「お断りします」
斑目一角がこの言葉を口にするのは、この一時間ですでに十二回目だった。
場所は、十一番隊の隊首室。
とは言っても、形ばかりの隊首席・副官席の痕跡があるだけである。
机はひっくり返り、椅子には埃がたまっている。
隊長があの更木剣八、副官が草鹿やちるでは、止むに止まれぬ事態と言えなくもない。

惨憺たるその部屋では、窓を背にした一角と、十二番隊隊長・涅マユリとネムが向き合っている。
突然押しかけてきた十二番隊の二人に、一角が対応している恰好である。
ただし、友好的な雰囲気からは、程遠い。
一角はその鍛え上げられた腕を組み、かろうじて丁寧な言葉遣いとは裏腹に、眼光鋭くマユリを睨みつけている。
マユリは軽蔑と揶揄の入り混じった、何とも気分の悪い目つきで見返していた。
副官のネムに至っては、「その通りです、マユリ様」「完璧です、マユリ様」以外の言葉をさっきから発していない。
まったくの無表情で身動きもしないために、同じ言葉を繰り返す、等身大の人形でも置かれているように見える。


ややあって、マユリが口を開いた。
「どうあっても、十一番隊の隊士を実験に貸さないというのかネ? 斑目君」
「はい」
「君、勘違いしているようだネ。第三席の君が、隊長であるこの私に歯向かうことなどできないのだヨ。分かっているのかネ」
「お言葉ですが――」
一角は、静かだがドスの効いた低い声を発した。
「勘違いされているのは涅隊長でしょう。俺が忠誠を誓っているのは、更木隊長だ。あんたじゃありません」
「更木と私は同じ隊長格だヨ。何を言っているのかネ」
これだから筋肉馬鹿は、とマユリは続けたが、一角は眉一つ動かさなかった。

こいつには分かるまい。そう一角は思う。
従うのは更木ただ一人と誓い、他隊への異動を拒み続ける一角の気持ちなど、説明しようとも思わない。


「更木はどこにいるんだネ! 話にならないヨ」
マユリの声が大きくなる。
話にならないのはこっちのほうだ。
一角は、だんだんイライラしつつあるのを自覚していた。
どんな理屈があって、十二番隊のくだらない実験とやらに、十一番隊の隊士を貸さねばならぬのか。
「貸す」とは名ばかりで、二度とまともな体では戻ってこれないことを分かっていて、なぜ。

更木は、奥の部屋で昼寝をしているはずだ。
絶対に、こんな理由で敬愛する隊長の手をわずらわせたくなかった。


「誰が出てきても同じです。お帰りください」
ああ弓親帰ってこねぇかな、と十番隊に出向いているはずの、十一番隊(唯)一の頭脳派のことを思う。
弓親ならうまく理屈をこねられるのだろうが、一角にはただ無骨に、帰れとしか言えない。

マユリよりネムの方がまだ、まともなことを考えてるだろうと思うが……
この無表情を見ると、どうにもならない気がしてくる。
―― 本当に、涅マユリの操り人形かよ……
一角が視線を向けても、全くその瞳には感情が篭らない。
なんだかやりきれない気がして、一角はネムのガラス玉のような瞳から視線を反らせた。


「理解できないネ」
マユリが、声を高めた。
「十一番隊など、隊士の命を湯水のように無駄に使っているじゃないか。次々と馬鹿な戦いに駆り出し、死に至らしめているのだから。
そのような価値のない死に比べれば、十二番隊の実験に使ってやったほうがよほど後世のためになる、というものだヨ」
あっ、と一角は一瞬、他人事のように思った。
これは、マズい。
「馬鹿な戦い? 価値のない死、だと……?」
全身の筋肉に、血がめぐり始める。頭がカッと熱くなる。
拳を、血管が浮くほどに強く握りしめた。

確かに、十一番隊では、戦闘で命を落す者は多い。
しかし、戦闘での命のやり取りに魅入られた者ばかりなのだ。戦いの最中の死は、花道だと思っている者ばかりだ。
頭は悪いかもしれないが、それでも気持ちのいい奴ばかりだと一角は思っている。
十一番隊に葬式はない。花道を駆け抜けた者を祝い、酒を手向ける送別会があるだけだ。
一抹の寂しさを抱きながらも、態度には一切それを表さず、死者のために杯を干す。
それなのに、今この異質な男は、一体何を言った?

