その日の、夜。
市丸は自室の縁側で、昨夜と同じように熱燗を口に運んでいた。
夜の庭には、わずかに欠けた月が振りまく月光が満ちている。
ただ、昨夜は傍にいた銀髪の少年は、いない。

―― さすがに、今日は来んやろなぁ……

あの後、乱菊が日番谷をきつく戒めたことは想像に難くない。
乱菊ほど、市丸を知り尽くしている人間はいないからだ。
例えば、市丸と遊びでも「恋愛関係」になった女の末路、とか。

―― 「愛してるわ、ギン」
―― 「貴方が一番大切よ」
そう市丸に囁いた女は、両手で数えても余るほどだ。
だが、ただ一人として今、彼の隣に居続けられる者はいない。


「ま、時間の問題やろけどな」
昼間、自分を見つめてきた日番谷を思い出す。
自分で自分を止められない、そんな苦悩と恍惚を行き来する表情。
あれでは、何日と自分なしには耐えられまい。
「早く来んかなぁ♪」
自分が日番谷のことをどう思っているのか、なんて面倒くさいことは考えない。
ただ彼を思うたび、心の毛羽立っているところを引っかかれるような気分を感じていたのは事実。

市丸ギンは、平静には日番谷冬獅郎のことを考えられない。
それなのに平静を装うあの少年の余裕を、この手で壊してやれたらいい。


市丸は、自分の指先に視線を落とす。
あの時小刻みに震えていた、日番谷に触れた指先を。
―― いちま、る
自分の心をも震わせた、声。

「来るんやない、今日は」
市丸は、先ほどまでとは全く逆の言葉を口にした。
「どうしてしまうか、分からへん」
自分が、混乱していることなど分かっている。
日番谷が昼間見せた動揺は、同じくらい強く自分を揺さぶっていることも。


「市丸」


その刹那。鼓膜を震わせた音に、市丸はまさか、という思いを込めて見上げる。
子供にしては低く、大人にしては声変わりしていない、彼独特の声音。
市丸は反射的に、夜の庭に目を遣った。

ふわり、と。

まるで体重がないかのような軽やかな動きで、日番谷が視界に現れた。
中空に浮かんだその輪郭は、月を逆光にしているせいで輝いて見える。
純銀に光る髪に、市丸は思わず目を細めた。
市丸の姿を眼下に認めると、ゆっくりと地上に向かって降りてくる。
市丸は思わず縁側に立ち上がり、日番谷に向かって腕を伸ばした。

日番谷の表情は、まるで夢を見ているように無心で、本心は伺えない。
しかし。
伸ばされた市丸の腕に、拒絶の言葉は一切吐かれなかった。
日番谷の掌が、市丸の手首に触れる。そのまま、掌が二の腕を滑った。
いとも簡単に触れ合う、体。
市丸は、日番谷の腕が自分の首に回されたのを、信じられない思いで見守った。

―― 相当、症状が進んどるな。
いつ、症状が解けるのかは誰にも分からないが、次の瞬間とも限らないのだ。
いつ無に戻るか分からない、それは仮初の愛情。
そして仮初にすぎないということを、今の日番谷は気づけずにいるのだ。
「……よぅ来たな、冬獅郎」
その片頬が、くっ、と笑みの形にゆがめられた。
「来てくれて嬉しいわ」



「……もう、いいだろ」
月の青白い光を受けて尚、日番谷の頬が赤らんでいるのが分かる。
市丸の首から腕を放し、そのままふわりと縁側に足をつけた。
その途端、市丸は後ろから日番谷を捕まえ、胸の前に腕を通して引き寄せた。
一瞬、小柄な体に力が入るのが分かり、市丸は笑みを含んだ表情で日番谷の頭を見下ろした。
「……よぅ、乱菊が許したな。怒ってたんちゃう?」
「あぁ、まあ、な。でも大丈夫だ」
日番谷の声は、昼間に比べると格段にしっかりしていた。
「大丈夫って、どゆこと?」
日番谷が息を詰めるほどに腕の力を強め、胡坐を掻いた足の上に、日番谷の体を引き上げた。
「邪魔は入らん、ってことか?」
その両足から、草履を器用に脱がせると、縁側の向こうに放り投げた。

