薫り高い液体を口に流し込む。
胃のあたりがカッと熱くなるのが、心地よい。
この喉につかえた重苦しい気持ちを流し去ってしまいたいけれど、一向に気分は晴れない。
あたし、どうしちゃったんだろ。

酔った目で辺りを見回せば、ざわざわと賑わいに満ちてた。
20畳ほどのお座敷の向こうには、同じくらいの広さの縁側が広がってる。
お座敷と縁側の間の障子は取り払われていて、外と半分つながったみたいで開放的。
昼間はうんざりするくらいに蒸し暑かったけど、縁側から吹き込んでくる宵風の涼しさには、びっくりするくらい。
まだ夏なのに、夜になったら聞こえてくる虫の音は、あぁもう次は秋なんだなぁ、って思わせる。

こうやって季節を感じるのは、好きなの。
お酒もいいものが揃っていて、旬の食材だって、ひとつひとつおいしい。
それに今日は夏の仕事納めで、明日は珍しく、死神は皆休めるの。
それなのに、あたし……松本乱菊は、鬱々とした気持ちをもてあましてる。

全ての隊長と副隊長が招かれてる納涼の宴で、今来ていないのは一人だけ。
そう足りないのは、たった一人だけ、なのよ。
それなのに、あたしの胸の中には、ぽっかりと穴が空いている。



「おいおい乱菊ちゃん、そんなに飲んじゃダメだよ」
おざなりな手つきで徳利から酒を注ごうとしたあたしを止めたのは、京楽隊長だった。
普段は、飲め飲めってうるさいくらいに勧めてくるのに。
「いいでしょ、宴会の席なんだから」
あぁ、酔っ払ってるな。それもこれ以上飲んだらヤバイくらいに。
顔を上げた瞬間に、周りがぐるりと回った気がしたし。平衡感覚がちょっとおかしくなってる。

京楽隊長にも、それが分かったんだろう。
有無をいわさず、あたしの手から徳利と杯を取り上げてしまう。
そして、自分の杯にお酒を注ぐと、見ててうらやましくなるくらいに、おいしそうに一気に飲み干した。
「楽しい酒じゃなきゃ、勧められないねぇ」
なーによ。そう言おうとして見上げた京楽隊長の顔は、ドキリとするくらいに優しかった。


「ね〜、京楽たいちょお」
言おうとした不満を、摩り替える。
「なんだい?」
「あたし、京楽隊長みたいに、大人なヒトを好きになればよかったです」
「おぉっと、そりゃ光栄だねぇ」
修兵とか吉良とか恋次あたりなら真っ赤になるだろうけどさすが京楽隊長、大人の余裕で微笑んでる。
「まあ、胸毛が濃すぎるから嫌だけど」
容赦ない一言にカクン、と頭を垂れたが、すぐに立ち直ったのか乱菊を見返してくる。
「どういうのが大人だと思うんだい」
首を傾げて、逆に訊ねてきた。

「んー、そうですねぇ」
あたしは、酔った頭で考える。
「あたしの気持ちを、先に先にって読んでくれる人、です」
「君の好きな人は、大人じゃないのかい?」
「ナリは大人なんです、とっくに。でも鈍いんです、とっても」
謡うように、続ける。
「君の気持ちに気づいてくれない?」
京楽隊長は、合いの手を入れるように穏やかに続ける。
まずいわね、このままだとついうっかり、本音を口にしてしまいそう。
「全っ然ですよ。でなきゃ……」
そこまで言って、あたしはさすがに続きを口にするのはやめた。
これ以上言ったら、誰のことだか漏らしてしまいそう。


「……ま、心配ないと思うけどねぇ」
京楽隊長は、お酒をまた口に運びながら、しばらくしてそう言った。
「今日だって、総隊長の顔を立てるためにしょうがなく、でしょ? 話が進むはずないよ」
「……イジワルです、京楽隊長」
本当に、意地悪ね。さりげなく、あたしを頷かせようとするんだから。
「白状しちゃいなさいよ。できれば、本人にね。彼は、君ひとりを受け止めるくらいのハラは持ってるよ」
「……ムリです」

