西流魂街三十八区、残雪峡。
その名が示すとおり日当たりが悪く、春の半ばになっても最後まで雪が残っているような、寂しい峡谷である。
周囲からは山がせり出し、若緑が鬱蒼と茂っていた。時折鳥のさえずりが聞こえるが、人の気配は感じられない。

別名は「老人峡」。現世の姥捨て山に似て、流魂街で暮らしていけなくなった老人や病人が捨てられる場所でもあった。
「残雪峡に異形有り」、その言い伝えは現在にも語り継がれており、その地に捨てられた者たちは二度と戻らないという。
この峡谷に取り残され、彷徨い命を落とした者たちの怨念、悔恨。あらゆる負の思いが凝り固まって生じた、化物が棲むと言われていた。


残雪峡の入り口に立った浮竹は、迫ってくるような緑を見上げ、わずかにのけぞって息をついた。
病気がちな浮竹が、瀞霊廷から出た任務に挑むことは珍しい。
全てが人工的に整備された瀞霊廷から出て、久しぶりに生身の自然に触れると、その濃厚さに息が詰まりそうになる。
どうしてもと、乞うて出てきたのは自分。ゆえに、失敗は許されない。

その隣を、ふわり、と地獄蝶が舞い追い越してゆく。
日番谷が執念で持ち帰った例の虚の霊圧を、記憶させた地獄蝶だった。
虚の後を追う地獄蝶が迷いなく山奥の方へ消えてゆく。浮竹は足早にその後を追い、山へ分け入った。
朝日が斜めに山に差込み、若い緑が美しい。しかしその美しさに目を止めることはなかった。なにより、一刻の猶予もないのだ。
脳裏には、昨晩遅くに交わした涅との会話が、甦っていた。


***


―― 「悪夢を見せる毒、だって?」
京楽が眉を顰めて、涅を見やった。
浮竹と京楽は総隊長から直々に討伐命令を受けた後、毒の説明を受けに十二番隊の隊首室までやってきていた。
―― 「その者が最も恐れている深層風景を、夢として具現化させる。目の前で拷問を受けて殺される娘、首の無い者たちの雑踏、血色の黄昏。
私だったら、この研究結果が灰になる夢でも見るかネ」
手にした報告資料に視線を落としながら、涅は椅子にもたれかかり、背もたれをギッと言わせた。
京楽がため息まじりに言う。
―― 「嫌がらせみたいな毒だねえ」
―― 「悪夢がもたらすのは、精神の破壊。ひいては、精神の死に繋がるネ」
―― 「精神の、死?」
―― 「廃人ということサ」

他人事のような涅の言葉に、浮竹と京楽は、顔を見合わせた。
―― 「……日番谷君、部下の死に随分悩んでたように見えたけど。大丈夫かな」
よく見ている、と改めて浮竹は感心する。
京楽がどのようにして気づいたのか知らないが、浮竹はある日の日番谷の姿を思い出していた。

あれは、一ヶ月ほど前のことかと思う。
暮れなずむ時間帯、冷たい風を襟巻きで避けながら、浮竹は足早に十三番隊へと向かっていた。
その時に、小高い丘の上に立っていた日番谷の背中を見つけたのだ。
寒いから、中へ入っていなさい。そんな親染みたことを言おうとして近づいて、ぴたりと足を止めた。
その小さな肩には、ぐっと力が入っているのが遠くからでも窺えた。
ちらりと見えた横顔は、思いつめたように一点を見つめている。

その視線の先を何気なく追った浮竹は、はっと胸を衝かれた。その方向には、死神の共同墓地があることに気づいたからだ。
最近、十番隊から初めての死者が出たと、日番谷が隊首会で報告していたのを思い出した。
あの時の彼は、動揺しているようには思えず、むしろ淡々としていた。しかし……平気なはずは、なかったか。
誰かの接近を拒むような厳しい後姿に声をかけられず、浮竹は背中を向けたのだった。

声をかけて、無理やりにでも話を聞いておけばよかったか。こんな事態になって後悔しても遅い。
死神が虚から人間を護ることを任務とする以上、「死」は避けられない。死ぬかもしれない場に、部下を送り込まねばならないことも多い。
結果訪れた死を、どのように克服できるのか。隊長になって何年経つのだと笑われても、浮竹はまだ、その答えを見つけられずにいる。
日番谷に、声をかけられなかった理由。それは、部下を目の前で失った過去の自分と、再会したように思えたからかもしれない。


