「以上を持ち、定例隊首会は閉会とする!」
重々しい総隊長の宣言と共に、隊長達は一礼した。
総隊長に歩み寄る者、隊長同士で談笑するもの様々だが、日番谷はその中でさっと踵を返した。
その後を、市丸はゆったりとした大股で追った。
「……十番隊長さん」
縁側をきびきびした足取りで歩む日番谷の背中に、市丸は呼びかける。
しかし、日番谷は肩を怒らせたまま、全く振り向く兆しも見せない。
だが、そこで退くような市丸ではない。逆にニヤリと笑った。
「なー、十番隊長さん!」
ひょい、と目前に唐突に現れた市丸に、日番谷はやむなく足を止める。
そして、子供とは思えない凄みのある視線を、市丸に向けた。
「だからてめーは、そう簡単に瞬歩を使うな!」
言ってから、半月前のことを思い出してしまったらしい。ますます眉間の皺が深まった。
―― こりゃ怒ってはるなぁ……
まぁ、弱みを握った上、その弱みを突いたりくすぐったり、それはもういじり倒した自覚はある。
「そんな顔せんでもいいやん。ボクと十番隊長さんの仲やし」
わざとニヤリ、と笑みを携えたまま言い放ってやると、日番谷は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「ちょっと来い、市丸」
それだけ言うと、その場から瞬歩で姿を消す。
市丸はほくそ笑んだまま、その霊圧を追った。
日番谷が向かったのは、一番隊舎の裏手にある尖塔の上だった。
ひゅうひゅうと冷たい1月の風が吹き荒んでいるが、この少年は全く何も感じないらしい。
「な……なぁ、寒いんやけど」
「俺は寒くない。嫌なら帰れ」
すぐに、にべもない返事が返ってきた。
「なぁ、あっためてくれへん?」
「却下」
いちいち挑発に乗らないことにしたらしい。
日番谷は、改めて市丸を睨みすえた。
「そんなに睨まんといてって。結局、ウサギ耳がなくなったんボクのお陰やろ」
「そんな訳あるか!」
日番谷の声が少し大きくなる。しかし、違うと言い切れないのもまた確かだった。
確かに、市丸に口付けられて一瞬(いろんな意味で)気が遠くなり、次に我に返った時には耳が消えていた。
なぜ耳が消えたのか、そもそもなぜ現れたのか、その疑問は全く持って解消されていない。
「とにかく。あれはもう半月前の話だ。お前がしたことも水に流してやるから、蒸し返すのはやめろ。
あれっきり、何も起こってねぇんだから」
「蒸し返そうとしたら?」
「互いに刀の斬れ味を試すことになるぜ」
そりゃ、殺し合いっつーことですかい。
バニーちゃん騒動(と勝手に市丸が名づけている)を、そんな凄惨な結末にはしたくないが。
「そんな冷たいこと、言わんといてや」
困り果てたような市丸の懇願にも、日番谷は眉ひとつ動かさない。
「下手に出といて、こっちが隙見せると何するかわからねーだろうが、てめぇは」
ほぅ。市丸は目を見開いた。
よく分かってはる。
「とにかく、あの時の話はもう二度とするな。それだけだ、言いたかったのは」
それだけ言い放つと返事を待たず、日番谷は尖塔から滑り降りた。
身軽な動作で一番隊の屋根に飛び移り、縁側からすとん、と庭に下りるのと、市丸は見下ろし……
はぁ、とそれはそれは、深いため息をついた。
二人だけの秘密を握ったはずだったのに。蒸し返すな水に流せとは酷だと思いながら。
「バニーちゃん騒動」。それは、ある朝日番谷の耳にウサギの生耳が生えた。
ただそれだけの、どうしようもない馬鹿馬鹿しい事件のはずだった。
結局、朝目が覚めて発見して、市丸の唐突な口付けをきっかけに消えたから、時間にして数時間のことにすぎない。
おそらく十二番隊が絡んでるのでは、と探りを入れたかったが、「ウサギの耳が生える薬作ってるか」と聞くのはどうにも気が引けた。
「作ってないヨ」などと切り返された日には目も当てられない。
その後何も起こらない経過を見ても、このまま闇に葬り去ってしまいたい、と日番谷が思い始めたころ。
次の「事件」は起こった。
「日番谷隊長っ!!」
十番隊の平和な朝の一シーンは、いきなり執務室に飛び込んできた吉良によって妨害された。
墨を磨り始めたばかりの日番谷と、早くも化粧直しを始めた乱菊が、同時に吉良を見る。
「なによ、吉良。らしくないわね、急に飛び込んできたりして」
「す、すみません、日番谷隊長、松本副隊長。僕ではどうしていいか分からなくて」
「何があったんだ」
一抹の嫌な予感を感じつつも、日番谷は吉良を見やる。
「はい……」
吉良は頷くと、弱りきったようにため息をひとつ漏らし、続けた。
「実は、市丸隊長が私室から出て来られないんです。
『鏡門』まで張ってしまって、僕達ではどうすることも……どうしたんです、お二人とも」
カキン、と体の動きを止めた二人に、吉良が不審そうな表情を向ける。
―― なんで?