もうバレてるものは仕方ない。あたしは、ぐいっと手の中の杯を飲み干した。すぐに、京楽隊長が徳利から続きを注いでくれる。
「どうして? 彼が君を受け止められないって思うの?」
「……誰だって、同じです。ずっと一緒にいるなんて、できませんよ」
「……乱菊ちゃん、君は」
「昔の話です」
わざと蓮っ葉に言い捨てると、京楽隊長は眉をひそめた。きっとその時、あたしたちの頭を同時に頭によぎっていたのは、同じ人物だろう。
銀色の髪をもつ狐目の幼馴染。掴みどころのない、掴ませてもくれなかった男。

「乱菊ちゃん、君は間違ってるよ」
京楽隊長には珍しい、強くてストレートな言い方だった。あたしは、思わず顔を上げる。
「あの男と、彼を一緒にしちゃ駄目だ。君はいい女だよ。世の中のたくさんの男が、命ある限り一緒にいたいと思うほどに、ね。
彼がそうじゃないと、なぜ言い切れるんだ。ぶつかってみれば答えは出るよ」

あたしは、思わず黙り込む。
酒のせいなのか話題のせいなのか、年のせいだとは認めないけれど。
今の京楽隊長の言葉は、ちょっと目に染みた。
「いいんです。……今のままで」
そう、今のままでいいの。隊長と副隊長、ていう関係のままで。答えは、いらない。
「……本当に、それでいいのかい」
「ええ。いいんです」
京楽隊長は、何か言おうとしたんだろう、口を開こうとしたけど、また閉じた。
その時、玄関先がにわかに騒がしくなって、あたし達は同時に顔をそちらへ向けた。


***


机に突っ伏しかけているために、斜めになった視界。
そこに、日番谷冬獅郎が、軽く頭を下げて入ってくる姿が映った。
そうしないと鴨居に頭がつかえてしまうから。
瞳の色よりも数段深い、藍色に近い着物を素肌にまとった着流し姿で、素足だった。
きりりと締めた黒帯に、一本腰に帯びた氷輪丸が、何だかやけに色っぽく見える。
男のような、というには匂い立つような、
女のように、というには力強すぎる、そんな危ういような空気。
日番谷冬獅郎、という青年には、周りをドキリとさせる雰囲気がまとわりついてるように思う。

「どうだった? お見合いは。うまくいきそうかい?」
座りもしないうちに浮竹に訊ねられて、隊長はいつもの無表情を崩し、顔をしかめた。
「俺にはもったいねぇ話だ」
「断ったのかい!」
「あちらからな」
嘘だぁ、とあちこちから声が漏れたけど、あたしも同感だ。
「あのねぇ。相手は、五大貴族の跡取り娘なんだよ?」
「知ってる」
「お見合いが実現した時には、相手の娘さんは躍り上がって喜んでたらしいよ」
「そうなのか」
「断ったのは君だろ?」
「俺じゃねぇよ」
頑ななまでに否定するのは、相手に恥をかかせまい、とする隊長なりの思いやりなのかしら。

浮竹隊長は、やれやれと言わんばかりに頭を掻いた。
「残念だね。生きてるうちに、冬獅郎の花婿姿を見たいのに」
「突っ込みどころがありすぎて返せねぇな、浮竹。大体、あんたが言うと笑えねぇ」
ぷっ、と周囲が噴出した。
そのやり取りに、ふとあたしは気づく。
浮竹隊長、いつの間に隊長のこと「冬獅郎」って名前で呼ぶようになったのかしら。
そして隊長は、いつから浮竹隊長に敬語で話しかけるのをやめたのかしら。
それは、完全に「対等」っていうこと。
くつろいだ様子で浮竹隊長の隣に胡坐をかいたのを見て、あたしはちょっとだけ感慨深くなる。
日番谷隊長と呼べ! って小さな肩を怒らせていた、百年前を思い出して。


