花冷えの季節。開いた窓から吹き込んでくる風は冷たく、乱菊は窓を閉めた。
斜めに差し込んでくる夕日が、無人の隊首席をオレンジ色に照らし出している。
「今度は、どこ行っちゃったのかしら」
日番谷が十番隊の隊長に就任してから二ヶ月ほど経つが、ここまで隊首室に居つかないとは思わなかった。

どこへ行っても、かしずく隊士たち。隊長格同士の、優雅な集まり。
肩が凝るとぼやいていた日番谷は、任務にかこつけて流魂街に外出してばかりいる。
的確に仕事をこなしてくるものだから、文句を言うこともできない。
しかし、これは文句を言ってもいいわよね、と乱菊はため息をつく。
日番谷の伝令神機を鳴らしても出ないと思ったら、机の上に放置されていた。

そして何より、乱菊が気に病んでいるのは、今の時間帯は隊首会が行われているはずだ、ということ。
これまで隊首会は何があっても出席していたのに、戻って来もしないなど初めてのことだった。


もう。
再びため息をついて、隊首席の上を見やる。視線が、一枚の紙に注がれた。
くしゃり、と乾いた音を立て、乱菊はその紙を手による。すぐに眉根が寄せられた。
「原田の葬儀の告知、か。まだ持ってたのね」
先月、虚との戦いで命を落とした十番隊隊士の名だ。
日番谷が隊長になってから、初めての死。さっと顔色を青くしたものの、彼はしばらく無言だった。
―― 「家族がいるんだったな。俺から伝えに行く」
やがて、そう言って立ち上がった背中はいつもどおりきびきびしていて、乱菊は声をかけるタイミングを失った。

日番谷冬獅郎のことが分からない。死神に誘ったのは自分なのに、そう思う。
初めて会った頃は、祖母を一途に慕う優しい子供だったのに。
今は、その無表情の下で何を考えているのか、乱菊にはよく掴めないのだ。
まだ、上司と部下の関係になって二ヶ月しか経っていないのに。焦りすぎかもしれない。



トントン、と隊首室のドアがノックされ、乱菊は振り返る。わずかに開いた戸から中を覗きこんでいたのは、恋次だった。
「どしたの恋次? なんか書類?」
「はい。日番谷隊長……は、そか、隊首会っスね」
「……の、時間なんだけどね。行方不明」
はあ? と恋次は目を見開いたが、やがて笑い出す。
「何がおかしいのよ?」
「男も黙る乱菊さんが、子供に振り回されてるなんて、おかしいッスよ」
笑いごとじゃないわよ、と言いつつも、乱菊も苦笑した。

ふと、恋次が特徴的な形の眉を顰めた。
「そういえば日番谷隊長、昨日、正体不明の虚の始末を任されたらしいっスよ。花見の手伝いに来てて、偶然小耳に挟んだんですが」
まっさか一人で討伐に行くなんていうことは、と言いかけた恋次を、乱菊は思い切りさえぎった。
「それよ!」
「え、どれ?」
「うちの隊長は仕事熱心なの! 仕事が来たら次の日には絶対やるのよ」
乱菊が呆れるほど、日番谷は仕事が早い。乱菊よりも机に座っている時間は短いのに、こなす仕事は多いのだ。
昨日、その仕事を受け取ったというならば。今日いないのは、その任務のためだろう。
そして、必ず隊首会には戻ってくるはずの彼が、戻ってこない。

「……大変」
乱菊はつぶやく。そして大股でドアに近寄ると、恋次を押しのけて廊下へ出ようとした。
「ど、どこ行くんですか乱菊さん!」
焦った恋次の声が追いかけてくる。廊下に出た乱菊は叫び返した。
「隊首会! 隊長に何かあったらどうすんのよ!」
「何かあったとしても、それは日番谷隊長の失策でしょう」
何百もの部下を持つ隊長たるもの、失敗は許されない。単独で戦いに出向くなら、尚更だ。
隊長を迎えるまでの乱菊なら、頷いていただろう。しかし乱菊は、キッと恋次を振り返った。
「ウチの隊長を侮辱したら、殺すわよ」
恋次が息を飲んだ気配を感じながら、乱菊は隊舎を飛び出した。