どこまで耐えられる? そう思っていた。
本気で暴れだすのか、それとも昼間のように懇願するか。
どんな反応をされようが、途中で止める気などサラサラなかった。
「……好きにしろよ」
だから、日番谷の唇から漏れた言葉に、市丸は改めて耳を疑った。

ふ。
市丸の唇に、本心の読めぬ微笑が刻まれた。
「ほな、好きにさしてもらうで」
そして、その指先を、日番谷の着物の合わせ目から中に滑らせた。


日番谷が息を詰めるのが分かった。
こんな風に、無骨な大きな手に素肌を撫でられるなど、経験がないことに違いない。
違和感を感じるのは当然だった。
「どうしたん?」
見下ろすと日番谷は、ぎゅっ、と目をつぶっていた。
しかし、頑ななまでに抵抗しない。
「ホンマに、抵抗せぇへんの? できんとは言わさんで」
柔らかな肌だった。きめ細かさは、むしろ市丸が今まで抱いてきた女よりも上に思える。
指をはしらせれば、着物の上からはでは目立たないが、引き締まった筋肉の筋が触れる。
ただ、やはり子供のものだ。
大人に比べれば格段に繊細で、まだ未熟だった。

「ボクが優しぃしてくれるって、期待してるんか?」
その瞳が、すぅ、と開いた。
指先が、日番谷の心臓の真上を探り当てると同時に、ピタリと止まる。
どく、どく、と波打つそれは、随分と高く、速い。
「やっと、捕まえたで」
ニヤリ、と亀裂のような笑みが、その両頬に広がった。

 

「……っ」
ぐっ、と胸の上から爪を立てられ、日番谷は初めて声を漏らした。
当然、痛いはずだ。
かすかに、血の匂いが鼻腔をついた。
「あぁ、ゴメンな。痛かったか」
笑みを消さぬまま、日番谷の首筋に後ろから舌を這わせる。
息を飲む気配がすると同時に、力を入れて吸い上げた。
「いちま……」
さすがに耐えかねたのか、日番谷が振り向こうとする。
苦しげに眉根を寄せた少年を、市丸は舐めるような視線で見下ろした。

「あァ、あかんわ」
正面を向いた日番谷の首を両側から挟みこむように、トン、と親指と人差し指をつく。
「市丸……」
「殺してしまうかもしれん」
市丸の表情に浮かんでいるのは、愉悦以外の何ものでもなかった。
言葉と同時に、指を下にひき降ろす。
きっちりと重ねられていた着物が肌蹴け、白い肌が外気に曝された。

市丸の言葉からなのか、肌が外気に触れたからか、それとも恐怖を感じたからなのか。
市丸の指の下で、日番谷の全身が緊張するのが分かった。

「許せへんな」
市丸の言葉に、日番谷が視線を向ける。何を言っているのか分からない、という顔だ。
ちょっとでも、ボクを拒絶しようとするんは、許せへん。
ボクを本気で愛する気やったら、完全にボクの「モノ」にせんと気がすまん。
そんな思いを、口にすることはない。


「何を思ってるん?」
心臓の激しい高鳴りに頬を寄せる。
返答次第では、一瞬で心臓を食い破ってしまうような、そんな嗜虐心を湛えた表情。
「逃げる方法か? それとも、後悔してるんか?」
日番谷は、胡坐を掻いた市丸の足をまたぐように、膝立ちのまま市丸を見下ろした。
「そうやって、殺してきたのか?」
市丸は、初めて日番谷の瞳を真っ向から覗き込んだ。
―― この子、怯えてへん。
この期に及んで、その瞳に恐怖の片鱗も浮かんでいないことに、市丸は心中驚いた。

「何人も、何人も。殺してきたんだろ?」
「あァ。知ってたんやね」
日番谷の言葉が、市丸と恋愛関係にあった女の末路を示しているのは、明らかだった。
「皆、薄々は知ってることだ」
「……殺したで」
市丸は、懐かしむような「笑み」を浮かべる。
「逃げて、泣いて、懇願して、絶望する女達を。一人残らず、殺してしもた」
当然飛んでくるだろうと思っていた非難の言葉は、なかった。
今の自分がその女達と同じ立場だと、気づいているからか?

