京楽隊長の瞬歩は、呆れるくらいに早かった。
ぱちぱちと何度か瞬きをして目を開けた時には、もう七番隊舎の庭にたどり着いていた。
このスピードなら、おそらく野次馬達にもあたし達が脱出したことは気づかれていないだろう。
隊首室のすぐ外側にあるこの庭は、京楽隊長の趣味なのか枯山水が設えられてる。
10メートル四方くらいの広さがあって、なかなかに立派だ。
丸みのある白い石が渦を巻き、古い石をそのままに使った石灯篭は、野趣があった。
綺麗に整えられてるのは、きっと副官の七緒のおかげだと思う。
ざぁ、と周囲の木が揺れ、あたしは我に返った。京楽隊長の腕の中にいる、ていう異様な状況を思い出す。
「きょ、京楽隊長」
呼ぶと、すとん、と地面に下ろされた。あたしは続ける言葉を失ったまま、まじまじと編笠に隠れた京楽隊長の顔を見上げる。
「ぷっ……あははは!」
その途端、京楽隊長は何かのタガが外れたみたいに笑い出す。あたしは半ば本気で後ずさりした。
「大丈夫ですか? ……その、頭とか」
この人とあたしが婚約? そんなの、この人とあたしがそろって禁酒するくらいにありえない。
そりゃ昨日の夜酔っ払って、京楽隊長みたいな人を好きになれば良かったって口走ったけど、いくらなんでもこれは暴走しすぎだと思う。
京楽隊長は、笑いすぎて目尻に涙を浮かべながら、あたしを見下ろしてきた。
「いやぁ、見たかい? あの時の日番谷君、余裕なくしちゃってまぁ。途中から笑いをこらえるのに必死でさぁ」
「笑いこらえてたんですか?」
あたしの目には、怒ってるようにしか見えなかったんですけど! 心中笑ってたとしたら、大した演技力だ。
このまま突っ立って話すのも何だから、と言う京楽隊長に連れられ、あたしは隊首室へと足を踏み入れた。
さすがに休日だから、七緒もいない部屋はがらんとしている。
まさか……あの七緒が、野次馬達の中に混ざっているとは思いたくないけど。
あたしは、隊首席の横に設えられた、皮製のソファにちょこんと腰掛ける。
ちょっと待ってねぇ、と給湯室の方から京楽隊長の声が聞こえる。カチャカチャと陶器が鳴る音がしているから、お茶を淹れてくれているんだろう。
間もなく、お盆に急須と湯呑一組、徳利最中を積んで現れた京楽隊長を、あたしは見上げた。
なんだか今度は、腹が立ってきていた。
「一体、何考えてんですか? 隊長とあたしで遊ぶつもりですか?」
「や! めっそうもない。そんなつもりなかったんだけどさ」
京楽隊長は眉をさげると、違う違うと手を振って見せた。
「困ってるようだから、何か知恵を貸そうかと思って廊下から近づいたら、キズモノとか責任取るとか取らないとか、おもしろすぎる会話が聞こえたからさ。
つい遊びたくなっちゃって」
「……って、遊んでるんじゃないですか、やっぱり!」
全く、意味がわかんない。なんか、いつもあたしに振りまわされてる隊長って、こんな気分なのかもしれないと思う。アッタマ痛いわ、ホントに。
あたしは隊長のことを思い出すと同時に、きょろきょろと辺りを見回した。
「ていうか、隊長激怒してましたよね。追っかけてきたらどうするんですか」
京楽隊長があたしを連れ去ろうとした瞬間、京楽! と怒鳴った隊長は、本当に怒っていた。
虚を前にしたって、感情を高ぶらせることも、ましてや怒ることもないあの人が。
あたしだったら、あんな風に怒りを叩きつけられたら、さすがに恐怖しただろう。
でもこの目の前の男は、全然堪えてないみたいに呑気な顔をしてる。
ずっ、と茶を啜りながら、京楽隊長は首を振った。
「んー、ないね。絶対にない」
「どうして言い切れるんですか」
「日番谷君まで逃げたら、誰があの野次馬たちに君の身の潔白を証明するんだい。
君が僕の婚約者だと信じたなら尚更だね。罪悪感もあるだろうし、今頃苦しい弁明に追われてるだろうさ」
根も葉もない嘘をしかけたのは京楽隊長のくせに。
ひどい人だ……あたしは絶句しつつも、京楽隊長の一言が胸に引っかかる。
「……罪悪感? そんなの感じる必要ないでしょ? ウチの隊長には」
送っていったのだって、そこの京楽隊長に指名されたからだし、あたしを泊めたのだって、眠ってたのだから不可抗力だ。
捻くれた捉えかたをすれば、まるであたし達二人がグルになって、隊長を嵌めたようにも見える構図だ。
巻き込まれ型の人だな……と、他人事みたいに気の毒になってくるくらい。
京楽隊長はそんなあたしを見下ろすと、くすり、と笑った。
「君の、日番谷君の見方はおもしろいねぇ。百年前から全然変わらないね。まだ、色事には無縁な子供だと思ってるのかい?」
「……え」
あたしは、次に続ける言葉に困って口ごもった。そうかもしれない……ただ隊長と、男だの女だのいう話題を結びつけにくいだけだ。
なんだかそれは、考えちゃいけないような気がするのは、あたしがまだ隊長を子供扱いしているからだろうか?