日番谷と乱菊は、互いに疑問符を浮かべながら、互いの顔を見やる。
「松本さんなら説得できそうだし、日番谷隊長なら結界を破ることもできるでしょう?なんとか力を貸していただけないかと」
「分かった」
何がどう分かったのか分からない気持ちで、日番谷は重い腰を上げた。
「俺が行く。松本も吉良も、ここで待ってろ」
―― マジかよ……
日番谷は、一人市丸の私室の前に立ち、はぁぁ、とため息をついた。
半月前と全く逆のパターンを、まさか自分達が繰り返すことになるなんて。
「開けるぞ、市丸」
「開けんといて〜……」
やけに弱弱しい市丸の声が、それに返した。
「ンなこと言ってもなぁ」
それ以上言葉を続けられない。半月前に正に自分が言ったセリフと同じだ。
またウサギ耳なのか?
市丸のウサギ耳……途中まで考えて、日番谷は思考を停止した。
いつまでもここに立ち尽くしている訳にはいかない。
日番谷は覚悟を決め、自分の目前で乳白色の輝きを見せている結界の前に、手をかざした。
「断空」
一分の高位術を除き、大体の鬼道を無効化する力を持った術である。
その一言で、鏡門は雲散霧消した。
「入るぞ」
入りたくないし、見たくも無いが仕方ない。そんな気持ちで、日番谷は薄暗い部屋の中に足を踏み入れた。
「さすがやなぁ。断空使えば良かったんや。ボク、思いつかんかったわ」
部屋の中は、日番谷と違いほとんどモノというモノが置いてない。
そのため、薄暗がりにうずくまった市丸の姿は、すぐに分かった。
分かった、のだが。
「……」
日番谷は、一瞬目を疑う。
そして、ゆっくりと市丸に向かって、歩み寄った。
「い……市丸?えーと……大丈夫か?」
珍しく歯切れ悪く、日番谷は市丸の前に「かがみこんだ」。
「大丈夫なんか、聞きたいんはボクやわ。ボク大丈夫やと思う?」
知るか。日番谷は返事をかみ殺した。
小さい。おそろしく小さい。
日番谷の体の、3分の2も無いだろうか。体格としては4、5歳くらいに見える。
顔を上げた市丸の表情が、幼児以外の何者でもないことに気づいた日番谷は、文字通りくらりとした。
「え……えらく若返ったな、市丸」
「フォローになってへんって」
市丸の表情は、初めて見るくらい困り果てている。
日番谷としては、ざまあみろ、というところではある。
自分が半月前にエライ目に合った時の市丸の態度を考えれば当然である。
―― でもなぁ……
そんな嗜虐心が霧散してしまうほど、今の市丸は「ただの子供」に過ぎなかった。
鏡門こそ張れたようだが、霊圧は普段の市丸の一割もあるかどうか。
ぱっと見回したところ、神鎗の姿も見えないところからして、消えてしまったのかもしれない。
これでは、席を持たない死神にさえ及ばないだろう。
「しょうがねえな」
日番谷は立ち上がった。それを、心もとない目で市丸が見上げる。
「小さくなったのはともかく、弱くなったのがバレると困んだろ。お前に怨み持ってるヤツ多いし」
「よ……よくご存知で」
「そりゃ知ってるぜ、『良く』な」
ありったけの毒を込めて言い放ってやる。
ヒトが不幸なほど笑いが止まらない、心に傷持つ者の傷に塩をすり込む市丸の性格である。
(自業自得なのだが)今こんな状態だと知られたら、命を狙われてもおかしくない。
「ついて来いよ。とりあえず隠れ場所は紹介してやる。どうするかはそれからだ」
そう言うと、日番谷は市丸に背を向けた。
「で……十番隊長さん、ここドコや?」
ぜぇぜぇ言いながら、市丸は自分の手首を掴んだ、日番谷を見上げた。
姿が見られることがないよう瞬歩を使ってくれたのだろうが、今の市丸にはそのスピードさえキツかった。
「潤林安の、俺の家」
