「砕蜂隊長、こっちです!」
乱菊が常になく狼狽した素振りで、二番隊隊長・砕蜂を先導して瞬歩で駆けてゆく。
もう、彼女の体力の限界は過ぎているはずだが、それでも足を緩めようとしない。

「おちつけ、松本副隊長」
息も切らさずピタリと背後につけている砕蜂が、乱菊の背後に声をかけた。
「何百レベルの虚に囲まれたからと言って、隊長格がそう簡単に殺されたりはせぬ」
「でも……たった一人なんですよ、隊長は」
「たった一人でも同じことだ。もしそれで殺されるなら、それだけの器だったということだ」

それに対して、乱菊は何も答えなかった。ただ、肩越しに振り返った乱菊の瞳は、強い怒りに燃えていた。
そのまま足を速めた乱菊を見守り、砕蜂は軽くため息をつく。
「油断するな、近いぞ」
少し遅れて背後についてきている、三十人ほどの隠密機動の一団を振り返り、指示を飛ばした。



流魂街の一角に、大量の虚が潜んでいる。そんな噂を聞きつけ、砕蜂率いる隠密機動に対処が任されたのが、今から一週間前だ。
その虚の群れに、流魂街での単身の任務を終えて戻ってきた日番谷がかち合った。砕蜂に言わせれば、ただそれだけの話だ。

留守を任されていた乱菊にしてみれば、急に日番谷の霊圧が高まり、同じ場所に大量の虚の霊圧を感じ取ったのだから、狼狽はするだろう。
だが、数百の虚と一度に相手にすることなど、いくら隊長でも正気ではない。
おそらくうまく身を潜めて、援軍を待っているだろうから心配は無用のはずだった。


しかし。
その五分後、砕蜂と乱菊は絶句することになる。

「な、なんだ、これは?」
百戦錬磨のはずの隠密機動たちも、色を失っている。口元に手を当てる者もいた。
辺り一面、血の海だった。虚たちは倒されれば姿を消すため、どこにも死体は見当たらない。ただ、血糊だけが延々と続く台地は、却って不気味だった。
見るだけで吐き気を催すほどの死の匂い、死の静寂。
原型をとどめぬほどに打ち壊された岩々、べっとりと血が張り付いた木々が、烈しい戦いの跡をくっきりと残していた。

「まさか。戦ったのか、たった一人で?」
砕蜂は、辺りを見渡す。事実だとしたら、とてつもない愚行としか思えない。
「た、隊長!」
色を失った乱菊が、駆け出す。
「待て!」
砕蜂がその後を追った。

乱菊の姿は、すぐに見つかった。丘を越えた場所で、その蜂蜜色の髪を夕日になびかせ、立ち尽くしていた。
「勝手な行動はよせ」
そう言って、乱菊の背後に立った時だった。砕蜂も「それ」に気付いた。


その少年は、紅い夕日の中で、黒い影のように見えた。白銀の髪だけが、色を持ちキラキラと輝いている。
着物には汚れ一つなく、怪我もしていないようだ。そして片手からは、だらりと長刀を下げていた。
その白く輝く刀身に、ゆっくりと紅い血が滑ってゆく。

「た、隊長」
乱菊の声は、かすれていた。その声に、少年……日番谷冬獅郎は、ゆっくりと振りかえった。
「なんだ……松本か」
その瞳の翡翠は、明るい景色の中で、深く暗い穴のように見えた。乱菊がゴクリ、と唾を飲み込むのが聞こえた。
殺気。怒り。そんな言葉が安く思えるほどの、「死」の気配が、その小さな体の全身から発せられていた。


***


一匹の、華奢な体つきをした黒猫が、足音もなく廊下を歩いていた。
まるでビロウドのような、艶々とした毛並みが、動くたびに揺れる。金色の瞳が、縁側であぐらを掻いている男に向けられた。
「喜助」
その声は、黒猫の口から発せられた。

