「し、失礼、します……」
雛森桃は、遠慮がちに一番隊隊首室の扉をノックした。
返ってきた低い声音に心中怯えながら、扉を細く開けた。
「何を怯えておるか。儂になんぞ用か、雛森副隊長」
隊首席にゆったりと腰掛けた山本総隊長が、穏やかな声でそう言った。
普段は厳しい態度を見せることも多い彼は、今はゆったりとくつろいでいるようだった。
「ハ、ハイ! 見ていただきたい書類があります」
それでも、相手は総隊長。声が裏返りそうになるのを、雛森は必死で抑えた。
「ふむ。ご苦労」
山本総隊長は書類を手に取り、カチンコチンに固まっている雛森を見上げる。その瞳が、柔和にやわらいだ。
「ところで、雛森副隊長。おぬし、日番谷隊長とは姉弟のように、ひとつ屋根の下で育ったそうじゃの」
「え? あ、日番谷くん……じゃなかった、日番谷隊長とは、はい、そうです!」
突然の話題に、雛森はうろたえながらも、コクコクと頷く。
「ならば、軽く小言をいうこともできるかの?」
「へ? 日番谷隊長に……ですか?」
意外な言葉に、雛森は目を丸くした。
小言。小言なら、流魂街だろうが瀞霊廷内だろうが、顔を合わせるたび言っている。
ちゃんと寝てるのか、食ってるのか、そんな言葉をかけるたび、日番谷は「またかよ」とうんざりした表情を返すのだ。
「日番谷くん、何かしましたか……?」
隊長、とつけるのも忘れ、心配そうに視線を向ける雛森に、総隊長は苦笑して首を振った。
「大したことではない。だからおぬしに頼むのじゃ」
「何ですか? あたしにできることなら……」
「現世の人間と、個人的な関係を持っているらしいのじゃ」
総隊長は、そこで軽く、息をついた。
「おぬしも知ってのとおり、死神が任務外で、人間と関わりを持つことは許されぬ。
日番谷隊長のことじゃ、心配はないと思うが……そろそろ、釘を刺したほうがよいかと思っての」
「そう……ですか」
そう返した雛森は、表情を曇らせた。しばらく、総隊長が前にいるのも忘れたかのように、考え込む。
「雛森副隊長?」
総隊長の言葉に、両肩を跳ね上げた。
「はっ、はい。ご心配をおかけして申し訳ありません! ちゃんと、言い聞かせますから」
「なぜおぬしが謝る」
「えっ、それは……」
雛森が口ごもるのを見て、総隊長はついに破顔した。
「いいものじゃの、きょうだい、というのも」
「はい?」
「ほれ、ぼうっとしておるでない」
総隊長は、窓の外を骨ばった指で指して見せた。
「今まさに、日番谷隊長が穿界門をくぐろうとしておるぞ」
雛森は、たたた、と足早に自室へと向かっていた。
「まったく、もう。日番谷くんたら……」
自室の扉を開けると、急な魂葬に備え、現世行きには必須となっている斬魂刀を腰に帯びた。
机の上においてあったマフラーを肩に巻きつけ、ちょっと考えて、もう一本赤いマフラーを懐に入れる。
寒さに無頓着な「弟」が、薄着のまま現世に出かけたことは想像にかたくない。
「開錠!」
斬魂刀を引き抜いて言葉を唱えると、目の前に和風の扉が現れた。
それを潜ると、そこはもう現世だ。
サワサワと枯れたススキが揺れている。水音がさらさらと聞こえてくる。
遠くの道路を、トラックが走ってゆく。そこは、街の燈の谷間のような、河川敷だった。
「……どこ、いったのかしら」
耳を澄ませるように、両手を耳の後ろに当て、瞳を閉じた。
―― 個人的な関係、か。
山本総隊長は固い言い方をしたが、平たく言えば友達ができたということだろう。
そのこと自体は、嬉しいのだ。
護廷十三隊の隊長として、部下を率いる凛々しい姿には、雛森も目を見張らんばかりだ。
その反面、年齢相応の生活……友達や、遊びや勉強とは無縁の暮らしぶりを見ていて、心配でもあった。
だから、気を許せる友達ができたというなら、それは本当に嬉しい。
本音を言えば、そっとしておいてやりたい。
「でも……」
街の一角で、慣れたその霊圧を感じた雛森は、唇を噛む。
死神と、人間は決して相容れない。
友達になんか、なれるはずがない。
日番谷がいつか辛い想いをすることが、雛森には目に見えるのだ。
「あたしが怒ってあげなきゃ、ね」
どこか寂しげに呟くと、雛森は瞬歩でその場から姿を消した。
***
ヒュウッ、と冷たい風が吹きぬけてゆく。
「うー、さむさむ……まだ夕方なのに、真っ暗」
遊子は、肩をすくめると、コートの襟を立てた。
両手には、いっぱいに食料を詰め込んだスーパーの袋を持っていた。
今日は、何を作ろうかな。それを考えるだけで、心が弾む。