日番谷はそれだけ言うと、小さな一軒家の門に歩み寄った。
「へぇ、潤林安か。ええトコ住んでたんやなぁ」
「流魂街にいいトコも悪いトコもねーけどな」
それでも、市丸が育ったエリアと比べたら、それこそ桃源郷のように治安がよさそうだ。
「ボクが育ったトコとは雲泥の差やな……」
「だからお前、そんなにひねくれてんだな」
日番谷の言葉が、いつになく同情的だ。
アンタも相当ひねくれてます、という言葉は、喉の奥に飲み込んでおいた。
「ただいま」
日番谷は、市丸を誘い小さな家の中に足を踏み入れる。
そして、玄関に背中を向けて座り、草履の紐に手をかけた時、家の中から小さな足音が聞こえてきた。
「シロにーちゃん! どうしたの、帰って来てくれたの?」
「あぁ、ヤボ用だ」
日番谷の背中に抱きついたのは、今の市丸と同じくらいの背格好の女の子だった。
大きな黒い瞳が、中々に愛らしい。
「その男の子は誰?」
そのつぶらな瞳が、市丸に向けられた。
「市丸ギン。その辺で拾った」
「その辺て」
あまりに簡単な説明に、市丸は突っ込んだが、まぁ確かに「その辺」ではある。
「どうしたんだい、冬獅郎?」
続いて家の中から現れたのは、もう足元もおぼつかないような、一人の老女だった。
その皺だらけの手が日番谷の髪に触れ、ゆっくりと撫でても、微動だにしない日番谷に市丸は驚く。
―― こんな顔も出来るんやな、この子。
澪に抱きつかれた時も、嫌な顔どころか、凪いだ穏やかな表情をしていた。
ここは日番谷が気を許せるふるさとなのだ、と改めて思う。
「じゃ、部屋いくから。俺はコイツと話があるから、お前は外ででも遊んでろ」
「えー、つまんない!」
「またすぐ戻ってくるから」
口元を巾着のようにすぼませて澪は不満そうだ。しかし元々素直な子供なのか、何も言わずに引き下がった。
「十番隊長さん」
「ンだよ」
階段で二階に上がり、おそらく自室なのだろう、扉を開けた日番谷の背中に、市丸は呼びかけた。
「頼みがあるんやけど」
「この上なんだよ」
パシン、と戸を閉め、日番谷は床の間の前に腰を下ろした。その隣に、市丸が座り込む。
市丸の座高は、日番谷の肩くらいしかない。
「キスしてくれへん?」
「却下」
昨日と同じく、にべもない答えが間髪要れず帰ってきた。
「なんでやねん! もしかしたら、それで戻るかもしれんやん! ものは試しや」
「ふざけんな。前回もそれが原因で直ったか分からねーだろ? 大体今回は状況がまた違うじゃねーか」
自分達の取った対応は全く同じだったが、ウサギの耳が生えるのと幼児化するのは違う。
「良いやんか、減るもんちゃうし」
「そういう問題じゃねー」
こっ、この……
市丸は小さくなった拳を握り締める。
いつもの体格の自分なら、日番谷にこんな余裕の表情はさせないものを。
市丸がそう思った時、日番谷が市丸を見下ろした。
「また力づくか? それとも脅迫でもしてみるか? まぁ、がんばれよ」
「励まさんといて」
ガックリ、と市丸は肩を落とす。今の自分の状況が、しんしんと身に染みてくる。
今の自分は、日番谷が仮にちょっと本気を出せば、どうあがいても勝てない。
絶対的優位なのは、どこを取っても日番谷の方だった。
憤り、困って、そして諦めた市丸の表情を、日番谷は黙って観察していた。
「なんやねん」
「別に」
そう返した日番谷の表情があまりにも柔らかくて、市丸はしばし言葉を失った。
「とにかく、お前の仕事は俺がどうにかするから心配すんな。元に戻る方法も調べといてやるから、
お前は何か分かるまで、ここに隠れてろ」
「良いんか?ここにボクを放っといて。ボクが何かするとか思わへんの?」
「あぁ、言い忘れたけどな」
早くも、日番谷は立ち上がっている。