「……日番谷隊長」
ため息交じりの総隊長の声は、ざわめいていた座敷内にもよく通った。
一番奥にゆったりと腰掛け、七緒にお酌をされてご満悦な姿は、ただの好々爺に見える。
「全く、この儂の紹介を蹴るとは。しかも一体何人目じゃ? いつになったら身を落ち着かせるつもりじゃ」
「俺にはまだ早いですよ、総隊長」
縁側の柱にゆったりと背をもたせかけて、浮竹隊長からのお酒を受けながら、隊長が答える。
「子供の頃はもう大人だと言い張っていたのはお主じゃろう。大人になれば、まだ子供だと言って儂を困らせるつもりか?」
その言葉に、どっと周囲が笑い出す。隊長は、と思って見ると、苦笑していた。

「勘弁してください、総隊長。百年も昔のことだ、もう時効でしょう」
「誰なりと結婚するなら許してやってもよいぞ? お主のような者がいつまでも独身じゃと、周囲も落ち着かんのでな」
「どういうことですか」

思わず、っていう感じで周囲からため息が漏れた。
普通なら、イヤミか、って思われそうなシーンよね、これって。
容姿端麗、頭脳明晰と来て、戦闘能力も地位も瀞霊廷でトップクラスときた日には……
こんないいところばっかり、てんこ盛りにするなんて、神様何考えてんのかしらと思うくらいよ。
そんな男がいつまでも結婚しないどころか、恋人をつくる気もなさそうなんて、女性死神にとっては毒以外の何者でもないわ。
気づいてないのは、本人ばかり。

と思った時、隊長の視線があたしを捉えた……と同時に、眉間に皺が寄せられる。
あたし、なにかやらかしたのかしら。
「松本、お前、酔いすぎだぞ」
「あぁ、そのことですか……隊長にはカンケイないでしょ」
上目遣いで見上げた目つきが、据わっているのが自分でも分かる。案の定、隊長の眉間の皺が深められた。
「どうしたんだ、コレ?」
あたしの隣で胡坐を掻いている京楽隊長に、声をかける。
ていうか、副官に向ってコレとは何よ、コレとは。

京楽隊長は、軽く肩をすくめた。
「ちょっと悪い酒になっちゃったみたいでねぇ。日番谷君、座ったばっかりで悪いけど、彼女を家まで送ってってくれない?」
「あ? 何で俺が」
「君のせいだからさ」
は? と隊長が目を見開くのを見て、あたしはヒヤリとする。
激しく鈍い隊長に気づかれるとは思わないけど、これ以上ヒントを出されると回りにバレちゃう。
「それに、この場で酔っ払ってないの、君だけだし。安全そうなのも君だけだし」
「安全って何だ」
「いいの? 他のに任せちゃって」

何で俺に聞くんだよ。そう言いたそうな顔で、隊長が周囲を見回す。
「いえ! 日番谷隊長にご足労をおかけするのは……! 俺が送ります!」
鉄砲玉みたいな勢いで飛び出してきたのは、恋次や吉良と飲んでた修兵だった。
なんか顔も赤いし、切羽詰ってるし、間違っても酔っ払った自分の身を預けたいとは思わないわ。
「送り狼……」
あたしがポツリと呟くと、修兵はますます顔を赤くした。わかりやすいわね。
「いえ、自分が送りますさかい、日番谷隊長は飲んどってください」
膝をついて、かしこまった口調で隊長を見上げたのは射場さん。
……って、射場さん?

「俺が先に言いました!」
「あぁ? 檜佐木の癖に言うやないけ」
送り狼が二匹、と京楽隊長がぽつりと呟くのが聞こえた。
それが、隊長の耳に届いたかどうかは、分からない。
一つ、大きなため息をついた。

「松本……」
ゆらり、と隊長が立ち上がる。怒ってるんだか呆れてるんだか分からない口調に、とっさにリアクションが取れない。
「起立!」
「は、はい!」
反射的に、立ち上がる。立ち上がった途端、ゆらりとよろめいた。
その腕を、いつの間にか目の前に現れた隊長が、掴む。

そして、何か言いたそうに見上げてくる修兵と射場さんを見下ろした。
「結構だ」
笑っちゃうくらいに、にべもなく言い捨てると、あたしの腕をぐいと引く。
それでも俺が、自分が、と言いすがる余地はそこには全くない。
ぷ、と京楽隊長が小さく噴出すのが聞こえた。