深い、深い脱力感。
俺が発する気配に気づいたのか、隊首室に近づく者は、誰もいない。
周囲は、しんとしていた。時計が時間をきざむ音は聞こえるが、何時なのかは見る気にならなかった。

「ひっつーん!」
ひょい、と窓を開けて現れたピンク色の頭に、俺はけだるく首をめぐらせる。
「草鹿か。なにしに来た」
こいつは、百年たっても外見は子供のまま全く変わらない。
カーテンを押し開けると、薄暗い部屋に臆すこともなく、ぴょんと跳ねて床に降りて来た。

「んー。剣ちゃんがね。ひっつんのトコに行けって。何って言ってたかな。ひっつんがその……は、ぬけ? も、ぬけ? になってるから、行けって」
それを言うなら腑抜けだろう、と思ったが、指摘してやる気にはなれなかった。
「更木に心配されるなんて」
俺はショックを受けた顔をしたんだろう。
草鹿は、俺が座ったソファーの近くに歩み寄った。

「乱ちゃんは?」
「あいつに会いに来たなら、いねぇぞ」
「振られちゃったの?」
他の奴のコメントだったら、取り合わなかっただろうと思う。
でも、俺を見下ろしてきたその顔は、両親を心配する子供みたいにあどけなく、俺は思わず苦笑した。
ぽろりと本音が転げ出る。
「そうかもしれない」
「まだ分からないの? 乱ちゃん、どこにいるの?」
「……現世」
俺は、すぐにそう返した。

霊圧をさぐれば、松本が現世にいることは、すぐに分かった。
京楽の傍にいるならまだしも、どうしてそんなところにいるのかは分からない。
でも、あいつは自分の意思で、この隊首室ではなく、現世にいるのだろう。
「そうかもしれない」なんて、あいまいな答えは必要なくて、その事実が全てなのだろうと思った。

「会いにいかないの?」
「……もう、必要がねぇ」
「必要がなかったら、会いに行かないの?」
草鹿は、俺を覗き込みながら、繰り返した。
「あたし、剣ちゃんがどこかに行っちゃったら、おっかけるよ。
いらないって言われても、どこまでもずーっとついて行くよ。剣ちゃんはあたしの、大切な人だもん。
いなくなっちゃったら、困るよ」
「……お前は、勇敢だ」
そう言ってやると、草鹿は大きな目を見開いて俺を睨んできた。
「ひっつんは、いくじなしだね」

―― 「君がすべきだったのは待つことじゃない。伝えてあげることだったんだ」
京楽の言葉が、重なる。なぜかどいつもこいつも、同じことを言う。
待っていても意味はないと。
特に京楽の奴は、俺から松本を奪った張本人のくせに余計なことを言う。
でも……あいつは俺に何かを伝えようとしていた、それは間違いない。

「むかえにいけばいいよ」
草鹿は、カーテンを大きく開け放つと、そう言った。
あいつがいなくなった後、外から差し込んできた光が、部屋の中を大きく照らし出した。



はたはたと、カーテンが揺れている。
さっきまで気づかなかったが、外は晴天らしい。
外からは、誰かの笑い声が聞こえてきていた。
現世も、晴れているだろうか。あいつはどんな気持ちで、この空の下にいるんだろう。
いつも隣にいたから、遠くにいる松本を思うというのは、新鮮な気分だ。
自然と一昨日の夜のことを、思い出していた。


***


俺の背中で全ての力を抜き、全身を預けている松本を背負いながら、夜道を歩いていた。
「ったく、ちょっとは警戒しろ……」
ぐっすりと寝入っているその顔のあどけなさに、俺は力が抜けるのを感じていた。
そんな、親に背負われた子供みたいな顔をされても困る。

今更本人に向って認めることはないが、松本はいい女だと思う。
檜佐木だの射場だの、他の雑多な男どもが目の色を変えるのも、全く不思議とは思わない。
でも妙なほど、松本はそいつらに対しては無頓着だ。
まるでずっと一つの方向を見ていて、他に何があろうが目に入らないかのように。
俺に対しても警戒心を微塵も示さず、呑気に寝てるのがその証拠だ。


十番隊の宿舎が連なる地帯の一番手前が、松本の住居になっている。こじんまりとした平屋の一戸建てだが、個室も持てないことがある死神達の中では、段違いに恵まれている。
「おい、松本。起きろ」
俺は背中の松本を何度も揺すって起こそうとするが、全く身動きしない。
まさか、このまま朝まで俺の背中をベッドにするつもりじゃねぇだろうなこの野郎。
舌打ちして、辺りを見回した。