「澪の霊圧は強ぇぜ。今のお前じゃ手も足も出ねーくらいな。みっともねー思いしたくなければ、大人しくしてろ」
ナニ?市丸は顔を引きつらせる。冗談で、日番谷がそういうことを言うとは思えない。
三番隊隊長市丸ギン、流魂街の四歳児に敗北す。
そういう事態だけは御免蒙りたい。
「今後のこともや。アンタ、ボクに弱みを見せたこと、いつか後悔するで」
部屋を出ようとしたその背中に言い募ったのは、幼児化が性格にまで影響していたからかもしれない。
この家は、日番谷にとっては最大の弱点。それを、自分に見せた理由が分からない。
分からない分、気味が悪かった。
日番谷は振り返り、市丸を見下ろした。
「弱みを握ったのは、俺のほうだ」
「は?」
「分からないならいい」
それが、目下の幼児化した状況を差しているわけではないのは、すぐに分かった。
しかし、それを市丸が聞く前に、扉が閉められた。
*********
1月18日。
「ギンちゃん、そろそろ夕方だよ。おうち帰ろうよ!」
あー。ボクは気のない返事をする。
夕焼けの中、ボクに呼びかけてくるのは、同居してる澪(外見年齢4歳)。
「えぇ、もうちょっとやろうぜ、ギン!」
あー。またボクは気のない返事と一緒に、ボクを見てくる粗末な格好のガキを見やった。
なんで、ボク、流魂街の子供らとボール遊びせなあかんねん。
ていうか、もう夕方やん。
この市丸ギンともあろう者が、ボール遊び……
哀しゅうなってくるわ。
「すんごい楽しそうにやってただろ、ギン!もうちょっといろよ〜」
うっさいわ。
ボクがそう言おうとした時、ガキの一人がボクに向けて、大きくボールを放った。
大きすぎや。曲線を描いて飛んだボールを見送った時やった。
ひょい、と急に現れた誰かの掌が、ボールを捕まえた。
「あ!! シロにーちゃん!」
澪の顔が輝く。
見るたび思うけど、ホンマにこのガキ、十番隊長さんのこと好きやな。
十番隊長さんは、澪を見て、周りのガキらを見て、そして……ボクを最後に見た。
「……今笑ったか? アンタ」
「笑ってねえよ」
ボクの問いにそう返したけど、嘘や絶対笑ってた。
「わー、隊長だ!」
「もう夕方なんだから帰れよ。家族が心配すんだろ」
ボールをひょい、と投げ返し、十番隊長さんは一同を見渡す。
はぁい、とガキたちがぐずぐずしとったんが嘘みたいに、頷く。
別に意外なことちゃうけど、十番隊長さんは子供たちには「隊長」って呼ばれとるらしい。
「隊長」に向けられる視線は、憧れ、尊敬。でも、それだけでもない。
ボクの前を、十番隊長さんと澪が歩いてゆく。
十番隊長さんの手を取った澪は、何がそんなに幸せなんか、笑ってばっかりや。
絶対的な信頼。
ボクが一生手にすることがないやろう関係性が、そこにはあった。
―― こんなヤツを、可愛らしいとか言ってたんやなぁ、ボク……
子供になって、見方が変わったんやろか。
女と言いたなるような華奢さや、可愛らしさはどこにも見えん。
何となくそこにいるだけで、大丈夫やと周りに思わせるような、やっぱりコイツは「隊長」やった。
……やっぱり、ボクとは違うな。
*********
「どーしたんだよ、市丸。やけに大人しいじゃねえか」
自室の扉を閉めるなり、日番谷が室内に胡坐をかいた市丸を見返した。
その瞳に、どこか面白いものを見るような気配が潜んでいる。
「することあらへんしなァ」
市丸が肩をすくめると、
「うらやましいぜ」
日番谷は、扉にもたれかかるように背中をつけた。
それが、やたら疲れて見えるのは気のせいではないだろう。
「相変わらず三番隊の仕事、全部やっとんか」
「しょーがねえだろ、コトを大きくしないためにはな」