―― 「……俺が行こう。残雪峡、だったな」
浮竹の言葉に、京楽と涅の視線が集まる。
―― 「大丈夫なのかネ。途中で血を吐いて、日番谷の二の舞になるんじゃないだろうネ」
―― 「……珍しくも同感だね。ただでさえ寒さは君の病気にはよくないのに」
―― 「大丈夫だ」
我ながら根拠がないが、押し返すように言うと、京楽が眉を顰めた。
―― 「どうして、そんなにこだわるんだい? まさか君……」
―― 「そういう訳じゃないさ。頼む、京楽」
京楽が言いたいことは、確認せずとも分かる。強いてそう言うと、京楽もそれ以上は何も言わなかった。
代わりに、懐からまるで物のように、一羽の地獄蝶をつかみ出した。宙に放たれたそれは、ふわりと宙を舞う。

―― 「幸い、日番谷君が相手の霊圧のサンプルを持ち帰っている。追うことは容易いけど、ね。あんまり無理しなさんなよ」
―― 「分かってるさ」
日番谷は自分とは違う。重ねるのは間違っている。同じ隊長である彼を、子供扱いするのも違うのだと思う。
しかし、あの小さな肩に重圧を乗せ苦しめる―― そんなことは、あってはならない。


***


「浮竹隊長」
地獄蝶を追い瞬歩で移動していると、背後から影のように人影が迫った。浮竹は振り返らずに返す。
「技術開発局の者だね。毒は、どうだった?」
「この場に張られていた結界に効果があるようです。この峡谷より外に、毒が漏れ出した気配はありません」
「なるほど。ご苦労だったね、君はもう瀞霊廷に戻って、涅隊長にご報告申し上げてくれ」
ざっ、とその場に立ち止まる。地獄蝶が、先へ行くのを止めたからだ。ふわふわとその場を舞っている。
「……ここは戦場になるからね。巻き込まれちゃ、つまらない」
朝焼けの光に照らされ、狼に似た虚の姿が岩の上に影絵のように浮き上がっていた。


「手負いの獣か。止めを刺してやる」
肉食獣に似た咆哮が、峡谷に響き渡る。ゆっくりと現れた虚の右肩から下が氷に覆われていた。
ただの氷ではない、氷輪丸から生じた氷だと判断する。その氷は、そう簡単には溶けない。
見たところ、すでに凍てついた右足は壊死し、このまま腐れ落ちるしかないように思えた。
二本足で立ち上がっている姿は人間のようにも見えるが、頭は完全に狼のものだ。
四十センチくらいはある巨大な牙が、ぬらぬらと光って見える。

浮竹は、油断なく刀を構えた。虚が、標的を定めた蛇のように浮竹に視線をとめ、全身を背後に引く。
一瞬後には、全身のバネを効かせて浮竹に飛びついてくるだろう。
「……来い」
静かに浮竹が呟いた、刹那。虚が雄叫びを上げて突っ込んできた。
そのスピードは、浮竹が予想していたよりも速い。ハッ、と身を退いた時、虚がずるりと凍った右足を踏み外した。
がくりとよろめいた瞬間、浮竹の刃がひらめいた。

「……ありがとう、日番谷隊長」
はっきりとした手ごたえと共に、血が大地を赤く染める。虚の巨大な頭が、胴体から切り離されてその場を転がった。
右前足が使えていれば、自分も日番谷の二の舞だったかもしれなかった。
もしも自分が、毒を受けたら。そのときはまた、海燕に会えただろうか。ほろ苦く浮竹が微笑んだ時だった。

虚の首が、まるで生きているかのように起き上がり、浮竹に向かって弾丸のように飛んできたのだ。
ギラリ、と輝く血走った目が、振り向いた浮竹の視界に一瞬映った。
―― まずい!
ひやりとしたものが首筋を走った、瞬間。虚の頭が、真っ二つに分断された。
浮竹の体を避けるように、左右に分かれて地面に転がる。……もう、頭は動かない。
それを確認して、浮竹は顔を上げた。

「油断禁物だよ、浮竹」
「すまん京楽、助かった」
一体どうやってここにやってきたのか、全く気配を感じなかった。
ばさりと女物の着物を翻し、前に立った京楽は、いつもと同じ食えない笑みを浮かべている。
京楽は血で光る刃を懐紙でぬぐうと、鞘に収める。温度の無い視線を、ちらりと虚の死体に向けた。
「さて、瀞霊廷に帰ろうか、浮竹。うちの眠り姫を起こしてやらなければ」
飄々とそう言うと、軽く肩をすくめてみせた。