「どーしました? 夜一サン?」
振り返ったのは、家の中だというのに帽子を被った男だった。色白で、砂色の髪を肩のあたりでザンバラに切っている。

「砕蜂から連絡があってな。日番谷が、今からこっちに来るそうじゃ」
「日番谷隊長が?」
浦原は驚いたような声を発したが、表情は声ほどには驚いていないように見える。
「隊長サンともあろうお方が、こんなしがない浦原商店まで何の御用で?」
「元技術開発局局長のくせに、何を言うか。詳しいことは儂も知らぬ。ただ、看てやってくれとしか砕蜂も言わなかったのだから」
「看る? って、ウチ医者じゃないんスけど」
「それくらい砕蜂だって分かっておる」

夜一は、浦原の隣に歩いてくると、ふわ、と欠伸をした。
「ま、本人に聞いてみれば……」
ピク、とそのヒゲが震えた。浦原も、片膝をついて起き上がる。
「……聞くまでもなさそっスね」
それだけ言うと、足早で店のほうへと向かった。



それより、ほんの少し前。ジン太は、陣取っていたレジの前から立ち上がっていた。
裏においてあった特製バットを肩に担いだだけで、臨戦態勢は完了だった。
「ったく、本当に最近は虚が多いな」
「本当だよね……」
「ぅわウルル! いきなり後ろに立つんじゃねえよ」
振り返りざまにゴン、と自分よりも高いウルルの頭を小突く。
「痛い! 痛いよジン太くん」
泣き声でそう言いながらも、肩にはガトリング砲を担いでいるのだから恐ろしい。

「とっとと片付けるぞ、ウルル!」
扉を開けると、そこには思ったとおり。半人半獣のような格好をした虚達が三体佇んでいた。
「てめーなんかに売るモンはねーよ!」
雑魚じゃない。しかし、自分とウルルなら倒せるだろう。そう思って、ジン太がバットを振りかぶった時だった。
一秒もない、刹那。その三体の虚が、全く何の前触れもなく、「爆発」したように見えた。
「……え?」
虚達の血が、ジン太の頬に飛んだ。三体とも、悲鳴を上げることも出来ず、その場から消えていおく。


「……ジン太くん」
背後にいたウルルが、そっとジン太の袖を掴んでいた。その全身が小刻みに震えている。
その頃には、背筋の毛が一斉に立ち上がりそうなくらいの殺気が、その場を覆い隠していた。
「下がってろ、ウルル……」
そうジン太が言った時だった。虚達の立っていた場所に、いつの間にか黒い幽霊のように立っていた、その姿に気付いたのは。

白銀の髪。翡翠色の瞳。まとった死覇装。
「と、冬獅郎」
ゆっくりと、日番谷はジン太とウルルのほうに歩いてくる。
いつもなら、「何やってんだよ」とか、軽口を叩けただろう。しかし、今日番谷がまとっている空気は、とても話しかけられるようなものではなかった。
ジン太よりも少しだけ高いくらいの、その身長。
しかし歩いてくるだけで、まるで山のように気配が膨れ上がり、闇となって二人に覆いかぶさってくるように思えた。

ジン太とウルルは、動けない。目を合わせることも出来ない。その隣を、日番谷は無言で通り過ぎた。
まるで「死神」が通り過ぎたみたいだ、とジン太は笑えないことを思った。


「ああ、なるほどね」
飄々としたその声を、これほどありがたいと思ったのは、その時が初めてかもしれない。
「店長!」
ジン太とウルルが振り返り、浦原商店の前にいつのまにか立っていた浦原喜助を見つけると、掠れた声を上げた。

「近づくだけで、虚がはじけ飛ぶ程の霊圧。放置するとアナタ自身も危険っスよ」
「……押さえられねぇんだ」
日番谷の口から漏れたのは、紛れもない本人の声。しかし、緊張を解くにはあまりにその霊圧は高すぎた。ふむ、と浦原は顎に手をやった。
「確かにコレは、ウチの管轄ですね。中に入ってください、日番谷サン。なんとかしましょう」