「……ホンマ不思議やな。なんでボクをフォローしようとするんや? 理由はなんや」
「……理由?」
日番谷は、眉間に皺を寄せて、その言葉を反芻する。
意味が分からん、と市丸自身は思っていた。
日番谷が窮地に立たされた時に市丸がしたことを思えば、尚更だ。
まさか襲わないにしても、それなりに復讐されたほうがよっぽど理屈が分かって気が楽だ。
「……それとも十番隊長さん、ボクのこと好きなん?」
「バカかお前」
今度は即答だった。
「じゃぁ何でや」
「そりゃ、俺がやらなきゃ吉良は困るだろ。松本もあれで心配してるし。フォローしてやらねぇと」
だから。
それが、なんでボクを助ける理由になるんや?
誰が困ろうが、あんたには関係ないやろ。
会話は、いつもすれ違い。
ここまで別の考えを持つ人間がいると、市丸は考えたことが無かった。
「ンなことより。お前がいること、他の奴らにばれちゃいねえだろうな」
日番谷の視線が鋭くなる。市丸は首を振った。
「いくらなんでも、子供の姿になっとるなんて誰も思わへんて。大丈夫や」
「お前、多分自分で思ってるよりよっぽど、霊圧を察知する能力が下がってると思うぜ。気をつけろ」
それだけ言うと、日番谷は背中を扉から離した。
「今のトコ、幼児化の原因は分かってない。分かり次第知らせる」
そして、扉を開ける。そのまま瀞霊廷に戻るつもりらしい。
おそらく瀞霊廷には、十番隊の任務に加えて、三番隊や幼児化の原因調査が待っているのだろう。
「おや、冬獅郎。もう帰るのかい?」
「あー。ちょっと用事だ」
「えぇぇ!? 今日は泊まってってくれるって思った……のに」
閉まった扉の向こうで、日番谷たちの声が聞こえる。
澪の言葉の語尾が途切れたのは、多分日番谷がわしゃわしゃと髪を撫でたからだろう。
―― 絵に描いたような「幸せな家族」か。
会話を黙って聞きながら、市丸は頭を柱にもたせ掛けていた。
そして、その夜。日番谷の懸念は的中することになる。
時刻は、夜10時。周囲は寝静まり、物音ひとつ聞こえない。空には半月になりかけた月がぽっかりと浮かんでいた。
その中で、ひた、ひた、と足音が聞こえ、市丸は耳をそばだてた。
寝巻きにも着替えていなかったのは、予測してのことではない。
元々夜行性のため、こんな早くに眠りにつけないだけの話だ。
「……勘弁して欲しいわ」
どうやら、霊圧察知能力が下がっているとの指摘は、正しかったらしい。
ここまで接近されて初めて、こちらへやってくる者達の気配に気づくとは。
市丸は、ざっと人数を計算する。数は、4人。今の自分では、おそらく倒すことは出来ないだろう。
逃げるか? それとも、このままここに居て家族を危険に曝せば、日番谷が飛んでくるだろう。
いくつかの選択肢を、頭の中で反芻する。
―― 後者やな。
ここに残ったほうが自分の生存率は高い。
それは、考えるまでも無い結論だった。
しかし。
市丸は、家の中の気配に耳を済ませる。
決して広い家ではない。耳を澄ますと、日番谷の祖母が咳をしているのが聞こえる。
寝相のよくない澪が、何かにぶつかっている音も聞こえる。
幼い頃、幸せそうな人々が暮らす家の灯りを、遠くからよく眺めていた。
その人たちが幸せそうであるほど、ぐっと胸が締め付けられるほどに寂しかった。
壊してやりたかった。自分をこうまで苦しめるものを。
でも自分は、ただの一度でさえ、その「幸せ」を壊すことが出来なかった。
今も同じだ。
―― 弱みを握ったのは、俺のほうだ。
そう言った日番谷の言葉の理由が、初めて思い当たった気がした。
日番谷は、市丸のトラウマに気づいていたのか。
「……卑怯やわ。日番谷はん」
我知らず、市丸は呟いた。
