※日乱小説「花の名」の番外編です。日番谷くんが大人になってます。
※雛森ファンの方注意! 雛森は既に故人です。
昨日入れたばかりだという畳は、すがすがしいほどに青々としている。
まだはっきりしている畳の目に目をやると、その上にすぅ、と小さな桜の花びらがすべってゆくのが見えた。
開け放った障子の向うは穏やかな水色の空、遠くに見える山の輪郭は春霞にかすんでいる。
家を建てる前からこの場所に生えていて、あまり見事だから残したという庭の桜は、まさに今満開だった。
桜の花の重みで、枝がしなっている姿は圧巻である。花に重みなどあるのだろうか、と乱菊が思っている間に軽やかに風が吹きぬけ、枝はふわりと揺れた。
乱菊は、その新居の中をざっと見て回った。桜を中心とした日本庭園を、三方から囲むような形で、縁側が設えられている。
まだ作られたばかりのそれは、つやつやと光を放ち、真新しい木の断面を見せている。南側の部屋に足を踏み入れると、そこは居間と台所になっていた。
普段この家の住人がすごす場所こそ日当たりのいい場所にしたい、という心遣いが見て取れ、乱菊はひとり、目を細める。
そして、居間においてあった重厚なちゃぶ台に目を留め、たおやかな掌を置いて少し、考え込んだ。その大きさは明らかに、日番谷と自分だけでは広すぎる。
日番谷と、向かいに座る自分と……そしてあまったスペースに座るだろう、まだ見ぬ家族のことを考えると、乱菊はそっと胸を押さえた。
そのままちゃぶ台に指を滑らせ、その場に腰を下ろす。こんな気分を自分が味わうことがあるなんて、夢にも思っていなかった。
甘酸っぱくて、浮き立つような気持ちが押さえても押さえても湧き上がってくるのだ。
屋敷というにはこじんまりとしていて、ただの家というには瀟洒なこの建物を日番谷と乱菊に贈ったのは、十番隊の全隊士だった。
隊長と副隊長が恋人同士などとは前代未聞、仕事を取るのか互いを取るのか決断を迫られた二人に、部下達が示した選択肢が、この場所だった。
―― 「この建物が気に入ったなら、お二人で住んでください。ただ一つ条件があります。いつまでも十番隊の隊長・副隊長でいてください」
十番隊の修練場で全員揃って頭を下げた隊士たちに、日番谷と乱菊は思わず赤面したものだった。
なんとなく二人で訪れるのが気恥ずかしくて、非番の今日、日本舞踊の稽古を終えた後に一人で訪れたのだ。
この家を見れば、どれほど隊士たちがふたりのことを考え、この家を作ってくれたのかは一目瞭然だ。
柔らかな絹のような風に誘われ、いつの間にかちゃぶ台に突っ伏したまま寝入っていたらしかった。
うとうととまどろんでいると、誰かにそっと肩を掴まれた。強い腕の力に、軽々とちゃぶ台から上半身を起される。
「ん……」
差し込んできた外からの光に眼を開けようとした時、唇がゆっくりと覆われる。
甘美な甘さが流れ込み、覚醒しかけた全身の力がまた、抜けてゆく。肩を支える腕に、力が加わった。
「……なに笑ってんだ」
口角が上がったのが分かったらしい。その声に眼を開けると、涼やかな翡翠が視界いっぱいに広がった。
「寝込みを襲うなんて、」
そっ、とその胸に手をやる。見上げた日番谷は見慣れた死覇装だった。どうやら、昼休みに隊を抜けてきたらしい。
「ダメなのかよ?」
陽光にきらきらと輝く乱菊の髪に指を滑らせながら、日番谷は彼女を見下ろす。女の髪をもてあそぶ、そんな優雅な仕草が様になる男だと改めて乱菊は思う。
絶対に拒絶されるはずがない、そんな想いを言下に含んだ声だった。そんな男の傲慢に、乱菊は微笑を返す。
「いいえ。あたしは貴方のものですから」
好きにしていいですよ。そう耳元で囁く。
言葉とは裏腹に、少しはだけた日番谷の襟元に掌を滑らせる。何度触れても、どこかヒンヤリとしていて滑らかな肌だ。
あらわになった胸元に唇を少し強く押し当てると、胸板が上下し息を漏らしたのが分かった。
白い肌に口紅の花を散らせると、乱菊は猫のような瞳を、日番谷に向ける。次の瞬間、ずっしりと重量のある日番谷の体が落ちてきた。
その重みを感じるだけで、全身に甘い痺れが駆け抜けてゆく。
そんなときの日番谷の無言が、乱菊は好きだ。しゅる、と音を立てて、乱菊の帯が緩められると同時に前へはじけた。
鮮やかな蒼の着物の裾が割れ、裏地が覗く。襟元がくつろげられると、自分の白がまぶしく外からの光りに弾けた。
素肌が外気に触れ、その冷たさに身をすくめると、なだめるように広い掌がすべってゆく。
まるで掌に彩られるように、肌が朱に染まっていくのが自分でも分かった。
切なく声を上げる乱菊の顔の上に、視線を感じる。
「なん……ですか」
裸よりも、顔を覗きこまれるのが恥ずかしくなって、乱菊は瞳を逸らす。日番谷がわずかに微笑む気配を感じた。
「乱菊」
耳元で囁かれたその一言に、甘い衝撃がじわりと全身に広がる。体の中に収めた彼を、ぎゅっと締め付けるのが自分でも分かり、乱菊は赤面した。