あったかい鍋にしようかな。それとも、シチューにしようか。
「おいしい」と言ってくれる家族の表情を思い浮かべるだけで、勝手に頬がほころんでしまうのだ。
「ねぇ、待ってよ陽菜! もうちょっと遊んでいこうよ?!」
「ダメダメ、お母さんが待ってるもん! 晩ご飯までに戻らないと、怒られちゃう」
その遊子の隣を、同じくらいの年頃の女の子が2人、駆け抜けて行く。
それを見て、遊子は少しだけ、遠い眼をした。
―― 「ねえ、遊子! 今日遊んでいけない? 雲梯(うんてい)の練習しようよ!」
クラスの友達に声をかけられたのは、数時間前。
授業が終わった直後だった。
―― 「最後まで渡れないの、もうあたし達だけだよー。今日こそ、わたってやるんだ!」
3メートルくらいの長さのある雲梯を、腕の力だけで最後まで渡るのはかなりの体力がいる。
運動神経が決してよくない遊子は、半分くらい、弓形の一番上の辺りで手を放してしまう。
―― 「んー、でもゴメンね、あたし帰らなきゃ」
―― 「今日も晩ご飯つくるの? そんなの……」
―― 「いいの、あたしご飯作るの大好きだし!」
笑顔を浮かべて、ランドセルを背負う。
―― 「ごめんね。また明日!」
両手を合わせて謝ると、
―― 「あっ、遊子!」
留めようとするクラスメートをよそに、教室から駆け出してきてしまった。
女の子達が駆けてきた方向を、振り返る。
見慣れた公園の奥の方には、雲梯がひっそりと設置されているのが見えた。
遊子は、時計を見やる。まだ、晩ご飯を作り出すには、少しだけだが時間がある。
街灯が灯り始めた無人の公園に、遊子はおっかなびっくり入っていった。
ひんやりとした雲梯の表面に、手で触れる。
今日、他の友達と一緒に練習にいっただろうクラスメートは、渡れるようになっただろうか。
「夏梨ちゃんみたいに、運動神経よかったらな……」
思わず、想ったことが口をついて転がりでた。
双子の姉、夏梨は、遊子ときょうだいとは信じられないくらい運動神経がいいのだ。
こんな雲梯、たぶん一回で最後まで渡りきってしまうと思う。
「うらやましいな……」
自分も、運動神経がよければよかった。
それが無理なら、せめて練習できる時間があれば……あたしだって。
そこまで考えて、遊子はぶんぶんと首を振った。
「ダメダメ、そんなこと考えちゃ」
キッ、と鉄色の冷たさを見せる雲梯を睨みつける。そして、その梯子に向かって手を伸ばした。
霊圧を消し、そっと親しい霊圧に近づく。
日番谷は、すぐに見つかった。
電信柱の天辺に器用に両足で佇み、冬の風に吹かれている姿は、あまりに寒そうで目に毒だった。
義骸姿ならとっくに人間に見つかって大騒動になっているだろうが、死神姿のせいで誰の目にも留まってはいない。
その姿に気がついたのは、雛森だけだった。
「日番谷くんっ!」
背中から声をかけると、見開かれた翡翠が雛森に向けられる。
「雛……森? お前、なんでこんなトコに」
「それは、あたしのセリフよ。日番谷くんこそ、何してるの?」
腰に手を当てて、そのまま聞き正す。日番谷は気まずそうに、視線を逸らした。
「……松本が、お前にチクッたのかよ。俺がよく現世に来てるって」
「山本総隊長、よ!」
「は?」
さすがに日番谷も驚いたのか、雛森を正面から見返してくる。
「大事にはしたくないって、あたしが頼まれたの」
そこまで言って、言葉に詰まる。
向かい合ってみると、改めて分かるのだ。
ナマイキで言い返してばかりに見えるが、結論だけ取ると日番谷は、聞き分けのいい「弟」だった。
そんな日番谷が、死神としてのルールを無視するなど、よくよくのことだと。
「……友達がいるの?」
「お前には関係ねーよ」
「日番谷くん!」
相手が隊長だという事も忘れて、雛森は思い切り日番谷を睨みつける。
立場は変わっても強情なところは、全く変わっていない。
「……ルールを破ってることは分かってる」
「そんなことはどうだっていいの」
雛森は、一歩日番谷に近づくと、その表情を覗き込むようにして続けた。
「日番谷くんが辛い思いしないか、心配なだけ」
日番谷は、その言葉にはしばらく、無言だった。ややあって、かすかに唇に微笑を乗せた。
「ホント―― におせっかいな奴だな、お前は」
あっ、と思った時には、足が電信柱から離れていた。ふわり、と音もなく背中から宙に舞う。
「ひっ、日番谷くん!」
ぐんぐんと、地面に落ちてゆく。慌てて雛森が手を伸ばそうとした時、
「追ってくんな」
暗闇に飲み込まれそうになったその背中が、ふっと消えた。
―― 瞬歩!