隊首会なんて、大嫌いだ。オッサンどもの腹の探りあいに、なんで俺が付き合わなきゃならねぇんだ?
そうぼやいていた日番谷を思い出した。
―― 「それは、隊長が隊長だからです」
実も蓋もない返事を返した記憶があるが、今ならもう少し、同情的に話を聞けるのではないかと思う。

いきなり隊首会に乱入した副隊長が優しく迎えられるとは思っていなかったが……
全員が立ち並ぶ中に挟まれるように膝を突き、報告を強いられるのは愉快な体験とは言えなかった。

乱菊が報告することは、そう多くは無かった。
正体不明の虚の討伐に日番谷が向かい、今になっても戻ってこないこと。言葉にすれば一言である。
総隊長は、乱菊が話し終わると重々しくため息をついた。
「いかにも、昨日日番谷隊長にその任務を依頼したのは儂じゃ。ただし、正体が不明な敵に一人で当たるなとも言ったはずじゃったが。
日番谷隊長は、なぜ副官のお主を連れて行かなかったのじゃ」
乱菊はそれには答えず、ぎゅっと唇を噛み締めた。それを聞きたいのは、乱菊の方だった。
同行できないほどに忙しかったわけでもないのに、連れて行かなかった理由。それは、自分がまだ信用に値しないからなのか?

隊首室に沈黙が落ちた、まさにその時だった。ぎい……と重々しい音を立て、突然扉が開いた。
ハッと全員が扉を見やる。足を引き摺るようにして入ってきた小柄な少年の姿に、息を飲んだ。

「日番谷! 貴様、隊首会に遅れるとは……」
叱咤するように言いかけた砕蜂を、卯ノ花が無言で制した。
そして、おぼつかない足取りながらも、キッと前を見据えて隊首室の真ん中に進み出た日番谷に、歩み寄る。
「……遅れて申し訳ありませんでした」
「日番谷隊長。その傷は……」
卯ノ花が伸ばした手をすり抜けるように、日番谷ががっくりとその場に崩れ落ちる。かろうじて、床に膝を突いて堪えた。
「隊長っ!」
今まで腹を立てていたのも忘れて、乱菊は日番谷に駆け寄る。しかし日番谷は掌を上げ、乱菊を制した。

よく見れば、日番谷の左肩の下、胸の上あたりの着物が破れ、じっとりと血がにじんでいた。
どうやら矢か、それに準ずる鋭い刃物に傷つけられたらしい。
左腕を伝う血が、床についた掌から地面に広がってゆく。出欠の量が尋常ではない。まともな傷ではない、とすぐに気づいた。
「毒を受けましたね。熱もあるようです、早く四番隊へ」
「大丈夫です。……総隊長。報告があります」
「……申してみよ」
「西流魂街三十八区。残雪峡に例の虚を追い込みました。結界を張り、周囲の住人が近づけないよう処置はしています。
ですが、残雪峡から流れ出す川に毒が混ざった可能性がある。技術開発局から人を出してください」
「正体も分からぬ毒と知りながら、派遣はできぬ」
「俺は毒を受けています。俺の血を調べれば済むことです」

苦しいに違いない。見下ろした乱菊は、唇を噛み締めた。
床についた腕が、かすかに震えているのが分かる。耐えるのがやっとの苦痛の波が、何度も襲ってきているのが分かった。
それなのに、苦痛と完全に分離されているかのように、口から出る言葉は冷静そのものだった。
「……さすが、明晰じゃの。ある程度危険は予測していたはずじゃ。それなのになぜ単独で挑んだのじゃ?」
乱菊は、日番谷を見やる。日番谷は副隊長を見据えたままだった。
「副官を連れて行くべきでした。それをしなかったのは俺の失策です」