「もう一回、言ってみろ」
ああ弓親に後でどやされるな、と思う。
どんな状況でも、隊長に対しては敬語を使うのが美しい、と言っていた姿を思い出したからだ。
どやされるからといって、行動を改めるつもりはないが。

「ほぅ。三席ごときが隊長に逆らうと。そういうことだネ」
しかしマユリは、怒るどころか目を輝かせ、逆に一角のほうに踏み出した。
「反逆罪が適用されるネ。処罰として、君から実験体にもらうとしよう。馬鹿な男だネ、君も」

もしかして、ハナからそのつもりで来たのか、このピエロ野郎。
挑発もわざとだったのか、と思ったが、怒りを引っ込めて謝るなど絶対に御免だった。
斬魂刀の柄に、手をやる。
かかってくるなら、相手が隊長だろうと遠慮するつもりはなかった。
そして戦うからには、負ける気はない。


霊圧が、二人の間で爆発的に高まる。誰も何も言葉を発しない。
極限まで緊迫した空気のなか、不意に一人が動いた。

「おやめください」
対峙する一角とマユリの間に、スイ、と進み出たのは、今まで微動だにしていなかったネムだった。
「刀をお引きください。斑目三席」
全く無防備な姿でマユリの前に立ち、一角と向かい合う。
黒目がちの瞳は、あくまで無表情に一角を見つめている。

喜怒哀楽の感情も意志も一切含まない、涅マユリに作り出された精緻な人形。
その表情を見ると、一角からも怒りといった感情が、滑り落ちていくのを感じた。
急につまらなくなって、一角は刀から手を離した。

「……あんた」
ネムに声をかけたが、その先どう続けたらいいのか、自分でもよく分かっていなかった。
その時。ネムに庇われるように背後に立っていたマユリが、唐突に拳を振り上げた。
「邪魔をするんじゃないヨ、この馬鹿が!!」
その拳は、無抵抗に立っていたネムの頬を痛打する。

吹き飛ばされてきた体を、一角は受け止めた。
その肩を掴んで、引き起こす。驚くほどに軽く、華奢な肩だった。
「おい! あんたを庇った副官に対して、そりゃねぇだろ!」
「こいつは私の娘だヨ! どうしようが私の勝手だ。私の前に出るなど差し出たマネをしおって、許さんぞ!」

マユリが、斬魂刀に手をかけた。
「さがってな」
一角はネムを見下ろす。ガラス玉のような瞳に見返され、すぐにそらす。
なんだか、無垢とも言えるこの瞳を見ていると、十一番隊三席ともあろう自分が、闘志がふっと消えていきそうで怖かった。
庇うように、ネムの前に立つ。
同時に二人が斬魂刀の鯉口を切る、カチリ、という音が響いた――


「一角!!」
その時、旋風とともに開いた窓から飛び込んできた人物に、一角は振り返った。
「弓親! お前、戻ったのか」
「そんな霊圧感じたら、戻るに決まってるだろ。何やってんの一角!」
ぐい、と肩を掴み、乱暴に一角を引き戻す。
「止めるな弓親、こいつァ……」
「他隊とはいえ、隊長に刀を向けるなんて、何考えてるんだ!」
弓親はそう言い放つと、一角を押しのけ、マユリの前に立った。

「申し訳ありません、涅隊長。何があったのかは存じませんが、怒りをお鎮めください」
弓親が頭を下げるのに、怒鳴りだしたくなるのを懸命にこらえる。
今ここで、これ以上騒ぎを大きくしてもメリットは何もない。それを理解するだけの理性は残っていた。

マユリは、苦虫を噛み潰したような表情で、三人を見返していた。
ちら、と視線を開いた窓の外に向け、ため息をつく。
大股で歩み寄ってくると、警戒した一角と弓親の間をすり抜け、ネムの腕を掴むと強引に引き上げた。
「何をやっているのだネ、この馬鹿が! 帰るぞ!」
「かしこまりました、マユリ様」
さっき殴られたのが嘘のように、ネムが淡々と立ち上がった。
しかしその右頬は、痛々しく腫れあがっている。

