐に手を入れると、取り出したものをひょい、とルキアに向かって投げた。
宙に弧を描いて飛んでくるそれが何か気づいたルキアは、慌てて両手を差しだす。
ずっしりと重みを持ってルキアの掌におさまったのは、真新しい副官章だった。。
「『これを持って、朽木ルキアを十三番隊副隊長の役に封ずる』……。励めよ」
「え、あ……はい!」
この役目は浮竹のはずだったが、不意打ちを食らった形のルキアは、ただぺこりと頭を下げた。
ルキアの疑問に勘づいたか、日番谷はあぁ、と頷く。
「浮竹は昨夜からまた寝込んでてな、俺が頼まれた。近々任官の宴があるんだろ? そっちで大々的にやってくれ」
「は……はい」
あまりに思っていたのと違うぞんざいな流れだったが、それもこれも、日番谷が早く話を切り上げようとしているから、らしい。
元々彼を遠ざけたのはルキアな上、彼がそれに気づいていないはずもなかった。今さらのように後ろめたさでいっぱいになる。
掌に受け止めた副官章は、日番谷の体温でほんのりと温かかった。
「じゃあな、おめでとう」
その言葉を残し、日番谷はくるりと背を向ける。遠くの方で黒丞のいななきが聞こえた。

―― 全く。本当にうらやましいぞ黒丞……
浮竹は本来、情に篤い男だ。自分の副官の任官ともなれば、どれほど熱があろうと倒れそうだろうと役目を果たすはずだ。
しかし敢えて日番谷にその役を託したのは多分、最近の二人のぎこちない関係を知ってのことだろう。
せっかくの機会を与えてくれたのに――呼びとめたいという気持ちはあっても、どう声をかければいいものか分からない。
「……なんだ?」
それなのに日番谷は動きを止め、少し目を丸くしてルキアを見返して来た。
「え?」
「その手」
ルキアは、日番谷の方へ差し伸ばした自分の手を、他人のもののように見た。正直、手を動かした記憶がなかった。
「あ……あの。せっかくですし、少しだけ……休んでいかれては? 届けてくださったのに、そのままお返しすることなど……」
我ながら後付けのような言い方に、珍しくも口ごもってしまう。日番谷はそんなルキアを一瞥したが、拍子抜けするくらいあっさりと頷いた。


コッ、コッ、と鹿威しが単調な音を奏でる合間に、雪解け水がさらさらと流れ落ちる音がする。
ルキアは朽木邸でも最も日当たりがよく、すごしやすい和室に日番谷を通した。そこは、緋真が生前使っていて、今は仏壇が置かれている部屋でもある。
「つければいいだろ」
両手で温めるように副官章を持ったままでいると、日番谷がぽん、と自分の左腕を叩きながら言った。ルキアは複雑な笑みを浮かべる。
「しかし、本当に私などが、よいのでしょうか。あの時は結局、兄様に助けていただいたのに。
それに、十三番隊には虎徹三席も、小椿三席もいらっしゃるのに、お二人を差し置いて……」
「怖いか?」
鋭い口調で、日番谷が言葉を挟んだ。怖い……たしかにそうかもしれないと、ルキアは思う。
ただ、たとえば敵に囲まれた時のような怖さとは違う。十三番隊で二番目の地位につく者として、部下の命を預からねばならない怖さだった。
今まで、無席の状態から一気に副隊長になったからかもしれない。副隊長への任官を申し渡されてから、実は眠れない夜が何度もあった。
あの志波海燕さえも命を落としたのに、自分に務まるのだろうか? 考え出すと、悪い方へばかり行ってしまう。
ルキアが黙ったままでいると、日番谷はため息をついた。
「その恐怖を克服できる言葉はどこにもない。周りの誰も助けてやることもできねぇよ。克服したければ、逃げずに副隊長としての経験を積んで行くほかねぇんだ」
「……はい。失言でした」
ルキアは小さくなる。言い訳をしたり、弱音を吐いている場合ではないのだ。
そんなことに時間を費やす暇があったら、自分の力不足を補うために努力するべきだ。もう、賽は投げられたのだから。

