「一体、なんの書類なんですか? それ。珍しく手、止めちゃったりして」 隊首机の上に置かれた、ぺラリとした一枚の紙。 筆に墨を含ませたまま、それを見下ろしていた俺に気づいた松本が声をかけてきた。 季節は十月、殺人的に降り注いだ太陽も勢力を失い、窓を開けていると涼しい風が入ってくる。 俺は口の中で唸り声とも返事ともつかない声を漏らすと、その紙を松本に手渡した。 「なつめ堂? ああ、あの可愛い女の子が店長の。……会員登録書?」 「こないだ店に行ったら、会員カードを作るからとか言って、渡されたんだよ」 「ええ? あたしの目を盗んでいつの間にあの子に会ってたんですか!」 松本の大声に、隊首室の窓の外にいた隊士たちが、一斉にぎょっとした視線をよこしてきた。 修練場へ行くらしく、そろって白い稽古着にたすき掛けの姿だ。 <なんでもねぇ>俺は視線で黙殺する。 大体なんで俺が、愛人と逢引した男みたいな言い方されなきゃなんねぇんだ。 松本は口から出した直後にはもう自分の胡乱な発言を忘れたらしく、紙に視線を落としている。やがて、俺と同じように唸った。 「こ、これは、なんていうか……挑戦的な内容ですね」 「だろ?」 氏名、年齢、住所、職業。きわめて平凡な内容には違いない。 でも問題は、それを渡された俺が全く平凡じゃない、ということだった。 ていうか、俺が死神だって知りながら、なおも渡すか? 俺はあの店長の、やわらかな表情を思い出す。 全体的に小柄で、鼻や口などのパーツも小さめでおしとやかなイメージがあるが、意外と押しが強い。 まあ、しっかりしていなければ、一人で店を経営するなどできないのだろうが。 正直、会員特典とやらの割引やなんやらに全く興味はなかったのに、気づけば受け取って、持って帰ってきてしまったのだ。 「始末書ならサラサラと書けるのに」 そう言うと、松本は面白そうに笑った。 「棗ちゃんのおばあちゃんの霊を、棗ちゃんに引き合わせたんですよね?」 「……。なんでニヤニヤ笑ってんだ?」 「いやぁ。幼女の霊をさらう浮竹隊長とか、熟女の霊をさらう京楽隊長なら怪しいですけど。老女の霊をさらう日番谷隊長って言うのが、もう周囲は大爆笑でしたよ」 「……。だ・ま・れ」 おばあちゃんっ子ですもんね。そう続けられて、渋面を返す。だが否定はしない。 笑い止んだ松本は、なにげなく聞いた。 「……なんで、そんなことしちゃったんですか? 棗ちゃんに頼まれた、んじゃないんですよね」 「あいつがそんなこと頼むかよ」 当時、俺が死神だということを棗は知らなかったんだ。 それに、知っていたとしても、俺にそんなことを頼まなかっただろう、という妙な確信があった。 じゃあどうして。問いかける松本の視線を感じる。 どうしてそんなことをしたんだ、と総隊長からも突っ込まれたが、理由については無言を通した。 言いたくなかったというより、うまく説明できなかったからだ。 俺はしばらく無言だったが、松本は返事を促すでもなくそこにいる。仕方なく、口を開いた。 「この、死覇装だがな。いつもサイズが適当なんだ」 俺は自分が今来ている死覇装を見下ろす。季節が変わるごとに支給されるもので、俺のは特注品だ。 特注だし新品なのに、いつもサイズが微妙に合わないから仕立て直すか、我慢して着ることになる。 「だが、なつめ堂のは、サイズが合わなかったことは一度もねぇんだ」 まるで、前からずっと着ていたように肌に馴染むんだ。それに気づいたのは通い始めてすぐのことだった。 普通なら、ありえないことだった。もともとは別の人間が着ていたんだから、初めは合わなくて当たり前だ。 棗が引き取ってきた着物をひとつひとつ俺に合わせて仕立て直していることを知ったのは、割と最近のことだった。 サイズを言ったことはないし、体格なんていつも微妙に変わっているものなのに。 生地も強張りすぎも緩みすぎもしない、ちょうど俺の好みのやわらかさに仕上げられている。 着物を扱うあいつの指は、優しいと思う。 あいつのまなざしには、着物の先にある、それを着る人間を見ているようなところがあって深い。 いつの間にか、俺はあいつの「仕事」に惚れていたんだと思う。だから。 