いつしか日番谷は、舞い散る桜の中ひとり佇んでいた。
そうだ。これは昨日見た、朽木邸の桜だ。
樹齢百年にはなるかと思える巨木に、みっしりと桜の花が咲いている。
風が吹き抜けるたびに花びらが大量に落ちるが、全く減る兆しはない。
息苦しくなり、日番谷は桜から目を逸らした。

―― 「ねぇ、隊長。お花見行きましょうよ」
乱菊がそんなことを言って、隊首席に身を乗り出してきたのは、確か十日ほど前のことだった。
ああん? と面倒くさそうに返したのにもめげず、笑顔を向けてくる。
―― 「隊首桜っていう、隊長格と一緒じゃないと見れない桜があるんでしょ?」
あぁ、とさっきと同じような調子で頷いた。
―― 「あんなモン。ガキの頃にこっそり見た」
よくばれませんでしたね、と声を上げる乱菊に、将来の隊長だからな、と適当なことを返した記憶がある。

なんとなく、その場に雰囲気に押し切られて、頷いてしまった。
だが、桜は本当はあまり好きじゃない。
桜は咲いている時は儚さを、散っている時は死の気配をつれてくるからだ。
あんな風に。
日番谷は、先月死亡した隊士の葬式を、思い出した。


遺族の意向で、親族だけが出席した、寂しい葬式だった。
知っているのは、葬列が墓地に向かっていく途中にそっと現れたからだ。
気づかれないだろうと思ったが、母親は日番谷に気づいた。
目を見開き、眉間に皺を寄せ、その後でゆっくりと頭を下げて見せた表情を思い出す。
―― 「死神になると言った時から、覚悟はしておりました」
日番谷が直々に出向いて告げた時も、取り乱すことのなかった母親が一瞬見せた、消しがたい悔恨の影。
それは何度でも何度でも、夢に登場しては日番谷を苦しめた。

―― 「ねぇ、隊長」
何度でも、明るく声をかけてくれる副官を思い出す。
あんな風に。
あんな風に、死なせたくはなかった。
どこの隊でも死人はつきものだが、他の隊長は一体どのように、この後悔と折り合いをつけているのだろう。

たとえ、副官を連れていかないことを責められたとしても、頭に思い浮かんでしまうのだ。
乱菊が、自分の目の前で死ぬところを。
そこまで考えて、日番谷はぶるりと身を震わせた。

刹那。

桜の向こうを、影のように行過ぎてゆく異形に、日番谷の視線は吸い寄せられる。
あいつだ。すぐに気がつく。
自分に傷を負わせた、あの正体不明の虚。
影絵のように、その姿ははっきりとは見えない。
しかし、日番谷の指から肘くらいまでの長さはある巨大な牙が見えた。
あの牙が、避けようとした日番谷の胸から肩を抉ったのだ。

そうだ。俺は、あいつを、倒さなければ。
思い出したように呟くと、日番谷はゆっくりと虚のあとを追った。



虚には、すぐに追いついた。
巨大な双極の丘を背後に、その虚は二本足で立ち上がっていた。
まるで、狼と人間を足して二で割ったような外見をしている。
「……逃がさねぇ」
手の中にあった斬魂刀を、ゆっくりと抜き放つ。
接近戦は不利だということを、すでに学んでいた。
力でも、素早さでも、この虚と渡り合うのは生半のことではない。
それならば、遠距離から討つ。切っ先を虚に向けた。

「……霜天に座せ、氷輪丸」
氷の竜が噴出し、虚を飲み込もうとした瞬間、虚が獣のようにニヤリと笑うのを見た気がした。
かまうことはない、と一気に押し包む。
虚は微動だにせず、結果氷の濁流に飲み込まれた。

随分、あっさりと勝敗がついたものだと、思わずあっけにとられたくらいだった。
氷輪丸の切っ先と、丈が数メートルはある巨大な氷塊を見比べた。
どうやら、毒を出す暇もなかったらしい。さっき手こずったのは、相手の力量を舐めすぎたせいかと思う。


あたりには、少しずつ闇が落ちてきている。
氷の塊は、どこまでも青く暗く見えた。
このまま放っておいても勝手に砕けるだろうが、敵の姿とその死は、確認しておかないと。そう思って歩み寄る。
この敵が片付いたら、総隊長に改めて報告へいこう。そして、乱菊にも一言、謝っておかないと。

触れただけで皮膚が張り付きそうな冷気を放つ、氷塊を目前にして立ち止まる。そして中を覗きこんだ。
初めは、よく見えなかった。
目を凝らすと、黒い影のように、中で氷漬けにされた者の輪郭が見えた。随分小さい、と日番谷は眉を顰める。
漆黒の布地。暗がりの中で、純白にも見える、肌。そして波打つ金色の髪。見開かれた、青い……瞳。
日番谷は、短い悲鳴を上げて飛びのいていた。

「ま、つ、も、と」
なんで、どうして、自分が氷漬けにしたのは虚のはずなのに、なんで松本が氷の中に。
無様に、息が震えた。何が起こっているのか、全く理解ができない。さあっと、胸の奥が冷たく白くなる。

「あ」
ピシッ、と氷にヒビが入る。日番谷は、泳ぐように両手を伸ばした。
駄目だ、駄目だ。こんなの駄目だ。
「ああ、」
手を指し伸ばす。氷を抱きしめるように腕を広げる。
そんな日番谷の目の前で、無残にも氷塊は、粉々に砕け散った。

耳を劈くような音と共に、氷のカケラが地面に崩れ落ちる。
日番谷は、地面にそのまま膝をついた。はあ、はあ、と息だけがどんどん荒くなる。鼓動が胸を叩く。
そんな馬鹿な。

―― 「ねえ、隊長」
明るく微笑む副官の姿が、胸を通り過ぎてゆく。
日番谷は、地面に突いた両手を、ゆっくりと持ち上げる。
両手の指の間には、長い金髪がごっそりと絡みついていた。

慟哭が。
その場に響き渡っても、それが自分のものだとは信じられなかった。
俺が。
松本乱菊を、殺したのか?