現世にあって、瀞霊廷にないものはたくさんある。
カレーライス。洋服。電車。カクテル。信号機。テレビゲーム。
そして……


じーわじーわ、しゅわしゅわしゅわ……
瀞霊廷の大通りは、蝉時雨が今まさにどしゃぶり、と言っていいくらいだった。
見通せば通りの向うは陽炎で揺らめき、行き交う死神達の姿もぱったりと絶えている。
季節は、8月上旬。梅雨も明け、夏本番の太陽が容赦なく照りつけていた。


「ふー、ホントどうしちゃったんでしょうね、今年の夏は。こんなに暑いと胸の谷間に汗かいちゃう♪」
窓を開け放ち外の風を取り入れた乱菊が、唯でさえ開いた胸元を更に手で広げる。
「ねーたいちょっ、扇いでくださいよー♪」
思いっきりセクハラ発言をして隊首室を振り返った途端、
「きゃーっ、隊長?」
床にバッタリと倒れた日番谷冬獅郎を見つけ、悲鳴を上げた。


***


四番隊のとある病室の扉を開け、廊下に顔を覗かせたルキアは、ふぅ、とため息をついた。
廊下の窓の向うの炎天下を見て、もう一度今度はぐったりと息を漏らす。
「全くもう、これでまだ1ヶ月夏があるというのだからな……」
氷雪系の斬魂刀を持つ者にとって、夏は宿敵である。
一概には言えないが、強い刀を持つほど、暑さへの耐久度もどんどん弱まっていくような気がする。
自分がこれほど弱っているということは、病室の中の彼は……

その時、ルキアは音もなく現れた3つの霊圧に、軽く息を飲んで立ち止まった。
「十一番隊の患者など知るか! どうせ、考えなしに敵に突っ込んで怪我を負ったのだろう。そんな愚か者など、死んでも構わんだろう」
「うるせぇな。俺は舐めときゃ治るっつったんだけどよ。四番隊の奴らが絶対安静だって返さねぇんだからしょうがねぇだろ」
「二番隊も十一番隊も一緒だヨ。平隊士の十人や二十人の生き死にが何だというのだネ。
それよりは、この十二番隊の怪我人を最優先すべきだヨ。治ったらまた次の実験に使えるのだからネ」
「てめーは最悪な隊長だな、涅」
「それだけは同感する」
「最悪なのは君たちだヨ」
お前が最悪だ、お前こそ最低だ、とけなしあって歩いてくる人影に、ルキアは部屋の中に戻りたくなる。

二番隊隊長・砕蜂。十一番隊長・更木。十二番隊長・涅。ともに、怪我人が多い隊ベスト3に入る隊である。そして、ルキアが配属されたくない隊ベスト3でもある。
ルキアはちらりと病室の中を振り返った。今の弱った彼を、あの三人の隊長には会わせたくない。
そーっと、扉を閉めると、ルキアは覚悟を決めて三人と向き合った。
「お疲れ様です、隊長方」
不機嫌極まりない三人は、ちらりとルキアを一瞥しただけで行き過ぎようとした。しかし、ん? と途中で更木が足を止める。
「この部屋ン中、日番谷がいるのか?」
「なっ、なぜそれを」
「なぜって」
引きつったルキアの背後を、更木が指差す。振り返ってみれば、扉の傍には「日番谷冬獅郎様」とご丁寧にも書いた札が垂れ下がっていた。

「死んだか?」
間髪入れず砕蜂が、一分の温度もない言葉を発した。
「死んだのかネ? それならそれでウチの実験に使えるヨ、ちょうどいいネ」
目を輝かせたのが涅。何を考えてるんだこの隊長達は。ルキアは暑さのためだけではなく、くらりとした額を押さえた。
「ここは病室です、生きている者が入院するところです。死んでいるはずが……」
「死んだ死んだとうっせぇんだよ!!!」
部屋の中から怒声が響き、バーンと扉が開けられた。
ルキアが肩をすくめて振り返ると、そこには憤懣やるかたなし、という表情の日番谷が、三人を睨み上げているところだった。
「ちょっ……隊長! 急に動いちゃだめです、倒れたばっかりなんだから!」
乱菊が慌てて後ろから飛び出してきたが、にらみ合う四人の隊長達の霊圧に、さすがに表情を強張らせる。