「アンタはどうやろな? 日番谷冬獅郎」
続いて放たれた市丸の言葉は、混じりけなく残虐に聞こえた。
互いにどうでもいい存在だったころも、交流が始まってからも、こんな声音を市丸が日番谷に向けたことはない。

しかし、日番谷は揺らがなかった。
「好きにしろと言ったはずだ」
市丸は、一瞬不興げに瞳を見開いた。再び細められた時、剣呑な光が宿る。
急に、胸に寄せていた頬を離し、正面から日番谷を睨みすえた。


「脱ぎな」

その声音も眼光も、既に笑みを湛えていない。
日番谷は、苛立ちさえ見える市丸の表情を見返した。
そして、まるで自室で着物を脱ぐかのように無造作に、はだけた着物に手をやると、一気に脱ぎ捨てた。
その上半身が露になる。
肌は、暗がりの中でぼう、と浮き上がって見えるほどに、白い。
さきほど市丸に傷つけられたその胸元だけが、赤い痕跡を散らしている。
翡翠色の瞳は、日番谷の色素の薄い全身を引き立てるように、落ち着いた色に満ちている。
そして、その体の中に秘められた霊圧は、抑えられていても尚、市丸を圧した。
こんな圧倒的に市丸が有利な状況に関わらずだ。

「ホンマに宝石やな」

市丸は声を漏らした。それは、本心だった。
「姿も、中身もな。次期総隊長って噂されてるんもムリないわ」

その腰に手を回し、自分のほうへと引き寄せる。
「それを穢すんは、最高の気持ちやわ」
「……穢す」
「アンタがボクに許すんは、ただの一時的な病気や。でも、そんなことはどうでもええ」
市丸は身を起こすと同時に、日番谷の体を縁側に横たえた。
「ボクはアンタを犯す。ボロボロになるまでな。泣いて頼んでも逃がさへん」
「逃げる気はねぇ」
しかし日番谷は、凛とした言葉で市丸を跳ね返した。
「ボクがアンタのことを、愛してへんどころか……どうとも思ってへんとしても?」
ゆっくりと、確実に、言葉の刃をもぐりこませる。
「それでもだ」

市丸は返事の代わりに、眉を潜めた。
「本気で言うとんか。……ホンマに、殺すで?」
「あぁ」
自分の命を引き渡すには、あまりにも短かい返答だった。
「ボクを試す気か?」
「試されてると思うのか?」
「殺せへんと思ってるんか?」
「殺せないのか?」
質問に返される、質問。鍔競りあう視線が、絡み合う。

「殺せよ。今すぐ」
「……オマエ」
なぜ、挑発する?
市丸が、人殺しなど眉ひとつ変えずにやってのけられることを、知っているはずなのに。
市丸は衝動的に、日番谷の首に手をかけた。
指先に力を入れても、日番谷は尚、微動だにしない。
「殺せ」
死にたいのか? 一瞬そう思い、そんな訳がないとすぐに思い返す。
日番谷は、隊長である責務を誰よりも重く背負っているように見える。
どんな時でも部下のために生き抜こうとする。市丸が知る日番谷は、そんな男だ。

こんな風にやすやすと、投げ出せる命じゃないはずだ。
一体何のために、こんな危険な賭けをする?
それは、市丸が今まで夢にも思わなかった、日番谷のもうひとつの顔だった。


……あぁ。惚れてるからか。
市丸は、ふとその思いにたどり着いた。
病気の影響とはいえ、今の日番谷は市丸に「本気で」愛情を感じている。
愛している相手になら、殺されてもかまわないという激情。
日番谷冬獅郎、というクールな皮膚に隠された本性を、ちらりとでも見たような気がした。
うらやましい、と思った。
いつか、日番谷にホンモノの愛情を注がれる誰かが。