 

「おい、店長。冬獅郎、どうしちまったんだよ?」
店の奥をガサガサと漁っていた浦原の背中に、ジン太は声をかけた。
「いや、大したことじゃないよ」
積み上げられた箱の奥に顔を突っ込んでいるせいで、その声はくぐもっている。

「大したことじゃねぇようには、見えなかったぜ?」
「霊圧のオーバーロード。日番谷サンみたいな人には起こりがちのことなんだ。
彼の生まれ持つ霊圧は、元々異常に高い。そのくせ、それを押さえ込む体力や経験はまた未発達だ。
ふとしたことが引き金になって、自分の力が押さえ切れなくなることはあるんだよ」

「押さえきれないと、どうなるの……」
ウルルの声に、浦原は間髪要れず返した。
「自爆する」
「大したことじゃねえか!」
「まぁ、今よりヒドくなることはないはずだよ? 霊圧を押さえ込む道具があれば……ね」
そこまで言って、浦原は二人の子供を振り返った。

「ただそれより問題は、その道具が見つからない、ということですが。探すの手伝ってくれません?」
「もー、なんで片付けとかないんだよ!」
「こないだメチャメチャに散らかしたの、ジン太くんでしょ」
「うー、うるさい! お前も探すんだよ、ウルル!」
ジン太は赤面したが、すぐに店の奥に肩を怒らせて入っていった。



ふる、と夜一はヒゲを震わせた。
―― むせかえるようじゃのう……
ちょっとでも鋭い人間なら、今の日番谷には一歩も近づけないと思われた。近づくだけで命を奪う、と言ってもこの場合、過言ではない。

縁側に座っているその背中に、そっと背後から近づいた。かすかに聞こえていた軋み音の正体を見て、夜一は黄金色の瞳を細めた。
日番谷は「氷輪丸」を鞘ごと腰帯から引き抜いていた。その鞘を両手で、ギリギリと音が出るほどに握り締めているのだった。
その鍔の辺りを額に押しつけている。ひたむきなまでに思いつめた瞳に、まるで鞘の中に収められた白刃のようにギラリと光が渡った。
少なくともその姿は、もう「隊長」のものではない。戦いを追い追われる一人の男の貌(かお)がそこにはあった。
その表情は、まるで何かに祈っているようにも、戦いに取り憑かれているようにも見えた。

―― これはいかん。
危険を察知して、夜一が背後に下がろうとした時だった。その尾が、机の上に置かれていたボールペンに当たり、ペンが畳の上へと転がり落ちた。
「!」
日番谷が素早く振り返る。斬られたか、と思うほどの殺気が、夜一の全身に吹きつけられた。
しかし、いつまでたっても斬られるわけでもなく、日番谷がそれ以上、身動きする気配もない。
夜一が顔を上げると、じっと見つめている日番谷と目が合った。

「なんだ、猫か」
その声は、無心。そうか、と夜一は心中頷く。日番谷は、正体が「四楓院夜一」だということは知らないのだ。
今の日番谷には、ただの黒猫に見えているのだろう。


日番谷は、軽く首をかしげた。そして、不意に手を伸ばした。
―― こっちへ来い、と言っておるのか?
冗談じゃない、と思う。今の無力な猫の姿で近づいて、日番谷がほんの少しでもその気になれば、殺されるのは間違いない。
伸ばしたその手で、捕まえられたら終わりだ。

しかし日番谷は、手を伸ばしたまま、動かない猫を見つめたままだ。
―― っ、もう……
まるで自分が、意地悪をしているような気になるではないか。夜一は警戒しながらも、ゆっくりと日番谷に歩み寄った。


日番谷の指が、夜一に伸びた。体を強張らせた瞬間、頭を撫でられた。
「……?」
「なつっこい猫だな」
その瞳が、穏かに凪いだ翡翠色に戻っているのを見て、夜一はぱちくりと眼をしばたかせた。まるで、一瞬の魔法を見たようだった。