「おい……」
一角が、その背中に声をかける。
ネムは一瞬振り返ったが何も言わず、そのままマユリの後について隊首席を出て行った。



「……ふぅ」
二人の気配が完全に消えた時、弓親はひとつ、息をついた。
あっさり帰っていったマユリに拍子抜けしつつ、一角は改めて親友の顔を見返した。
「……すまねぇ、弓親」
「いーよ。一角が怒るんだ、それだけの理由があったんだろ?」
弓親はやれやれ、とでも言いたそうな笑顔を浮かべる。そして首をめぐらせ、窓の外に声をかけた。
「ご足労頂いてありがとうございます、日番谷隊長」
は? という表情を一角が作る前に、
「俺は何もしてねぇ」
と、静かな声が返ってきた。

「日番谷隊長。来てくださってたんですか」
一角は、窓から身を乗り出して、声の主を探した。
探すまでもなく、外壁に体をもたせかけ、腕を組んだ日番谷と目が合った。
ふん、と日番谷は鼻を鳴らす。
「いざとなったら、更木を蹴り起こすつもりだった。お前は意地でも起こさなさそうだしな」
「そりゃ、こんなことで声かけるわけには……」
「なにがこんなことだ。お前が連れ去られてみろ。更木は十二番隊に討ち入るぞ」
これ以上瀞霊廷を混乱させるな、とぼやく日番谷に、一角はようやく笑顔を向けた。


一角から経緯を聞いた日番谷と弓親は、同時にため息をついた。
「そりゃ、切れるね。止めなきゃよかったってちょっと思ったよ」
弓親が肩をすくめる。そして、隊首室の扉に気がかりそうな視線を向けた。
「大丈夫ですかね、涅副隊長は。この後、ひどい目に合わなければいいけど」
「しかたねぇよ」
返したのは、意外にも日番谷だった。
他隊の三席の危機に駆けつけるような人情家の言葉とも思えない。

「日番谷隊長?」
「涅ネムが自分の意思で涅マユリに従ってる以上、何もできねぇだろ」
「意志? ンなもんねぇでしょう」
一角は、ネムのガラス玉のような瞳を思い出して、そう言った。
動物でも、もうちょっと感情を示すと思う。

しかし、日番谷は首を振った。
「気づいてねぇのかよ。涅ネムが庇ったのは涅マユリじゃねぇ。お前だろう」
「……は?」
日番谷の言っていることを理解するのには、しばらく時間がかかった。

「……本当に馬鹿だね、一角」
ぴたりと動きを止めた一角を見て、弓親がため息をついた。
「……うっせぇ」
マユリを背に一角と向き合ったのだから、マユリを庇ったのかと思っていた。しかし考えてみれば、逆なのだ。
マユリが、一角を挑発して反逆させ、その罪に乗じて一角を実験体にしようとしていたのならば。
あの時、二人の間に割って入って戦いを止めさせたネムの行動は、マユリの目的を遮るものなのだ。
邪魔をするな。あの時、マユリがネムに怒鳴ったのは、そういう背景があったからに他ならない。

「……あの二人にも、あれはあれで絆はあるんだ。涅マユリは絶対に娘を殺したりしない。
でも、後で礼くらいは言っておけよ、斑目」
それだけ言うと、日番谷の姿はふっとその場から掻き消えた。仕事に戻るのだろう。


「……大人だねぇ、日番谷隊長は。君と比べると際立つね」
「うっせぇっつってんだろ」
結局、誰も実験体になることなく、十一番隊の隊士は護られた。
それでいいじゃねぇか、と思うが、一角の気持ちは全く晴れなかった。

十二番隊の方角に視線をやり、一角は釈然としない思いを飲み込んだ。



***



夜、九時。
十一番隊は、夕食という名の飲み会に興じていた。
男ばかりの隊である。一気飲みが過ぎて口から泡を吹いて倒れている者、
裸踊りをしている者、ひたすら吐いている者など、他隊の者が見れば顔を背けたくなるような光景が広がっていた。