「日番谷君は、ああ見えて外見並には成長してるよ。君を夜中に連れ込んだことが明るみに出ればどうなるか、気づいてなかったはずがないね」
「そうでしょうか……ほら、隊長って鈍いし」
「それも君の思い込みだ。彼は、そんなんじゃないよ」
いや、鈍い……でしょ。あたしは心中、頭を捻る。
女死神から自分に向けられる憧憬のまなざしにも気づいてないし、見合いだって次から次へとアッサリと断ってるあの人が、女心だの恋愛ごとなどに注意を払ってるとは思えない。
パリッ、と乾いた音を立てて、京楽隊長は徳利最中の包み紙をめくる。
おぉこの香り、と喜びながら、ぱくりと口に放り込んだ。濃厚な酒の匂いが立ち上る。
口元を動かしながら、続けた。
「彼には、眠り込んだ君を雛森君の家に連れて行くとか、四番隊に放り込むとか、いろんな選択肢があったはずなんだ。それなのに、自分の家に連れ帰った」
「めんどくさかったからじゃないですか? 結局、何もなかったし」
「本当に? 君、寝てたんでしょ?」
「……。エロい」
「ああ僕はエロいさ。当然だろ」
堂々と胸を張られて、あたしはうんざりする。
そりゃ、分からないけど。あたしの寝込みを襲う隊長なんて、それだけは絶対にありえない。
でも……あたしが起きた時、腫れぼったい目をしていた隊長の顔を思い出す。
―― 「お前には、関係ねぇだろ」
そう京楽隊長に言い放った時の、表情がそれに重なる。
どちらも、隊長は不機嫌そうだった。怒っていた、と言ってもいい。
なんだか、見慣れない顔だった。不意に、知らない男を相手にしていたかのように、ヒヤリとする。
考えてみれば、分からない。あれは、あたしが知らない隊長の顔だった。
「……このままでいたいって、言ったよね君は」
不意に、言葉がぽんと投げかけられ、あたしは顔を上げる。
「……はい」
「いられないよ」
京楽隊長の声は、穏やかに響いた。
「君は日番谷君のことを、特別だと思ってしまった。もう、これまでと同じように、隊長と副隊長の関係には戻れないよ。それにきっと、日番谷君も、」
そこで言葉を切るのは、意地悪だと思う。
京楽隊長は、ようやく茶を手に取ったあたしを見返して、微笑んだ。
「日番谷君と、向き合ってごらんよ。言ったろ。彼は、君を受け止めるくらいのハラは持ってるって」
「でも……」
「だって日番谷君は、市丸君とは違うよ。分かってるくせに」
あたしにとってのタブーの名前を、さらりと口にされて絶句する。
――「……誰だって、同じです。ずっと一緒にいるなんて、できませんよ」
誰だって、同じ。市丸ギンという男と、同じ。
隊長に向き合えと昨日も言った京楽隊長にそう返したとき、あたしは紛れもなく、あの男の名前を、言葉の間に滑り込ませていた。
「市丸君とは、悲しい別れがあったかもしれない。でもだからって、日番谷君ともそうなると、本気で思っているのかい?」
京楽隊長はそう言うと、あたしから視線をそらして立ち上がった。
「しばらく、ゆっくり考えてみるといいよ。日番谷君は、僕がなんとかしておくから」
思い出したように、あたしの湯飲みに茶を注いでくれる。そして、隊首羽織を翻した。
「もう一度、惚れた男と向き合う勇気を持ちなさいよ、乱菊ちゃん。
今日のやり取りで思ったんだ。本当に鈍いのは、日番谷君ではないのかも知れないね。
君は、早く気づくべきなんだ。そうしないと……逆に、思い知らされる羽目になるよ」
脅しみたいにも聞こえる言葉を、最後に残して。