そして、黙って立ち上がると、音を立てぬよう、窓をゆっくりと開けた。
すぐに、通りに立つ4人の男達の姿が目に入る。
「……ボクに何か用か」
「お前。市丸ギンか?」
怪訝そうな声が聞こえる。
こんな子供の姿では無理もない。
「……この霊圧。ふたりとおらん思うけど?」
市丸はそれだけ言うと、屋根に滑り出た。
「吉良、松本。もう上がっていいぞ」
十番隊舎に置かれた時計は、十時半を差そうとしていた。
ぐるり、と肩をまわした日番谷の隣には、日番谷の頭に届くくらいの高さの書類がつみあがっている。
「お……お見事です、日番谷隊長」
吉良は恐縮しながら、三番隊分の書類の山を抜き取る。
「……どこ行っちゃったのかしらね、ギン。二日も戻らないなんて、まぁよくあることだけど」
「えぇ」
乱菊の言葉に、吉良が苦笑する。
しかし、「よくあること」の割りに、二人ともいつもに比べて元気が無い。
何となく察しているのかもしれない、と日番谷は思う。
だがこの二人の憂色を消すには、自分が幼児化の原因を解き明かすしかない。
そうなると、この二人にこの場にいられると都合が悪いのだ。
「隊長。ひょっとして、まだ残る気じゃないでしょうね。昼間あんなケガしたのに!」
「大したケガじゃね……」
「ケガされたんですか? 日番谷隊長」
「聞いてよ吉良、本当は今日は四番隊に入院するはずだったのに!」
「やめろって。適当に切り上げるから」
日番谷のムリ加減をまくし立てられそうになり、日番谷がウンザリと口を挟んだ時だった。
「……ん?」
日番谷は、窓の向こうに意識を凝らす。
かすかに感じたのは、霊圧の乱れ。
隊長の自分が注意しなければ感じ取れないほどの、かすかなものだ。
いつもだったら、特に気にせず流してしまう程度のもののはずだった。
しかし。
「隊長? どうしたんです、急に」
「ちょっと急用だ、出てくる」
急に気ぜわしげに立ち上がった日番谷を、乱菊と吉良はきょとんとして見守った。
「お前らはもう上がれ。待つなよ」
「あ、隊長!」
それだけ言い残し、日番谷は瞬歩で姿を消した。
潤林安の外れに、何度か鈍い音が響き渡っていた。
更に近づけば、何人かの男達の姿が見える。
そして、彼らが一回り以上小さな人間を、寄ってたかって蹴りつけているところも。
「ぐっ!!」
ひときわ強い一蹴りに、小柄な体が吹っ飛び、近くの木の幹に背中を打ちつけた。
「これくらいで気ぃ失うなよ、市丸ギン。これからなんだからな」
ぐったりと地面に倒れこんだ少年の襟首を掴み、男達の一人が軽々と体を持ち上げる。
「……誰や、お前ら」
知らない顔だ。ぺっ、と血を吐き捨てながら、市丸はざっと、四人の男達の顔を見渡した。
というよりも、敵は全て殺しているから、これまでに戦った男だということはありえない。
「てめーは名前も覚えてねぇだろうがな。お前に殺されたヤツの敵討ちだ。
ここまで逃げられただけでも天晴れだが、もうその体じゃ逃げられまい」
「敵討ち……?」
市丸の表情が、ゆがむ。
くつくつと、その口元から笑いが漏れた。
「何がおかしい!」
怒鳴り声と同時に、地面に叩きつけられる。
ごほっ、と咳き込みながらも、市丸は笑い続けた。
「敵討ちなんか、理解できんわ。他人が殺されても、自分が痛いわけちゃうやろ」
ざわっ、と殺気が高まるのが市丸にも分かるが、自分の言っていることが間違っているとは思えなかった。
「俺達の仲間を殺しておいて、何事も無かったかのように、平和に暮らすのは許せねぇ」
「てめぇに、自分の家族を護る資格なんてねぇとおもわねぇか?」
男達の声が、市丸を取り巻く。
ぼんやりとした頭で、市丸は考えた。
平和? 家族を、護る?