その一言はどんな愛撫よりも、乱菊の深奥に届いてしまう。それを自分で伝えているようなものだった。
「愛してる」
続けられた言葉は、何度でも乱菊を泣かせるのだ。
「笑ったり、泣いたり忙しい奴だな」
呆れたように云いながらも、その言葉には普段の日番谷にはない甘さが含まれている。衝動の赴くままに、きつく抱きしめあった。
***
次に目覚めたときには、夜になっていて日番谷は隣にいなかった。素肌のままの乱菊の上には乱菊の着物が掛けられていた。
烈しく求められた後、力尽きるように眠ってしまったから、日番谷がかけてくれたのだろう。
障子はぴしゃりと閉ざされ、外は満月なのだろうが明るかった。揺れる桜の輪郭が、不吉なほどに幻想的に瞳に映る。
「……電話?」
眠りを単調に揺さぶっていたものの正体に、乱菊はふっと我に返る。
居間の隅に取り付けられた電話が、さきほどからずっと鳴り続けていたのだ。
身を起こそうとした時、甘い痛みが全身を貫き、乱菊はしばらく唇をかみ締めたままでいた。
電話の音は、諦めたようにプツリと途切れ、辺りは静寂に包まれる。
部屋の時計を見ると、丁度時計の針が十二時を差そうとしていた。
そうか。今日は……
乱菊は唐突に、日番谷がいなくなっている理由に思い至る。
たしか「あの日」も、こんな風に桜が美しく咲き誇っていた。命あるものは必ず散ると、暗示するように。
桜霞の中にふわりと立ち上った煙は、涙が出るほどに頼りなく、白く。
「今日は、雛森の命日、でしたね」
そう独り言を言ったとき、再び電話が鳴り出した。
その頃。日番谷は無人の森の中を、ひそやかに歩んでいた。夜空に浮かぶ朧月のために、幹に張り付く蔦の輪郭まで見えるほどに、周囲は明るい。
庭で折り取ってきた桜の枝を数本腕に抱えていた。匂い立つような桜の香りが、折り取られた若木のあおあおとした香りと共に鼻腔をくすぐる。
ふと、日番谷は今しがた自分が出てきた家の方角を振り返る。乱菊が目覚めないうちに、彼女の元に戻らなければいけない。
そうしないと、きっと乱菊は寂しがるに違いない。
ずっと、乱菊を強い女だと思っていた。
もうはるか昔、かつての幼馴染だった市丸が瀞霊廷を裏切った時、ためらわず市丸に刃を向けたと聞いて、その想いは強くなった。
雛森に刃を向けられ、冷静さを失った自分とは大違いだと思った。
だから、初めて彼女を抱いた時、正直言って驚いたのだ。もう眠ったかと少しでも体を離すと、体を摺り寄せるように抱きついてくる。
意識があっても、眠っていても同じだった。まるで赤子が親を求めるときにも似たそのひたむきな腕の力に、日番谷は言葉をなくしたものだった。
この女はこれほどまでに寂しかったのだ。幾重もの艶やかな着物に隠された素肌の彼女は思ったよりもずっと儚く脆い。
それを目の当たりにするのが自分だけだというのなら、何があろうと自分が最後まで護り抜くと決めた。
でも。
護ってやれるのか、今の関係のままで?
護りたいという思いが強くなるほど、不安もまた錐のように心を突きあげる。
副隊長は、いざとなれば隊長を体を張って護るのが、その矜持。でも、今の自分には、到底それは受け入れられない。
自分のために乱菊が傷つくのを見るのは、耐えられそうになかった。
小さな空き地が視界に入り、日番谷は思考を打ち切った。
「……久しぶりだな、雛森」
日番谷はその場所までたどり着くと、ゆっくりとしゃがみこんだ。昼間は陽の光がさんさんと降り注ぐ、緑に抱かれたような小さな空き地。
そこに、雛森桃は眠っていた。「雛森桃」と刻まれた墓石に手を伸ばすと、かぶさった葉を払い落とす。
柔らかな苔の感触が触れ、改めて、あれから百年以上も経ったのだと、思い知らされる。
腕に抱えてきた桜の花を供えると、しばらくの間、手を合わせて瞑目した。
死んだ死神の魂は、この瀞霊廷を覆う霊子に戻るのだという。
だが、それが完全に無に帰すということなのか、この瀞霊廷の中に溶け込む全てになるということなのか、その行き先を完全に知っている者はいない。
もしかしたら、今も見えないけれど隣にいるのかもしれない。生きている間は花など一度も贈らなかったくせに似合わない、と苦笑でもしているのかもしれない。
「お前は昔、言ったよな。輪廻の先で、また俺たちは出会う。その時はずっと俺の傍にいると」
出会いやしねぇじゃねぇか、と言い捨てた自分の声が子供の頃に戻ったようで、日番谷は一人苦笑する。
あれは、最期の雛森のやさしさに過ぎないのに、まだその言葉を覚えているなんて。
雛森の代りはいない、仮にそうだという人物が現れたとしても自分は認めないだろう。
「……『姉さん』」
雛森を一度もその呼称で呼んだことはなかったけれど。でも今思えば、かすかな憧憬をも連れてきたあの少女は、日番谷にとってはやっぱり、姉に近い存在だったのだと思う。
「次は、乱菊も連れてくるよ」
そうして、自分が幸せに暮らしているのが分かれば、きっと微笑ってくれるのではないか、そんな気がした。