二日前、見合いをした五大貴族の娘との最後の場面を、夢に見た。
―― 「申し訳ないが」
頭を下げた俺に対し、娘はさびしげに微笑んだ。
秋らしく紅葉をあしらった鮮やかな着物を引き締める、黒の帯が視線に映る。
まとめた髪に挿した簪が、しゃらりと音を立てる。
―― 「お気に病まないでくださいな、日番谷様。わたくしには、初めからこうなることは分かっていましたから。もしかしたら、という気持ちはありましたが」
―― 「え?」
―― 「すでにいらっしゃるのでしょう? 大切な方が」
俺はその時、どんな顔をしていたんだろう。
見合いの最中でも、上品な表情を崩さなかった彼女が、初めてくすりと少女のように笑った。
―― 「気づくなと仰られても、無理ですわ。わたくしは貴方をずっと見ていたのですから」

一拍の、空白が落ちた。
総隊長直々に依頼された見合いで、断れなかったという事情はある。
でも、会ってから断ればいい、と軽々しく考えていたことを後悔した。
―― 「本当に……悪かった」
―― 「いいえ、後悔なさらないでくださいな。貴方とお話ができて、わたくしは幸せでございました。またお会いする日を楽しみにしておりますわ」

その最後の言葉が、優しさであることは分かっていた。
深窓の令嬢である彼女と、死神である俺が道端で出会うなんて、これまでなかったようにこれからだって、ありえないんだ。
俺はもう一度頭を下げ、屋敷を後にした。
一昨日の話だが、もう随分昔だったようにも思える。

彼女の耳にも、あの噂は届いてしまっているかもしれない。
でもきっと動揺はせず、ああやっぱり、と微笑むのかもしれない。そんな気がした。


***


くだらなくも面倒臭い事件の翌日。
俺は目覚めた瞬間、身動きしたくないくらいに憂鬱だった。
隊長のくせに出廷拒否もあるまい。そう思い、諦めて家を出る。
家の門をくぐった瞬間、
「きゃっ、今日はお一人だわ!」
見張っていたんだろう、女性隊士の楽しそうな声が聞こえ、俺はため息をついた。
他人の苦労で楽しむんじゃねぇ。

昨日、京楽の奴が松本を連れて瞬歩で脱出してから、一人で説明する羽目になった俺の苦労は、一言では言い尽くせない。
白髪が増えそうだ……と思ったが、考えてみれば全部もう銀髪なんだった。
とにかく、俺はそれなりの誠意を持って、何事もなかったのを証明しようとしたつもりだ。
でも檜佐木を筆頭とする百人弱の死神たち(うんざりだ)、が端から信用する気がないのは、明らかだった。
大体、二人っきりの密室で何もなかったなんて男が説明したところで、説得力がねぇだろうと俺だって思う。

説明した、というよりも、言いたいことを言うだけ言って追っ払ったというほうが正しい。
嫌疑が晴れてないことは、道を歩くだけでそこらじゅうから感じる視線だけで、十分分かる。
さすがに、面と向かって俺に話しかけられる奴はいねぇか――

「や、冬獅郎!」
ぽん、と背後から肩を叩かれる。振り返る前から、浮竹だということは分かっていた。
人が死ぬほど憂鬱だってのに、おかまいなしに満面の笑みだ。
「今日は松本副隊長は一緒じゃないのかい?」
しかも、いきなり地雷を踏んできた。
「一緒な訳ねぇだろうが! 昨日のは誤解だって……」
「……誤解だって、君が言ってるのは知ってるよ」
浮竹は、俺の台詞を途中で引き取って続けた。
「君が照れ屋さんだってこともね。いやぁ君たちお似合いだから嬉しいなぁ!」
その笑顔の真ん中に、パンチを繰り出してやったら信じてくれるだろうか、と思う。
でもそんな空気を浮竹が読むはずもなく、笑ったままその場を立ち去ってしまう。
やっぱりお付き合いは本当だったらしいわよ、と囁きが周囲から聞こえ、俺は自分の孤立無援を痛感する。

そうだ、松本だ。
今のこの状態を分かちあえるのは、瀞霊廷広しと言っても松本しかいない。
―― 「立場上黙ってたけど、乱菊ちゃんは僕の婚約者なんだ。今更手出しは許さない」
京楽の言葉が、頭をよぎる。反射的に、頭を振った。

あれから何度もその言葉を反芻してみたが、冷静に考えてそりゃねえだろうと思う。
というか、事実だとしても実感がない。
確かに京楽と松本は昔から仲が良かったし、しょっちゅう酒に付き合ってたのは知っている。
でも、あの二人の関係は、恋愛なんかには発展しようないものだと思ってた。
……まぁ、俺の勝手な思い込みだった、ということかもしれないんだが。