―― 儂、なにかしたか?
ただ、近づいただけなのに。日番谷冬獅郎が動物好きという話は聞いていないが、この分ではそうなのかもしれない。
いや、というよりも、自分より小さく弱い命を見ると、手を差し伸べずにはいられなくなるのかもしれない。
きっとそうだ。頭を撫でるその掌の優しさを感じて、夜一はそう思った。

するりと体を日番谷の膝に押しつけると、確かにその口角が上がるのが見えた。
にゃん、と猫の振りをして鳴いてみると、なんだよ、と穏かな声が落ちた。

「腹が減ったのか?」
返事をするように、鳴く。
「違うのかよ?」
また、鳴く。
戦いに自分を求める男としての素顔と。
今猫を撫でる子供にしか見えない素顔と。
どちらもうっかり目にしてしまった夜一が、思うこと。
膝に乗り上げてきた黒猫に、少年は一瞬驚き……年相応のあどけない笑顔を浮かべた。
やはり、まだ子供の側にいてほしいと思うのは、甘いだろうか。



「日番谷サン、お待たせしました」
浦原が、居間に入ってきたのは、それから三十分後のことだった。
「この石を、身につけておいてください。更木サンのつけてる眼帯レベルの効果はありますから」
振り返った日番谷の瞳を見て、ん? と浦原から気が抜けたような声が漏らされた。
「……と思ったんスけど。もう要らないっぽいですね」
そして、その膝から飛び降りてきた黒猫を見て、きょとんと眼を見開いた。

「……その、猫。ずっと日番谷サンと一緒にいたんですか?」
「ああ。人懐っこい猫を飼ってるな」
にゃおん、とわざとらしく鳴いた夜一を見て浦原はもう一度目を見開き……目じりを下げた。
「そうでしょ。うちの自慢ですよ」
頭を撫でた途端、ガリリ、と腕を引っかかれる。悲鳴を上げた浦原の隣を、ゆうゆうと黒猫が通り過ぎ、部屋を出ていった。
日番谷はそれを横目で見ながら立ち上がった。

「世話になったな。帰る」
「そう言わずに、もうちょっとゆっくりしてきません?」
「あぁ、でも……」
日番谷がそういいかけたちょうどその時、パーン、と襖が退き開けられた。
「隊長っ!!」
飛び込んできたのは、蜂蜜色の髪を持つ、女死神だった。

「松本?」
「も、元に戻ってる」
意外そうに声をかけた日番谷に、眼を潤ませた乱菊が、有無を言わさず飛びついた。
「お、おい! 苦しい、放せ!」
「良かった、もう戻らなかったらどうしようって心配しましたよ〜」
「……悪かったよ」
日番谷は肩をすくめた。そしてすぐに、乱菊の体を引き剥がす。その時にはもう、いつもの「隊長」の貌(かお)に戻っていた。


「それよりお前! 留守を任せるって言ったはずだぞ。何で出てきてんだよ」
「仕事は終わらせてます! 留守は第三席が守ってますから」
「言葉の後半は信じる。だが前半は信じられねえ」
「もう! 隊長のイジワル!」
隊長としての仮面は窮屈か? 背後のやり取りを聞いていた夜一は、そう問いかけようとする。
いつか、その仮面を食い破って、本性の「日番谷冬獅郎」が姿を現す日が来るのかもしれない。
―― 一介の黒猫の身から言わせて貰えば、そんな日が来ないのを祈るばかりじゃの。
慌てて部屋に入ろうとしたジン太とウルルと、すれ違いながら夜一はそんなことを思った。


「じゃあな、瀞霊廷に戻る。邪魔をした」
「本当に邪魔だったぜ。……って、無視かよ!」
「黙ってなさい、ジン太。またお越しください」
「いつかな。……あぁ、それと」
夜一は、続いた日番谷の言葉を聞いて、クスリと口元を和らげた。
あの黒猫に、よろしく。