卯ノ花が、総隊長に向かって目配せをするのが分かった。
素人目から見ても、日番谷の容態は一刻を争う。なにより、その毒の正体が見えていないのだから。
「分かった。技術開発局から何人か行かせよう。率いるのは……」
総隊長の視線が、京楽と浮竹の間を泳いだ。
「総隊長!」
しかし、日番谷が鋭い声でさえぎる。
「引き続き俺にやらせてください」
「そんな体で無理です!」
乱菊は日番谷の前にかがみこむ。立つこともできないのに、どうやって虚を倒せるというのか。
「これは俺の失策だ。他の奴に尻拭いさせられるか」
「隊長っ!」
カッと頭が熱くなる。
副官を連れて行くべきだった、と謝罪した直後に、そんなことを言うのか。
そんな風に、すべて自分一人で片付けようとされたら、あたしの立場がないじゃないですか。
短い呼びかけの中に込められた非難の色を感じ取ったのだろう。日番谷はぐっと乱菊を睨み返してきた。

あなたが、あたしを必要としないのなら。
副官である必要が、あるんですか?
言ってはいけない言葉が口をつこうとした時、背後から影が差した。

近づいてきた総隊長に、日番谷がのけぞる。
と思った時には有無を言わさず、総隊長が日番谷を肩に担ぎ上げていた。
決して総隊長は大柄には見えないが、それでも日番谷と比べると文字通り大人と子供くらいの体格の差があった。
「そ……総隊長?」
さすがに日番谷が慌てた声を上げる。
「ほっほ、軽いのう。子供はしっかり食わねば成長せんぞ」
「俺は子供じゃありません!」
「分かっておる。気負うのは分かるが、何のために隊長が十三人もおるのかを忘れてはならぬぞ。もちろん、副官のこともな」
自分の心の痛みに気づいてくれている、と乱菊は思う。
「本日の隊首会はこれで解散じゃ! 京楽、浮竹、後でちと儂のところへ来い」
はっ、と二人の隊長が声を上げる。そして、担がれたままその場を退場した日番谷を面白そうに見守った。
その後を、卯ノ花と乱菊がついてゆく。向かった先は、四番隊だった。


***


「……定時はとっくに回ってるだろ。帰って休めよ」
「総隊長命令ですから。隊長を見張るようにと」
四番隊の救護室。隊長用の個室で横になった日番谷の隣に、乱菊は腰掛けていた。
処置を受け、顔色はずいぶん良くなっている。それでも、卯ノ花から絶対安静を言い渡されていた。

ベッドで上半身を起こし、書類に目を通していた日番谷は、バツが悪そうに乱菊を見上げる。
「俺に、お前が付き合う必要はねぇだろ」
「隊長には信じられないかもしれませんが、必要あるんです。あたしは貴方の副官ですから」
そう言った言葉は、嫌味から出たものではなかった。
たった一人で、生きてきたのだと思う。祖母や雛森と共にいながらも、頼ったことはなかったのだろう。
本当に、この人は周りを頼る、ということを知らないのだ。乱菊にも、それは理解できない心理ではない。

乱菊は椅子から立ち上がると、日番谷が手にしていた書類を取り上げる。
「隊長こそ、入院中まで仕事しないでください。隊長が寝たら、あたしも帰ります」
返事の代わりに、日番谷は軽く咳き込んだ。
「やだ隊長、風邪ですか?」
「……たかが風邪だと思って不覚を取った」
すまねえな。短く続けられた言葉に、乱菊は目を見開いた。
日番谷なりに、今回の一件を申し訳ないと思っているのが見て取れた。

「……も、いいですよ。いいから、寝てください」
日番谷が、乱菊に背中を預けてくれるには、まだまだ長い時間が必要かもしれない。
でも、一言謝られただけで、すっとわだかまりが消えていく気がした。



それから、三十分後。室内には、日番谷の静かな寝息が聞こえていた。
乱菊は椅子に座ったまま、その寝顔を見下ろしていた。こんなに顔を見つめるのは、初めて会って以来かもしれない。
あの時も、すやすやと眠っていたっけ。
「寝てたら可愛いのに」
眉間に残る皺のあとを、ちょんとつつく。
その左肩の部分には、分厚くまかれた包帯が覗いている。
こんな幼さで重責を背負ってしまった肩を、痛ましいとも思ってしまう。
乱菊はそっと額にかかった銀髪をどけ、じんわりと熱い額に掌を置いた。
しかし、ドアをノックされ、弾かれたように身を起こす。

「はい」
「卯ノ花です。涅隊長の分析が終わりました。……毒の正体が、分かりましたよ」
扉から顔を覗かせた卯ノ花は、隠し切れない暗い面持ちでそう言った。