「斑目サン! どうされたんです?」
「もう呑まれないんですか?」
あー。部下たちの声に生返事を返しつつ、一角は素足に草履を履くと、縁側から庭に降り立った。
十月の涼しい風が、酒で火照った体に心地よい。虫の音が、庭全体から響いてきていた。
「綺麗だな」
「? なんかおっしゃいました?」
顔を真っ赤にした隊士を見返し、なんでもねぇと言い返す。
この隊に、月の風情を気にかけるような奴はほとんどいないだろうと思いながら。

自分だって、風流を解するようなタイプじゃない。
そもそも、そういう生い立ちをしていない。
十一番隊に来るまでも、今と変わらずひたすら戦いにあけくれる毎日だったからだ。
でも……夜は、好きだった。
夜の闇、そして空に浮かぶ光源。
そういえば今日は十五夜だったか、と思う。
高く黒く澄んだ空に、異世界に続いている穴のように、満月が丸く浮かんでいる。


「あ――!!」
急に空を仰いで喚いた一角を、十一番隊の全員がぎょっとして振り返る。
「ま、斑目三席……?」
「放っとけ」
一番奥の席で杯を傾けていた更木が、ちらりと斑目を見て言う。
「そうだよ。ほっときゃいい。一角がおかしいのは今に始まったことじゃないし」
その杯に酌をしながら、弓親が頷いた。

うっせぇよ、と口の中で斑目は弓親に毒づく。
思わず大声を出したくなるほどに釈然としない思いが、昼間からずっと、続いているのだ。
十二番隊の方角を、遠く仰ぎ見る。
こんなのは俺らしくねぇ……と思う。でも、事実気になるのだから仕方がない。
一角は諦めたようにため息をつくと、庭を蹴り、中空へふわりと飛び上がった。



初めて、涅ネムを間近に見た時のことを、思い出していた。
あれは、旅禍と呼ばれていた黒崎一護と戦い、敗れて四番隊に担ぎ込まれた時のことだ。
旅禍の情報を集めようとした涅マユリは、一角から一護のことを聞き出そうとした。
―― 「どうしても吐く気にならんかネ」
どういたぶって吐かせてやろうかと、愉しんでいるようなマユリの顔を、吐き気とともに思い出す。
―― 「……マユリ様」
あの時も。思えば、ネムはマユリを諌めようとしたのだ。
またバラバラにされたいか、と睨まれ、すぐに申し訳ありませんと謝っていた。

「……恰好悪ぃな……」
十二番隊の門を見張りに気がつかれることなく、影のように飛び越える。
気づけば、ひとりごちていた。
「借りばっかりじゃねぇか」
あんな女に庇われるどころか、それに気がつくこともなかったなんて。
いや、もしかしたら、気づいていたのかもしれない。
だから、あれからあいつのことが、妙に頭から離れないんだ。

ネムと自分とは似ているが違う、とずっと思ってきた。
更木を見つけ出し、更木に一生従うことを選択した自分と、涅の元に娘として生み出され、涅に盲従しているネムは違うと。
でも、もしかすると。それは日番谷の言ったとおり、一角の勘違いなのかもしれなかった。
―― 「刀をお引きください」
昼間、一角にそう言ったネムの瞳には、光が宿っていなかったか?



十二番隊の屋根から屋根を身軽に飛び移りながら、下に視線を凝らす。
奥まったところまでたどり着いた時、一角はふと動きを止めた。
「……見つけた」
縁側にぽつんと一人座っているネムの姿が見えた。
死覇装姿ではなく、寝巻きだろう白い一重を纏っている。
三つ編みもほどかれ、広がる黒髪は背中を伝い、縁側に広がるほどに長かった。

「……よぉ」
一角は、ネムのいる向かいの建物の屋根に腰を下ろすと、眼下のネムに声をかけた。
ネムは視線をすぐに一角に向けたが、突然の不法侵入者にも、眉一つ動かさなかった。
「何か、御用ですか? 斑目三席」
「あ?」
用? 一角は、視線を泳がせる。
用なんてない。考えてみれば、何を話そうかなんて全く考えていなかった。