それは、それは違う。
あれは日番谷のもので、自分のものじゃない。
―― それでも、コイツらには、ボクが平和に家族と暮らしてるように見えたんか。
また笑い出した市丸を、男達は気味悪そうに見下ろした。
「そんなに死ぬのが楽しいのか? 狂ったヤツだぜ」
銀色に輝く刃が、月光に美しく映えた。
こんな時、それを綺麗だと思う自分は、やはり狂っているのか。
市丸の瞳に銀色が焼きつき、その銀色が市丸に吸い込まれようとした時……
「ちょっと待ってくれねぇか」
その子供にしては落ち着き払った声は、月夜によく通った。
ざっ、ざっ、と足音を隠しもせずに、市丸と四人の男達のほうへ、歩み寄る。
ひらり、と隊首羽織が翻るのを見て、男達が一斉に背後に飛びのいた。
「てめえは、十番隊隊長の日番谷冬獅郎か!」
「そうだ」
その翡翠色の瞳は、男達ではなく市丸のほうへ向けられていた。
決して軽くないケガの程度を見やった日番谷の眉が顰められる。
「そいつのことだから、ロクでもねーことをしたんだろうな」
なんやねん、そのセリフ。
市丸は肩を落としたが、それは事実のようだ。
「お前には関係ねーだろうが!」
「そうでもねえよ」
日番谷は即座に、ためらいなく返した。
「そいつに死なれると困るんだ。それに、お前達じゃどうやっても俺には勝てねぇ。黙って退いてくれ」
鍔迫り合いのような緊張が、1人と4人の間に張り巡らされた。
日番谷は、譲らない。
その静謐な空気が、その場をゆっくりと満たしていった。
初めに舌打ちしたのは、男達のうちの一人だった。
「命拾いしたな。まさか仲間に命を救われるとは皮肉だな、市丸ギン」
殺気が、ゆっくり遠のいていく。
体を起こそうとした市丸は、自分の体が思ったより言うことを利かなくなっているのに驚いた。
―― これやから、ガキの体はあかんわ……
実際、日番谷はこんな体でよくやっていると思う。
そう思った途端、市丸の意識は一気に遠のいた。
体を包む、ほのかなぬくもり。
どうやら、危険は完全に過ぎ去ったらしい。
ゆるゆると市丸は目を開けた。
「日番谷、はん」
「起きたか」
日番谷が振り返るが、顔が異様に近い。
日番谷の背に負ぶわれているのだ、と気づいた市丸は、力なく笑い出した。
「日番谷はんに背負われるやなんて。いい記念になるわ」
「黙れ。大体、元に戻る保証はどこにもねーぞ」
日番谷がまた前を向く。どうやら、ゆっくりと家路に向かっているらしかった。
「ムリするわ、ホンマに」
「分かってるならいい」
「違うわ。あんたのことやで」
「俺か?」
日番谷がチラリ、と市丸を見やる。
市丸の視界からは、日番谷の死覇装の下の胸元が覗けた。
そこにしっかりと巻かれているのは、真っ白い包帯だった。
「いくら力が弱なったからって、怪我は見逃さんで。体のこなし見たら直ぐ分かるわ」
今日の夕方、日番谷が子供達のところにやってきた時から、気づいていた。
四番隊に行ってもその場で完治しない傷というなら、かなりの重症のはずだ。
「ちょっとドジ踏んだだけだ」
おそらく、業務をこなしすぎたことが原因だろうに、決してそれを口にはしない。
「なぁ、日番谷はん」
「何だよ」
「何でボクを助ける?」
それは、何度も繰り返され、納得のいく答えを一度も返されなかった質問。
日番谷は、これまでと同じように、軽く肩をすくめた。
「何回聞かれても、理由はねえ。あえて言えば、当たり前だ」
あぁ。
理由は無い……のか。
無力な子供に姿を変えた、3日間。
子供の中で子供として過ごした退屈な時間。