「もしも、ボクが付き合ってきた女が、アンタみたいやったら……」
「……市丸?」
それ以上は何も言わず、市丸は日番谷を引き起こした。
そして、血が滲む胸元に、手を置いた。
「それは、取っときな」
「……それ?」
日番谷の声が、掠れている。

―― ホンマ、ムリしよるわ。
相手に何をされても抵抗ひとつしない、なんて。
怖かったのだろう、やはり。



「十番隊長さん」
脱いだ着物を手渡しながら、市丸は日番谷をそう呼んだ。
久しぶりに口にした呼び名は、随分と無味乾燥に聞こえた。
「頼みがあるんやけど」
「……なんだ」
着物を肩に掛けた日番谷に、背を向ける。
「二度と、ボクの前に顔出さんといてくれるか」
背後の日番谷に、反応はない。
その表情を見たくもない。これ以上、言葉を交わしたくなかった。

あぁ。ボク、逃げてばっかりやな。
日番谷を縁側に残したまま、障子を締め切る。
障子に背を持たれかけさせた市丸の頬には、苦い笑みが浮かんでいた。

 


その、翌朝。
さくさくと、降り積もった雪の上を歩いてくる音がする。
ほぅ、と白い息が漏れた。
「ねー、吉良! ギンいる?」
「松本さん、珍しいですね」
ちょうど三番隊の執務室の前で、乱菊は吉良と鉢合わせした。

「はい、いらっしゃいますよ」
珍しくも、という声音を言外に滲ませる。
「ただ、なんかヘンなんです」
「ギンはいっつも変よ」
「いやそういう変じゃなくて……」
「もう、ちょっとやそっとの『変』じゃ驚かないわよ。……ギン、入るわよ!」
乱菊はノックもせず、いきなり扉を開け放つ。
「……なによ、覇気ってもんがないわね」
隊首机の前にいることはいるが、椅子に深くもたれかかった市丸は、仕事をしている気配は微塵もない。
「うるさいわ。やる気のあるボクなんて気味悪いやろ」
「自分で言うな」
乱菊は、ツカツカと市丸の机に歩み寄った。
「ハイ、これ。うちの隊長からのお使い」
「……十番隊長さんは?」
「いつも通りよ。ただアンタの顔は、当分見たくないんじゃない? さすがに」

市丸は、肩をすくめただけで何も返さなかった。
二度と顔を見せるな、と言い放った翌日なのだ。日番谷も気を使ったのだろう。


「おい、乱菊」
「なによ」
「お前、昨日十番隊長さんに、なんって聞いた?」
あぁ。乱菊は頷いた。
「どっかの誰かに惚れ薬を盛られて、一番初めにギンを見たって」
「あー…………」
「ホント許せないわ! ウチの隊長に薬盛るなんて。絶対に犯人見つけ出してやる」
「あー…………」
「何よ、訂正でもあるの?」
「いや、ないけど」
確かに、おそらく事実だ。非常にかいつまんだ事実ではあるが。
「しかしお前、昨晩十番隊長さんを見張るくらいするか思たけど」
少なくとも、昨日の剣幕だと間違いないと思ったのに。
しかし、乱菊は昨夜あったことなど夢にも知らない、という表情で笑い飛ばした。
「あー、いいのよ。だってそれから、何もなかったでしょ?」
「あー…………」
「何よ」
「いや、訂正はないで」
それだって事実だ。同じく、結果しか述べていないが。
しかし乱菊がその後何気なくはなった一言に、市丸は凍りつくことになる。

「だって隊長、あんたが逃げた直後言ってたもの。『あれ? 治った』って。もう惚れ薬の効果、切れてるはずよ」
「……は?」
待て。
市丸が乱菊のところから逃げ出した時間、午前10時ごろ。
その時に、既に症状が収まっていたとすると。
……
そんな訳ないやろ!
思わず大声で言い返しそうになった言葉を、飲み込む。

治った、だと?
じゃあ、昨晩の日番谷は、一体なんだったのだ?

「……んなアホな」
急転直下。
それっきり、市丸は絶句した。