雛森は慌てて、急速に遠ざかる日番谷の気配を追いかける。
「もー。あたしが追いつけるわけ、ないじゃない!」
昔からすばしっこい日番谷を捕まえることなんてできなかった。まして、今は隊長だ。
「子供じゃないんだから、鬼ごっこなんて……」
言いかけて、口をとめる。考えてみれば、まだ相手は子供だ。
「ぜったい、捕まえてやるんだから!」
子供っぽい行動の裏には、雛森に対する甘えに似た気持ちが残っているからかもしれない。
なら、追いかけてやらなければ。
雛森が瞬歩のスピードを更に早めようとした時だった。
「あれ?」
急に、足を止める。
高速で移動していた日番谷の霊圧が、急に一箇所で止まったからだ。
「日番谷……くん?」
日番谷の霊圧を辿ってみれば、そこは薄暗い公園だった。
闇の中でひときわ濃く、日番谷の死覇装が見える。
しかし雛森の視線は、日番谷から数メートル先にいる少女に吸い寄せられた。
「も……もうちょっと!」
幼い声が、雛森の耳に届く。
おそらく「雲梯」というのだろう遊具と一人で格闘していたのは、栗色の髪の少女だった。
日番谷は、雲梯の傍にある、跳び箱代わりに埋められたタイヤに腰掛け、それを黙って見ていた。
「日番谷……くん?」
「心配すんな。アイツは俺達のことには気づいてねぇ」
「それは……そうだけど」
見たところ、少女の霊圧は常人よりは相当強いが、意識して姿を消している2人の姿は映るまい。
「日番谷くん。友達って……」
「黒崎一護の妹なんだ」
雛森の言葉を遮るように、日番谷が続けた。
その言葉に、雛森はまじまじと、汗ばんだ少女の顔を見守る。
「……似てない、と思うけど」
「まーな、確かに、」
日番谷がそういい掛けて、唐突に言葉を切る。つんのめるような姿勢で、慌てて立ち上がりかけた。
「きゃあっ!」
悲鳴を上げた遊子の体が、雲梯の梯子から落ちたのが、見えた。
「あ、痛ぁ……」
地面に座り込み、打った膝を手で押さえる。掌の下からは、すりむいた傷が見えた。
目じりに浮かんだ涙を見て、泣き出すのではないかと雛森が思った時、遊子はグイッ、と汚れた拳で涙をぬぐった。
「も……もう一回!」
雲梯に手を伸ばす。日番谷は中途半端な姿勢のまま、遊子がもう一度雲梯の棒を掴むのを見守った。
その心配げな表情を見下ろした雛森の心に、切なさが広がる。
しかし結局日番谷は無言のまま、またタイヤの上に腰を下ろした。
「助けて……あげないの? 声かけてあげればいいのに」
「……お前、何しにきたんだよ。それを留めに来たんじゃないのか」
そう言いながらも、日番谷の視線は遊子から離れない。
「いいんだ。ずっと、助けてやれるわけじゃないからな」
ズキン、と雛森の胸が痛んだ。そして黙って、雲梯と格闘する少女を見つめた。
日番谷のやさしい眼差しを見れば分かる。この少女は、日番谷にとって大事なものなのだろう。
大事なものに、死神だとか、人間だとかいう立場は関係がない。
ただその反面、彼は分かってもいる。
死神と人間の間にある、埋めようもない深い溝を。
だからこそ敢えて声をかけない。
ただ、大怪我をしないか、危険な目に遭わないか心配で、その場を離れられないのだろう。
もう少し、もう少し。
時間がたつに連れ、疲れているはずの少女は、少しずつ雲梯の最後に近づいてゆく。
それを見守る雛森も少しずつ、名も知らぬ少女を応援する気持ちになっていた。
「たまに……貴族出身の死神じゃねェ事を、バカにされたことってなかったか。所詮は人間出身だろ、とか」