そして、助けられて初めて、その言葉は市丸の中にストンと、落ちた。
「元に戻らなかったら、ずっとあの家にいたらいい。今更一人増えても変わらねーよ」
ぶっきらぼうに言い放たれた、その言葉。
このタイミングでなければ、胸に染みることはなかっただろう。
―― あぁ。それも、いいかもしれんな。
そう素直に思うのは、きっと最初で最後。
なにやら、とても眠い。緊張が抜けたからだろうか。
市丸は、日番谷の肩口にゆっくりと額を乗せ、
ようとした。
「うぉおぉっ!?」
途端に、日番谷が素っ頓狂な声を上げた。
「のわぁっ?」
市丸の声が、上に乗っかる。
いや、言葉だけではない。
日番谷は、突然数倍に増した背中の体重に、踏ん張ることも出来ずその場に崩れ落ちた。
「なっ、何や?」
起き上がった市丸は、自分の掌の大きさに仰天する。
「デカッ!ていうか、元に戻っとる……!」
こんなに感動したのは、随分久しぶりな気がする。
そして、なぜか全身の傷も同時に治ったようだ。
「ど、どけ市丸……」
「おぉ、堪忍」
感動しすぎて、足の下でつぶれている日番谷に気づかなかった。
助け起こそうと手を伸ばしたとき、半身を起こした日番谷の掌が、赤く染まっていることに市丸は気づいた。
どうやら、胸元の傷が、地面に叩きつけられた拍子に開いたらしい。
「あーあ。こりゃやっぱり、ひどいなぁ」
「大したことねぇって」
そう言いながらも、身を起こした日番谷は眉を顰めている。
「立場、また逆転やな」
思わず呟いた市丸を、日番谷はキッとにらみつけた。
「てっ、てめぇ、何ニヤニヤしてんだ!」
「いやぁ。ずーっと弱み握られっぱなしで、ストレスたまってたんや。やっぱりこうでないとアカン」
そう言うと、否応言わせない速度で、日番谷に手を伸ばす。
あっ、と日番谷が思った時には、その小柄な体は市丸の腕に抱えあげられていた。
「離せ、この人でなし!」
日番谷が怒鳴った時。ヒュッ、と耳元で風が鳴った。
「人でなしか。よい響きや」
「ここ……」
日番谷はあっけに取られ、周囲を見渡した。
そこは、何回見ても、四番隊の隊舎の庭だった。
市丸は無言で、日番谷を縁側に腰掛けさせると、そのまま立ち上がる。
「どうしました!?」
「この霊圧は、市丸隊長、日番谷隊長ですか!?」
四番隊舎の廊下から人の声と、足音が聞こえてきた。
―― 速ぇ……
いきなり大人の体格に戻ったから、すぐには力も戻らないかと思っていた。
しかもこの速度、明らかに日番谷よりも上だ。
これまで市丸の瞬歩は何度も見ているが、これほどにスピードが有るとは思っていなかった。
「……」
心なしかムスッ、とした日番谷の髪に、市丸が掌を落とす。
「触んな!」
「何言ってんねん」
市丸は、ちらりと真紅の瞳をのぞかせ、口元で微笑んだ。
「今日は特別にこのくらいにしといてやる、て言っとんや」
するり、と大きな掌が、頬を撫でる。しかし、その手はすぐに離れた。
「市……」
「おおきに」
それだけ言うと、市丸の姿はふっ……と闇に溶けた。
その翌日。市丸は、目の前に積み上げられた書類の山に、絶句していた。
「じゅ、十番隊長さんが全部片付けてくれたんちゃうん?」
「ええ。昨日までの分はね」
乱菊と吉良が腕組みして市丸の前に立っているのが、非常に怖い。
「でも今日、隊長は入院してるの。当然、これまでウチの隊長がやってた分、アンタが引き受けてくれるわよね?」
「ん、んなアホな」
言うヒマもなく、仕事の山に没頭する羽目になった、ということだが。
それはまた、別の話。