そんなルキアを見て、日番谷の視線が和らいだ。
「朽木白哉も俺も、あの時隊長として見届けたつもりだ。あの一撃は本物だった。兄貴を一度は退けた敵に打ち勝ったんだ、自信を持て」
でも、と口をついたが、ルキアは言葉を喉の奥に押し戻す。
帯刀と斬り結んだあの時、無我夢中であまり記憶がないくらいだ。ただ、日番谷に教えられた言葉だけが、頭の中にひらめいたのを覚えている。
ルキアにはまだ、自分の戦い方が見えていない。全て、他人の真似ごとにすぎない。副隊長になった以上、そう簡単に教えを請うこともできない。
「……はい。ありがとうございます」
「しかしお前の兄貴は、よくお前が副隊長になるのを認めたな。ずっと嫌がってたんだろう?」
素朴な疑問を呈した日番谷に、ルキアは思わず苦笑した。
「兄は、私が戌吊に現れた時、姉と私を一瞬見間違えたそうです」
「……知ってる」
あの時、白哉の口が「緋真」と動いたのを日番谷も見ている。日番谷が初めて見るほど、驚愕の表情を浮かべていた。ルキアはほろ苦く微笑んだ。
「その後の私の言動を見て、気づいたそうです。姉と私は、全く別の人間だと。姉は誰かに護られて輝きを増す女性だったそうですが、
私はきっとそうではないのです。護られるより、護る方が性に合います」
お前と緋真は違うのだな。二人で向き合った部屋でそう言われた時、白哉の口調は決して湿っぽくはなかった。

日番谷は物思いに沈んだルキアをじっと見つめたが、不意に言った。
「……朽木。前も言ったが、お前は別の人間になる必要はねぇ。姉になる必要もなければ、志波海燕になる必要もねぇんだぞ」
「……そうですね」
ルキアは唐突に熱くなったまぶたに力を入れ、日番谷を見返した。
「自分なりの生き方を、していきたいと思っています」
「それでいい」
日番谷は綺麗に微笑んだ。


胸がいっぱいになり、ルキアは黙り込む。沈黙が落ち、日番谷は仏壇に視線を移した。
少し観音扉が開いていて、そこから緋真の遺影が覗いている。姉の笑顔を見たとたん、視線を伏せた。
「……嘘を、ついてしまいました」
あれからずっと気にしていたことが、ぽろりと口からこぼれ出す。
「私は姉に会っていないのに、会ったと嘘を。あれから少し、姉の遺影を見るのが後ろめたいです」
あの時、瀕死の帯刀が、姉と自分を間違えていたのはすぐに気づいた。
姉妹が再会できたのか。おそらく最後になるだろう言葉がそれだったことに、ルキアは衝撃を受けた。

白哉をあれほど苦しめた癖に。今際のさいに、そんなことを口にするのか。
帯刀のことが憎い気持ちは変わらないが、姉を愛していることが十分すぎるほど伝わって、苦しくてたまらなかった。
ただ、姉妹は再会できた、とルキアがとっさについた嘘に、帯刀が見せた微笑みは脳裏に焼き付いて離れなかった。
―― 「良かったな。」
そう言いたそうな、心から幸せそうな笑みだった。
記憶になく、写真でしか知らない姉を、あれほど生身の存在として感じたのは初めてかもしれない。