「特に用なんてねぇよ」
だから、思ったことをそのまま返す。
「でもな。十二番隊に借りなんて御免なんだ。俺のせいで、あんたが拷問されたら寝覚めが悪いと思ってな。様子を見に来た」
遠目だからはっきりとはわからないが、一見するとネムは無事に見える。

「借り、ですか。存じません」
ネムは、相変わらず文章を読み上げるように淡々と返す。
本当に、一角を庇ったような自覚はないのかもしれない。いや勝手にこっちが予想しただけで、本当はそんな気なんてなかったんじゃないか?
そう思うと、ますます何のために来たのか分からなくなる。

「ただ、マユリ様はご立腹でした。何度かバラバラにされましたから」
「は? バラバラ?」
「はい」
こんな風に、とネムは、自分の首に横一文字に手を当てた。
「……それは、首、が」
「はい、切り離されました」
もうくっついています、と淡々と言われ、一角は思わず絶句した。
それは、見れば分かる。

「……悪かったな。俺が涅隊長の挑発に乗らなきゃ、あんたはそんな目に合わずに済んだ」
「……いいのです、いつものことですから。それに、貴方には以前、助けられましたから」
「は? そんなことしたか?」
一角は思わず高い声を上げ、すぐに声を潜めた。
さすがに、勝手にもぐりこんでいるところを見つかるとまずい。
それにしても、全く記憶になかった。

「以前。旅禍の居場所を聞きに貴方の元に訪れた時です。マユリ様が私をバラバラにすると仰った時、マユリ様の気をそらして下さいました」
「……あー……」
そういう風に考えていたのか。一角は、思わず頭を掻いた。
あの時、申し訳ありませんと謝ったネムにマユリが何か言う前に、一角が言葉を挟んでいたのだ。
最もあまりに挑発的な言葉だったためにマユリの怒りを買い、結局更木に助けられたのだが。
考えてみれば、同じことばかりやっている。

あの時は、マユリに諾々と従うネムにイライラして、言葉を挟んだだけ……の、つもりだった。
そういう風に考えていたのか。もう一度、そう思う。

一角は座りなおし、改めてネムを見返した。
「……お前よ。涅マユリになんで従うんだ? そんな目に合ってんのに。もっといい隊があるだろ? 他にも」
「例えば?」
「例えば……」
十一番隊、とは言えなかった。
「十番隊とかよ」
「私は、マユリ様以外には従いません」
思わず目を見張るほどに、しっかりとした声だった。
だからなぜ。聞こうとして、すぐに止める。
理由などない。あえて言えば、従う理由は、そう決めているからだ。それ以上聞くのは、野暮というもの。
……それならば、自分と同じだ。



不意に、ネムが声を高めた。
「……斑目三席。お願いがあるのですが」
「……は? 何だよ」
お願い。彼女には似合わない言葉に、一角はそうとう意外そうな顔をしたのだろう。
ネムは少しだけ一角に視線を止めたが、すぅ、とその指で一角の背後を指した。

「少し、ずれていただけますか」
「……あん?」
指差された方向を、振り返る。
すると、そこには煌々と輝く月が、驚くほど近く見えた。

「……おぅ」
もしかして、月を眺めるために、この涼風の中縁側に出ていたのか。
一角は、月を振り返ったまま、ネムの位置からでも見えるように体を横にずらす。
「……綺麗ですね」
不意に、声が聞こえた。
振り返ると、ネムが月を見上げていた。
月光を浴びたその表情は、微笑んでいる。
それは、一角がはじめて見た、ネムの「表情」だった。

「……おぅ」
何だか、胸がざわざわする。
ほっとしたような、かき乱されるような。それでもやっぱり、釈然としないような。
月だけが、そんな二人を見ている。



完 −2010/3/18(rewrite)


我ながら、珍しい話を書いたもんだと思ってしまいました^^;
一角とネムですよ。日番谷くんのサイトなのに!
十一巻で、マユリ様に責められるネムを横目で見る一角……っていうシーンを読んでから、
いつかは書きたいって思っていた二人です。

[2009年 10月 18日]