「全ての者が死ぬ」 何気なくそう言ったとき、棗が返してきた視線にドキリとしたのだ。 毎日大量に訪れるそれを、的確に効率よく処理する。当然だと思っていたことに、疑問符を投げつけられた気がしたんだ。 棗は、自分が扱う着物の向こうに、誰かの人生を見ている。 俺は、死を扱いながら、その向こうにある人間を一度でも見たことがあるのか? 「俺はただ、あいつが俺にしてくれたことを、そのまま返しただけだ」 松本には、やっぱりうまく伝えられない。でも頭の上で松本が、微笑む気配がした。 <でも、どうして> 棗と祖母が顔を合わせた数秒のことを思うと、なんとも言えない気持ちに駆られる。 あの祖母は、俺に伝言を託した。 どうして、あの祖母は、直接棗には何も語らず消えたんだろう。語りたいことも、たくさんあっただろうに。 人間は、最期の瞬間までわからないものだ。 無意識のうちに、こないだ会員登録書と一緒に棗からもらった蝋燭を、手にとっていた。 蝋燭を使う機会なんてそうないから、机の上に放り出したままになっていたのだ。 「素敵な関係ですよね、隊長とあの子」 松本は、それだけ言うと、俺が手にした蝋燭を見下ろした。 「かわいい和蝋燭(ろうそく)ですねー」 「ああ、なぜか棗がくれたんだ。祖母が気に入って、毎年買ってきて仏壇に供えるようにと言ったらしい。結果的には、遺言になっちまったようだけど」 「桔梗の花の絵かな? 凝ってますね。なんか蝋の色も黄色いし」 「蜜蝋でできてるから、普通の火の色と違うらしいぞ。見てみるか」 松本から蝋燭を受け取り、何気なく火をつけようとしたとき、松本の手がそれを遮った。 「何だよ?」 「使っちゃったら、なくなるじゃないですか」 「蝋燭ってそういうもんだろ」 何を当たり前のことを。俺が眉をしかめると、松本は肩をすくめて見せた。 「隊長って頭いいはずなのに、たまに鈍いですよね。棗ちゃんがどうして隊長にこれをくれたのか、分からないんですか?」 「……」 当然、俺は不機嫌に黙り込むことになる。 上司を捕まえて鈍いとは失礼だが、だからって理由なんて分からない。 松本は、ふふん、と小癪な顔をして笑った。 「知りたいですか?」 「知りたくもねぇ」 「仕方ないですねぇ、教えてあげましょうか?」 「だから知りたくねぇんだよ」 本当に人の話を聞かねぇ奴だ。松本は、ソファーの肘置きに腰を下ろすと、俺を見返してきた。 「おばあちゃんはね、近い将来、自分が死ぬことは分かっていたと思いますよ。だから、この蝋燭には、おばあちゃんの願いがこもってる。 自分が死んだ後も、この蝋燭は使われ続ける。使われるたび、棗ちゃんに自分のことを思い出してほしいって」 「自分のことを忘れないでくれって、直接いえばいいだろ、そんなもん」 「だってそんなこと、不可能じゃないですか?」 サラリと松本はそう言った。 「どんなに大事でも、忘れていくじゃないですか。そして、いいひとほど忘れたことを自分で責めなきゃいけなくなる。 自分のことを思い出してほしいほど大切な人には、させられない約束です」 蝋燭を手に取り、視線を落としながら、祖母を語った棗を思い出す。優しい眼をしていた。 棗は、思い出すだろう。 あの蝋燭を見るたびに、祖母のことを。 毎年蝋燭を買いに行き、祖母の墓前に供える。その習慣を絶やすことはきっと一生、ないだろう。 自分のことを覚えていてほしい。 その願いはささやかに見えるが、やっぱりそうではないんだと思う。 死んだ後も、誰かの心に残り、生き方を縛る。罪深い、とさえ言ってもいいのかもしれない。 <棗に、伝えてくださいな> そう俺に言った、あの老女のことを思い出す。 最期の言葉は、「ありがとう」ではなく、謝罪だった。 「女は、ものに気持ちを託すんですよ。女にかかれば、蝋燭もただの蝋燭じゃなくなっちゃうんですから」 松本は、俺の前にトン、と蝋燭を置いた。 確かに、俺も思い出すだろう。この蝋燭を見るたびに、棗の控えめな微笑を。 俺は蝋燭を、机の中に仕舞った。 夕映 こんどこそ完
ちょっと書きのこした感があったので、かるーくおまけをつけてみました。
気づいて読んでくれたかた、ありがとうございますmm
[2010年 9月 2日]