雛森はさっきの場にいなかったから、今頃部屋にいるはずだ。
時刻も十時ごろだから、まだ起きているだろうし。事情を話せば、朝まで預かってくれるだろう。
どこまでも、他人に手をかけさせる奴。ため息をついて背中を返そうとしたとき、不意に松本の指先が動いた。

心ならずも、ドキリとした。
俺の髪にもぐりこんできたその指先が、あまりに優しいものだったから。
頭をなでながら松本が、空いた方の左腕で、ぎゅっと俺との距離を詰めてくる。
温かい息が首元にかかった。
「……おい?」
俺は体をずらせて振り返り、松本の顔を覗き込んだ。初めて、周囲の視線を気にした。誰もいないことを確認して、改めて視線を落とす。

「おかえり……ギン」
ぽつり、と涙が俺の肩に落ちる。
その言葉は。カツン、と俺の心に当たって跳ね返った。



男が、女を抱こうとするきっかけは、惚れただの愛しいだのいう気持ちがあるんだと思う。
でも俺の場合は、ある意味もっと切実だった。自分の中で引き金が引かれてしまったんだ、としか言えない。

これが送り狼ってやつか、と自虐的に考える。射場や檜佐木のことを言えた義理じゃなかった。
京楽も、そんなつもりじゃなかったんだ、と嘆くだろう。でも、そんなことはどうでもよくなっていた。
雛森の部屋なんて気づけば選択肢にはなく、俺は一直線に自室へと向っていた。


片足で寝室の障子を引き開け、軽く二つに折ってあった蒲団を同じく足で倒す。
その上に、乱暴に松本の体を投げ出した。
こんな時になっても、すぅすぅと寝てやがる。
虚の気配や殺気を感じれば飛び起きる百戦錬磨の女が、随分鈍いじゃねぇか。
今の俺ほど、こいつにとって危険な存在はそうそうねぇだろ、と他人事のように考える。

「おい、松本。起きろ」
くにゃりとして力が入っていない右肩に手を置き、力を入れて揺さぶる。
覆いかぶさるように上半身を倒し、その耳元に声を吹き込んだ。
起きてしまったら、そしてこいつの目を見てしまったら、もう止められないかもしれない。
これほど衝動のままに動く自分を、俺は今まで知らなかった。
起きろ、というかつてないほどに攻撃的な感情と、起きるな、という理性がせめぎあう。

松本は、俺の息を感じたのか、くすぐったそうに体をよじったが、それでも起きない。
夢うつつのまま、俺の首に細い腕を巻きつけてきた。
ぎゅっ、と引き寄せられた瞬間。さすがに、ブツンと何かが音を立てて切れそうになる。
でも、眠ったままの頬に浮かんだ笑みに、俺はすんでのところで手を止めた。

「……まだ、市丸だと思ってんのかよ?」
至近距離で見るその表情に、胸が轟く。綺麗だ、と思った。
そしてその顔をさせているのは、俺ではないんだ。

ため息をつき、顔を松本に近づける。
額を、コツンと触れ合わせる。思ったより華奢で、温かかった。
俺はすぐに身を起こすと、どっと体を部屋の隅に投げ出した。なんだか、急速に疲れが襲ってきていた。

―― 今のは、ヤバかった……
我に返って、額に浮かんでいた汗を袖で拭う。取り返しのつかないことをしてしまうところだった。
決めたはずだ、と自分に言い聞かせる。
松本が市丸のことを忘れるまで待つと。
「……おい、松本」
目を閉じる。
「いつまで、引きずってんだ? いつまで、待たせるつもりだ」
今夜は、朝まで眠れなさそうだ。俺は再び、ため息をついた。


***


そうか。
今頃になって、俺はやっと気づいていた。
市丸のことを忘れることは……これからも、ないのか。
市丸は、俺がどう思おうが、すでに松本の一部になって息づいている。
無理やり引き離せば、そこに残るのはもう、松本ではないのかもしれない。
俺はきっと分かっていたのに……あえて、待っていた。
そしてマヌケなことに、横合いからかっさらわれたというわけか。

―― 「いくじなしだね」
まったくだ。草鹿の言葉に、自虐の笑みを浮かべる。

どうするつもりだ。俺は自分に問いかける。
京楽は、あれはあれでしっかりした男だ。あいつに、松本を任せるのか。
それとも、奪うのか。
……その二つの選択肢は、どうしても俺には、しっくり来ないんだ。

俺はしばらく目を閉じていたが、
「……畜生」
呟くと、立ち上がった。まとっていた隊首羽織を乱暴に脱ぎ捨て、ソファーに投げ出した。
そして松本が残した異動願を手に取る。