今から出廷したら、松本がいつものように隊首室に出廷していて。
昨日のことは全部悪い冗談だったと苦笑して。
何事もなかったかのように、一昨日までと同じ生活が待っているような気がしていた。
噂は少々しつこいだろうが、それでも七十五日、というもんな。



さすがに、十番隊舎には混乱は見られなかった。
「おはようございます、隊長!」
「おう」
松本のまの字も聞かれないことに安心しつつ、俺は廊下を急ぐ。
これで、松本副隊長とはいかがでしょうか、なんて言われたら、本気で引き返したくなりそうだ。

慣れた隊首室への道。扉を開ければ、茶を淹れようとしている松本がいる。
百年以上もの間積み重ねられてきた、日常だった。
もしも京楽との関係が事実だとしても、この百年はそう簡単には崩されない、という妙な自信があった。

……扉を、開けるまでは。

「……」
俺は、扉を引き開けた手はそのままに、その場から動けなかった。
隊首室は、燈も灯されず、カーテンも閉じられたままで薄暗かった。
耳鳴りがしそうに、しぃん、と静まり返ったその部屋に、いつもの
―― 「隊長!」
と元気に笑いかける姿は、どこにもない。
綺麗に片付けられた互いの机は、まるでよその隊首室に迷いこんでしまったかのように、無機質に思えた。

扉を開けっぱなしにしたまま、俺はソファーに沈み込む。
そこで、思いがけないほどに動揺している自分に気づいた。
松本は、俺が穏やかな時も感情を高ぶらせている時もいつだって変わらず、ここにいた。
戻ればいつもあいつがいる、ということが、俺の支えになってきたことを否定できない。
それなのに、松本が連絡もなしに出廷していない。この百年で、初めてのことだった。

―― 俺だけなのか。
何事もなく、元に戻れると思ったのは、俺だけだったのか?


どれだけの間、そうしていたのかは自分でも分からない。
周囲から隊士の呼び交わす声が聞こえてきて、俺は我に返った。
こんな薄暗い隊首室で一人固まっている姿を見られたら、どう気を使わせるか分からない。
とりあえず平静に振舞わなければ、と頭をめぐらせ、けだるく立ち上がる。
隊首室の上にきちんと置かれた封書を見つけたのは、その時だった。

俺はゆっくりと歩み寄り、自分の席の上のその封書に、視線を落とす。
そして、もう取り返しがつかないことを思い知らされた。



「……乱菊ちゃんは、もうここには戻らないよ」
静かな声が廊下から聞こえてきても、俺は身動きしなかった。
「異動願」そう黒々と書かれた封書を手に、振り返る。
「これはあいつの字じゃねぇぞ、京楽」
「同じことさ。中を読めば、彼女の意思が分かるさ。読んでみればいい」
俺は自分の手の中に視線を落とす。開こうとして、ためらった。
この男のいる前で読んでしまったら、自分がどうするのか分からない、そんな気持ちが胸をついたからだ。

京楽は、俺がその場では開かないことをあらかじめ分かっていたようだった。
昨日と比べれば格段に穏やかな声で、続ける。その声音が俺を苛立たせた。
「ま、自然な流れだね。婚約者がいながら、他の男と一夜を共にしたんだ。これくらいのけじめは、必要じゃないかい?」
「……何もねぇって、言っただろうが」
そう返した言葉は、我ながら力なかった。なんだか、数日寝てないような脱力感が、一気に全身に押しよせてきていた。
「本当に? 何もなかったのかい? できなかった、の違いじゃないのかい」
ギロリ、と俺は京楽をにらみつける。でも、何も言わなかった。

京楽は、俺の真意には気づいてしまっただろう。それ以上何も聞くことなく、背を向ける。
そしてまったく不意に、爆弾を投げつけてきた。
「乱菊ちゃんは、君を愛していたんだ。知らなかったのかい?」
「……馬鹿言うな」
俺は、反射的に言い返した。思わず本音をこぼしたのは、動揺していたからかもしれない。
「あいつが惚れてるのは、もうとっくにいなくなった奴だろ」
「君と同じ銀髪の男だね。ただし、狐目の」
肩越しに振り返った京楽は、わずかに笑っているように見えた。

「市丸君と一緒にいられなかったように。君とも別れが来ると、彼女はおびえていたよ。
君がすべきだったのは待つことじゃない。伝えてあげることだったんだよ。自分は違うと」
「適当なことばっかり言ってんじゃねぇよ」
「彼女がそう言ったんだ」

いつ、そう言ったんだ。それは本当なのか。聞きたいことは山ほどあったが、聞ける状態ではなかった。
そんなことを言う、京楽の心理が読めなかった。
昨日の京楽の言葉が事実だとしたら、京楽と松本は――
「待てよ。今更そんなことを言っても……」
「そうだ、もう遅い。君には退いてもらうよ、彼女は僕のものだ」
バン、と扉が閉められる。一人取り残された俺は、その場に立ち竦んだ。