「お前は、姉をどう思ってるんだ? 捨てられて、憎いと思ってたのか?」
日番谷に問われ、ルキアはすぐに首を振る。
「いいえ。私は姉のことを覚えていません。兄様に告げられるまで、緋真様が自分の姉だとは知らなかったくらいですから。
だからもちろん、探したこともありません。ただ……今は、姉に会って話がしたかったと思っています」
「そうか」
日番谷は立ち上がると仏壇に歩み寄り、開きかけていた観音扉を押し開いた。そして遺影をまじまじと覗き込む。
「驚いたな。写真だとますます似てる」
「顔は似ていますが、表情は違うでしょう」
「そうか?」
日番谷が振り返った時、背後の襖の向こうから「失礼します」と男の声が聞こえた。
「清家殿か。構わぬ、入ってくれ」
「は」
頭を下げ、菓子盆を捧げ持ってやって来たのは、朽木家に古くから仕える老僕だった。
二人が緋真の遺影を前にしているのを見て、微笑む。
「姉上の思い出話をされていたのでしょうか? お邪魔でしたね」
「……私には、こんな満ち足りた微笑は浮かべられないと、日番谷隊長に話していたところだ」
ふむ、と菓子盆と茶を机に置いた清家は頷き、遠目から遺影を見やり立ち上がった。
「この写真については、不思議な話があるのですよ」
失礼します、と二人に断って仏壇の前までやってくると、丁寧に手を合わせた。
「不思議な話?」
「この遺影が架けられたころ、……緋真様が亡くなられた直後は、少し表情が違っていたというのです。
微笑んではおられましたが、どこか淋しげに見えたといいます。こんな風に幸せそうに見えるようになったのは、最近のことだと」
「って、同じ写真だろ?」
日番谷が首をかしげる。ルキアも後ろから覗き込んだ。
長い間、こんな風に内側から表情ににじみ出て来るような幸福がほしい、と憧れを乗せて見てきたのだ。清家の言葉は晴天の霹靂だった。
「清家殿。貴方は、姉様が亡くなる前からずっとこの屋敷にいたのだから、この遺影もずっと見て来ただろう? やはりそう思うか?」
清家は、優しい顔で、額におさまったかつての主人を見つめた。
「さて、どうでしょうね。私にはわかりません。ただ、表情は対する人の感情によって違う風に見えることもありますでしょう。
自分が落ち込んでいる時は、相手の表情に悲しみを見つけやすくなります。逆もまた然りです。相手は、自分の心を映す鏡といいます。
このご遺影を見る人々の心がより穏やかだから、奥方様の表情も、穏やかに見えるように変わったのかもしれません」
「変わった……私達がか」
「少なくとも、貴女がこの屋敷に来られてからですよ、ルキア様。奥方様がどれほど心を尽くして貴女を探していたか、私どもはよく知っております。
それを果たせず命を落とされて、どれほど無念に思われていたかも存じております。今、貴女が傍におられて、本当にお喜びでしょう。
例え話せずとも、この空間のどこかにはいて、私どもを見守ってくださるのだと思っております。……死神様の前で僭越なことを申しました」
最後の言葉と同時に、日番谷を見やる。日番谷は軽く首を振ったが、何も言わなかった。


「どうぞ。粗茶ですが」
清家が去った後、手ずから茶を入れ、和三盆を薦めながらルキアは言った。
その手つきはしなやかで女らしい。とても、今しがた副隊長に任じられた者の手とも見えない。
日番谷は手慰みに和三盆をつまみ上げ、頬杖をついてルキアを見返した。
「お前、一時俺を避けてたな。どうしてだ?」
穏やかに凪いだ心に、ぽつんと石を投げ込んでくる。は、とルキアは顔を上げた。そんなに率直に尋ねられるとは正直思っていなかった。
「あなたに惚れていますから」
「そうか。それは……それは?」
聞き流そうとして意味に思い当り、さすがに驚いた日番谷も顔を上げる。

ルキアは、なぜこんなに平然としていられるのか自分で自分が分からなかった。
ただ、この言葉を告げられるのは、一生のうちでこの日この時、この場所しかないのだろうと思った。だから真っ直ぐに聞いた。
「そう思っていては、駄目でしょうか」
「だ、駄目……じゃねぇけど」
日番谷は、まさに鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
ルキアが長い間かけて思いを温めて来たのとは違い、日番谷からすればまさに青天の霹靂だろう。
受け太刀が鈍るのは当然だと思うが……ルキアは、不意にこみ上げて来た笑いに顔を任せる。
「笑うところか?」
「すみません! ……では、思っています」
「……大体、許可を取るところでもねぇよ」
後で、とんでもないことを言ったと死にたいような気持ちになるのかもしれなかったが、不思議と今は軽やかだった。

乾いた蹄の音が遠くから聞こえ、二人は同時に襖の向こうに顔を向ける。
日番谷が歩み寄り、襖を開けはなった。すると、門の方から白哉が黒丞に乗ってやってくるのが目に入った。
「そこで何をしている。日番谷隊長、ルキア」
「……」
「何を黙っている」
とたんに剣呑な気配を醸し出した白哉とは真逆に、黒丞は明らかに浮かれていた。
まるで踊りだしたそうな足取りで、歌でも歌いそうな顔をしている。久し振りに主人をその背に乗せて、嬉しくてたまらないのだろう。
「それより兄様。どこかへ行かれるのですか?」
「南の五十三番区だ」
「また……遠征ですか?」
怪我は癒えているとはいえ、ルキアは思わず問い返す。白哉は頷いた。
「家を開ける。留守を頼むぞ」
「はい、お任せください」
日番谷が、迷わず言ったルキアの顔を見た。そして、ルキアに分からない程度の微笑みを浮かべる。

その視界の片隅で、
遺影の中で微笑む緋真の前には、供えられた一輪の椿が凛と咲いていた。





艶椿   完




last update:2012/5/31