「なんだ、ピンピンしてるじゃねーかよ、ガキ大将」
「ハッ、たりめーだろ。なんとも……」
言いかけた日番谷が、ぐらりとよろめく。乱菊がその小さな肩を支えた。
「もぅ、隊長、栄養失調って言われてるんですからね! 何か食べなきゃ、この部屋から出しませんからね」
「栄養失調」
三人の声が重なった。
「……十番隊は飯食う金もねぇのか?」
「ンな訳ねぇだろ。暑すぎて飯食う気が起きねぇだけだ。イチイチ大げさなんだよ、四番隊は……」
「床にへたり込みながら言うセリフじゃないでしょ、隊長ったら」
ルキアは、乱菊に助け起ここされている日番谷を見下ろした。その首の辺りは、明らかに夏前よりも痩せている。
頬の辺りがふっくらしていたのが少年らしくて微笑ましかったのが、げっそりとこけてしまっているのが痛々しかった。
責任感が強い日番谷のことだ、体調がどんどん悪化するのも無視して、仕事に没頭していたのだろう。

「日番谷隊長、少しお待ちください。すぐに袖白雪をお持ちしますから」
いきなり四番隊の病室に呼び出されたら日番谷がベッドにいたから何事かと驚いたものだ。
今の弱った日番谷に、氷輪丸をコントロールできるかは疑わしい。
だから袖白雪の力で涼しくしてやってくれ、という乱菊の願いに、快く応じたまではよかったが……
夏はこれから一ヶ月もあるのだ、常に横にいて冷やす、という訳にもいくまい。


日番谷は、ふらつきながらも立ち上がった。その表情や言葉遣いがいつもより幼いのは、取り繕う余裕がないからだろう。
「とにかく! 死神が栄養失調なんかで死ぬかよ。仕事に戻る、ほっといてくれ」
「ダメです! 何か口に入れてからです!」
「食う気がしねぇって言ってンだろ」
「聞き分けのない子供みたいなこと言わないのっ!」
「あぁ? てめぇ隊長に向って……」
「ちょっと三人! ウスラボケーッと突っ立ってないで、何とか言ってやってください!」
うっかり非礼なことを口にしながら、乱菊が三人の隊長を見渡した。

ふむ、と初めに頷いたのは、意外にも更木だった。いきなり腰の刀を引き抜いたのを見て、日番谷と乱菊、ルキアが身をのけぞらせる。
「おい更木、てめぇ何のマネ……」
「大人しくしてろって言うのにできねぇなら方法は一つだ。……ぶっ倒す」
「ちょっ、ちょっとお待ちください更木隊長!」
ルキアは恐怖も忘れて、のけぞった日番谷と乱菊の代わりに前に出た。
今の日番谷が更木に斬りかかられたら、二度と元気になれない体にされてしまいそうな気がする。

「……名案だネ。もし何かあったら体は私の隊が貰い受けてあげるヨ、感謝したまえヨ」
「うむ。死んだら寿命だったと言うことでよいだろう」
「よくねぇ!」
日番谷が言い返したが、残りの二人の隊長は、腕を組んですっかり見守る姿勢に入っている。
既に、「日番谷を元気にしよう」という当初の目的は失われている。いや、初めからそのつもりなどないのだろうが。

刀を構える更木、硬直する日番谷と乱菊、面白がって見ている涅と砕蜂。
束の間、しーん、と静まり返った空間に、涼やかな声が響いた。

「あら、みなさんお揃いで。何をされているのですか?」
卯ノ花烈が、にこやかな笑みを浮かべてこちらへ歩いてくるところだった。
「う、卯ノ花隊長……」
ようやく、話が分かる隊長が来た。ルキアがホッとして話しかけようとして、今度はウワァ、と口の中で軽く悲鳴を漏らした。
「う、卯ノ花隊長。刀に手をかけるのはやめてください!!」
吹きつけるような殺気が、卯ノ花の全身から放たれている。
その右手は、左手に持った刀の柄に添えられ、今にも引き抜きますが何か? とアピールしている。
「ここは病棟です。静かにしてくださいね?」
静かにしなかったら何をしでかすか知れない目で、卯ノ花が全員を見回した。
こくこく、とその場の全員を頷かせるのに十分な、迫力だった。


「日番谷隊長は病室に戻……あら?」
その首が、傾げられる。乱菊がハッとして日番谷を見下ろした。
肩を支えられていた日番谷は今はぐったりと、背後の乱菊に身をもたせかけている。
「たっ、隊長!」
「あらあら、気を失ってしまわれましたわね。困りました」
もしかして卯ノ花の凶悪すぎる霊圧がトドメを刺したのでは、と見ていたルキアは思ったが、勿論口には出さなかった。
日番谷を覗き込んでいた卯ノ花がひょいと振り返り、ルキアはびくりと肩を揺らせる。
「そうですわ、ルキアさんなら何とかできるのではないですか?」
「はっ、はい。袖白雪で……」
「いえ、そうではなく」
「は?」
「ルキアさん、あなたにお願いがあります」
卯ノ花はそういうと、にっこりと微笑んだ。