黒崎夏梨は、大いに退屈していた。
「ったくよ。ドコ行ったんだよ、店番もしねぇで」
浦原商店の扉を開け、しんと静まり返った店内を見回してため息をついた。そのまま帰るのも何だか癪で、軒下に佇んだまま青い傘を畳んだ。
傘の先から、水滴が滴り落ちる。外を振り返れば、しとしと雨が路面を叩いている。
しとしとしと……しとしとしとしと。
「だ―――っ! ホント、いつになったら止むんだこの雨っ!」
梅雨なのだから、しょうがない。頭では分かっていても、何かにこの怒りをぶつけないと収まらなかった。
何しろ、サッカーができない。正確には先週まで雨の中でもおかまいなしにやっていたのだが、仲間の母親に見つかって大目玉をくらったのだ。
しょうがないからジン太やウルルとゲームでもするかと来てみれば、店まで臨時休業にして不在ときたものだ。
「誰もいねぇのか? ホントに……」
家の中でも帽子をかぶっている、うさんくさい店長を思い出す。そう独り言を言った次の瞬間にも、
「何ですかァ?」
とのっそり姿を現しそうな気味悪さがある。夏梨はきょろきょろと辺りを見回したが、やがてそーっ、と足を家の中に踏み入れた。
「お邪魔しま〜す……」
前から、この家には何かあると思っていた。忍者屋敷みたいな隠し扉とか、お化けの出る部屋とか。
テレビや映画に出てきそうな何かが潜んでいる気がして、気になっていたのだ。
「? なんだ?」
いつもジン太かウルルが座っているレジ台の向こうの床に、なにやら扉のようなものが見える。
床下収納か、と思って近寄ってみると、薄明かりが下から差し込んでくるではないか。これはさっそく怪しい。
夏梨はニヤリとほくそ笑むと、そっ、と扉を上に引き上げて中を覗き込んだ。途端、驚いて扉を取り落としそうになった。
「なっんだ、こりゃ」
まず見えたのは、梯子だった。ただの梯子ではない、何十メートルもある、先が見えないほどの長さだ。
おそるおそる、床下に首を突っ込んだ夏梨は、思わずうわぁ、と悲鳴を漏らして顔を跳ね上げる。
地下には、見渡す限りの空間が広がっていた。
ごつごつした岩場で、ところどころ巨大な岩が乱立している。
そして、何を光源にしているのか、昼間のように明るかった。
―― ……地下に、なんで岩場が? 一体なんのために?
疑問が矢のように頭を駆け巡ったが、それに答えてくれる人間はその場にはいない。
普通ならこんな異様なモノを見せつけられればバタンと扉を閉め、見なかったことにするだろう。
しかし生憎、夏梨はそんな殊勝な性格をしていなかった。しばらく放心していたが、やがて顔中に笑顔が広がる。
なんだってこんな便利な空間を隠してるんだ、と思いながら。ここさえ使えれば、雨の日でもサッカーができる!
「虎穴に入らずんば虎子を得ずって言うもんな……」
使い方が違っているが、本人は気にもしていない。そのままためらいもせず、スルスルと梯子を降り出した。
「ものすっげーな、これ」
下まで降りた夏梨は、全体を見回し感嘆の声をあげた。見上げても、扉があったところが見えないくらいだ。
天井は薄ぼんやりとした白い光に覆われていて明るく、とてもじゃないが地下にある場所だとは思えない。
―― ドラゴンボールの修行場にありそうだな……これ。
そんなことを思いながら、乾いた地面を踏みしめる。10分くらい歩いた場所に……それは、突然現れた。
わぁ、空中に浮かんだ扉だぁ。
それを見てもあまり驚かなかったのは、既にこんな異常な空間にいたからだろう。
隠し扉……にしては、あまりにも目立つ。どうぞ見てやってくださいと言わんばかりだ。
3メートルはある扉が、いきなり空中にぽっかりと浮かんでいるのだから。
「よいしょっと……」
近くの岩に、扉と同じ高さまでよじ登ると、まじまじと眺めてみる。扉はぴしゃりと閉ざされているが、思い切り押せば動きそうでもある。
「ここまで来たら、開けるしかねーよな……」
食べ物があったら食べてみる、ゲームがあればやってみるのが夏梨である。そこに扉があるならば、開けるしかないではないか。
扉までは、2メートルほどの距離。思い切り助走して飛びつけば、重厚な扉の取っ手にしがみつけるかもしれない。
失敗したら3メートル近く落ちることになるが、それは考えないことにする。
「よ〜い……」
できる限り岩場の後ろに下がると、クラウチングスタートの体勢を取る。
「どんっ!」
当たって砕けろ! の勢いで、ダッシュする。そして、扉に向って飛びついた!
あやまたず、その右手が真鍮製の取っ手を掴む。全力でしがみつこうとした瞬間、思いがけないことが起った。
扉が、軽く内側に開いたのである。ドアの向こうは、墨汁を溶かしたような闇。やばい、と思う間もなく、
「えっ、あっ、あっ!?」
勢い余って、夏梨は鉄砲玉のようにドアの向こうに飛び出した。
「……なに、ここ」
真っ暗闇でほとんど何も見えないが、岩場のような堅い場所に立っているようだ。
振り返れば、自分が今くぐってきた扉と、その向こうに地下空間が見える。さすがの夏梨もしばらくはポカン、と立ち尽くしていた。
何も見なかったことにする、二度目のチャンスだっただろう。しかしやはり、黒崎夏梨は一味違っていた。
「魔法の国だ……!」
キラキラと瞳が輝きだす。この闇の中を歩いていけば、絵本や映画の中でしかお目にかかれないような、めくるめくファンタジーの世界が待っているに違いないのだ。
闇の方へ数歩歩いた、その時。ゴゴゴゴ、と地鳴りのような音が聞こえ、ぴたりと足を止めた。
「……何?」
振り向いた瞬間、夏梨はありえないものを見た。
真っ黒い溶岩のような、熱いような冷たいような、どろどろしているような硬いような、全く正体不明なものが津波のような勢いでこちらに押し寄せて来たのだ。
「なっ何だ? このドロドロネバネバした気持ち悪ぃ液体みたいな固体みたいな奴はアアアア!」
何が何だか分からないが、こいつに飲み込まれたらヤバイ、ということだけは分かった。
生まれてこの方こんなに走ったことはない必死さで、夏梨は懸命に駆けた。