不意に、日番谷がそう言った。視線は、遊子に向けられたままだ。
「……それは、ある、けど」
流魂街出身、つまり現世で生き、死んだ人間だということを、コンプレックスに思っていたことはある。
死神の主流は瀞霊廷生まれの貴族で、流魂街出身者は少数派だからだ。
「人間なんて、すぐ虚になる弱くて迷惑なモンだと思ってた。そんなのと一緒にすんなって」
また、遊子の手が雲梯から離れた。ざっ、と土が鳴り、遊子はよろめきながらも何とか着地する。
ふぅ、と息を吹きかけたその掌は、赤くなっている。
「でもコイツらに会って思ったんだ。人間出身っていうのも悪くはねぇな」
あぁ。雛森は、日番谷の頭を見下ろして、ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜたくなる衝動を抑えた。
そんなことしたら、子供扱いすんな、とまた拗ねられてしまうだろう。
有限の命を精一杯に生きる人間とふれあい、やさしさを学んでゆく。
日番谷が遊子を見守るように、自分もそんな日番谷を見守れるようでありたいと思った。
いつか傷ついたときは、自分がこんな風に、そばにいてやればいいのだ。
その時、唐突に電子音がその場に鳴り響いた。
パッと顔を上げた遊子が、投げ出されたスーパーの袋の傍の、ポーチへと伸ばされる。
なり続ける携帯電話と取り出すと、耳に当てた。
「あっ、おにいちゃん? え? 今ドコって……」
遊子は携帯電話を握った途端、掌が痛んだのだろう、顔をしかめた。
「えっ? ううん、なんでもないの。寄り道してただけ。すぐ帰るから!」
その表情は、何十分も悪戦苦闘し、疵だらけになっているとは思えないほど、明るい。
強がりじゃないな、と雛森はそれを見て思った。
大切な人に必要とされるのが、本当に嬉しいから笑っているんだろう。
やさしい気持ちが、胸の中にふくらんでくる。
「……あたし達も、帰ろうか」
懐に閉まったままになっていた赤いマフラーを取り出し、立ち上がった日番谷の首にかけようとする。
「イラネって」
「風邪引くわよ! いいから」
そう言ったとき、くしゃん、と声が聞こえた。
雛森と日番谷が振り返ると、鼻を押さえてる遊子の背中が目に入る。
2人は顔を見合わせた。
***
「おおい! 遊子!」
真っ暗な道の向こうに、こちらに駆けてくる兄の姿を見つけ、遊子の顔一杯に笑顔が広がった。
「お兄ちゃん! 迎えに来てくれたの?」
「あたりまえだろ、寒いし暗いしよ。夏梨も来るって行ったんだけどよ、留めたん……」
そこまで言いかけた一護は、唐突に言葉を切った。
「え? ぽかぽかして全然寒くないよ?」
そう言った遊子の首の周りを、ぽかんとして眺める。
「遊子? なんだ、そのマフラー」
遊子は、見慣れない赤いマフラーを巻いていた。
「え? マフラー? してないよ、そんなの」
遊子は念のため、という素振りで見下ろすと、ぶんぶんと首を振った。
「でもね。なんだかあったかいの」
―― どうなってんだ?
確かに一護の目には、マフラーが見えているというのに。
しかしよく見ると、マフラーの布地に、背後の風景が透けている。
一護は、これに良く似たものを見たことがあった。
死覇装をまとった死神は半ば半透明で、背後の風景が透けて見えることがあるのだ。
「そか」
こんなことをするのは、きっとあの少年だろう。
一護は微笑むと、遊子の手からスーパーの袋を持ち上げる。
そしてその目に見えぬマフラーを、そっと巻きなおしてやった。
完 -2010/3/18(rewrite)