その時。静寂を、単調な音が遮り、日番谷はハッと顔を上げた。懐で鳴り響く伝令神機を取り出すと、耳に当てる。
「日番谷だ。どうした?」
「隊長っ、破面です!」
日番谷の言葉にかぶさるように、息せき切った隊士の声が聞こえてきた。
「落ち着け。破面の場所と数を教えろ。今誰が応戦してる?」
さっと立ち上がると、瀞霊廷内の霊圧を探った。

―― 瀞霊廷じゃねぇのか……?
近くには、破面の霊圧は感じない。そもそも、もし瀞霊廷に破面が現れていたら、とっくに気づいているはずだ。
「断界の西地区、破面の数は、今確認できる範囲で六体です! 今、松本副隊長と5班・6班が応戦しています!」
「松本、だと?」
日番谷の声が途切れた。そんな、そんなはずはない。日番谷は、自分が部屋を出た時、すやすやと頬に笑窪を浮かべながら眠っていた乱菊を思い出した。
嫌な予感が、さぁ、と背中を冷やしてゆく。

「はい、初めあの家に連絡を入れた時、松本副隊長が出られまして。自分が出るから、隊長には知らせないように、と。でももう限界です!」
ダンッ、と地を蹴る。部下が言い終わる前に、日番谷はもう駆け出していた。
今日が雛森の命日だと気づいた乱菊が、気を回したのだろうが、破面が6体もいる時点で副隊長が手に負えるレベルではない。
「とにかく、敵から距離を取れ! 俺が行くまで時間を……!」
日番谷が怒鳴った時だった。伝令神機の向うから、布を切裂くような苦しい悲鳴が聞こえた。短いその叫びはすぐに消え、隊士たちがどよめく声が聞こえてくる。

「今の――」
伝令神機を握る自分の手が、汗ばむ。他の生き物のように、震えるのが分かった。
―― 「松本副隊長っ!」
続いた悲鳴に、日番谷は歯を食いしばり、全力でその場へ向った。


***


パタタッ、と音を立て、血が滴る。ヤバイな、と足元に広がりつつある血溜まりに視線を落として、乱菊は考えた。
脇腹から腹に向って切裂かれた傷は、一歩歩くたびにギリリと痛んだ。痛みには強いつもりだったが、これでは体力が持たない。
「副隊長……!」
「下がってなさい!」
刀を手に歩み寄る破面たちは、既に異形の姿へと帰している。一体一体の力は乱菊と同等か下程度だが、乱菊以外に太刀打ちできる部下は、今ここにはいない。

「無茶です、その傷で!」
「隊長が来るまで持ちこたえればいいのよ」
自業自得だな、と心の中で呟く。破面、という時点で、本来なら日番谷に連絡を取るべきだったのだ。
ただ、今雛森とたった一人で対峙しているだろう日番谷のことを考えると、その間に割って入ることは、許されないような気がして。

「しぶとい奴だ」
ハッ、と顔を上げた時には、破面の一人が大刀を振りかぶり、乱菊の頭上から一気に切りつけていた。
帰刃した破面の身長は3メートル以上、とてもではないが、正面から受け止められるような一撃ではなかった。
飛びのこうとした乱菊の足が、血溜まりで滑る。不覚にも、地面に腰を打ちつけた。
俊敏な動きで起き上がろうとするが、ズキン、と腹の深部に広がった鈍痛に、乱菊は思わずうめき声を上げた。

「もらった!」
勝ち誇った破面の声と共に、振り下ろされる刃の音を聞いた。しかし、その言葉は途中で叫びとなって掻き消される。
「てめえはナニモンだ!」
痛みに霞む目に、黒い大きな影が破面の首元に落ちたように見えた。そう思った時、その影から白銀の閃光が迸る。
そのまま、何の抵抗もなく、更になにか喚こうとした破面の首が、落ちた。
「……え」
乱菊の上に、首を失った破面の巨体が崩れ落ちる。身動きするより前に、その影は乱菊の前に降り立ち、有無を言わさず乱菊を抱き上げた。


「隊長!」
ザッ、と隊員達の間に降り立ったその姿に、隊員たちが駆け寄った。
「……隊長」
「良かった、生きてたか」
乱菊を見下ろした日番谷の表情に安堵が広がるのを見て、乱菊はとっさに何もいえなくなる。
「……すみません、あたしが」
「いい」
駆け寄ってくる部下をザッと見渡し、重傷を負っている者がいないか確認する。うぅ、と腕の中の乱菊が呻くのを見下ろし、絶句した。

乱菊の背中を受け止めていた掌が、真っ赤に染まっていた。死覇装は黒いため傍目からは分かりづらいが、手を触れてみれば血でぐっしょりと濡れているのが分かる。こんなに深い傷で、これまで立っていられたほうが驚異なのだ。日番谷は、唇をかみ締めた。
「梶野!」
日番谷は、振り返りざまに部下に声をかける。
「すぐに松本を四番隊に連れて行け。後は俺が引き受ける」
「あ、たしは大丈夫です。戦力を割くような……」
「俺を誰だと思ってる」
乱菊は、日番谷を見上げた。その瞳は、真っ直ぐに破面たちへ向けられている。
その落ち着いた翡翠色の瞳が、内部の霊圧の高まりを受けて、発光しているかのように光度を上げていた。
こうなった時の日番谷は、敵にも味方にも止められない。氷輪丸が闇の中でも、真っ白い輝きを放った。


***


「行け!」
「はい!」
梶野が乱菊を日番谷の手から抱き取り、駆け出す。二人の背中を見送り、日番谷は乱菊の血で染まった掌を、ぐっと握りしめた。
「……結界を張れ。一匹たりとも逃がすんじゃねえぞ」
部下でさえゴクリと唾を飲むほどに、その言葉は冷たい怒りに満ちていた。



薄暗い断界の中、日番谷がゆっくりと足を進める。まるで夜道を散歩しているかのような、ゆったりとした足取りだった。
「た、助けてくれ……」
最期に生き残った破面が悲鳴をあげ、傷ついた体を引きずって背後に下がろうとする。それを、日番谷は感情のこもっていない瞳で見下ろした。
「死神の刃は、お前たちを殺すためにある訳じゃねぇ」
これまであまたの虚や破面を斬ってきた氷輪丸に眼をやり、日番谷は呟くように言う。斬って来たが、「殺した」ことは一度もなかった。
「お前たちも元は人間の魂。随分回り道したようだが、もういいだろう。通常の輪廻に戻れ」
ひゅん、と音を立てて、刃が落ちた。もはや断末魔の声も、聞こえなかった。

「あ……鮮やかです、日番谷隊長」
「怪我してる奴は他にいねぇな」
おそるおそる近寄ってきた部下達を振り返り、日番谷は問いかける。せいぜい切り傷や打撲程度だから、四番隊へ行くにも及ばない。
乱菊が身を挺して護ったのだろうと思う。その時、一散にかけて来た足音に、日番谷は眉根を寄せた。
「日番谷隊長!」
「梶野? どうした。松本に何かあったのか?」
日番谷の脳裏に、ヒヤリとしたものが駆け上がる。闇の中から現れた梶野は、どこか当惑した表情を浮かべていた。
「いえ、四番隊には無事着いたのですが……治療が始められていません」
「あ? どういうことだ?」
顔色を変えて詰め寄った日番谷に、梶野はそっと耳打ちした。

「何だって?」
日番谷の声に、部下達が顔を見合わせる。感情を露にすることがほとんどない日番谷には珍しく、動揺が明確ににじみ出た声音だったからだ。梶野が、一歩日番谷に歩み寄る。
「……隊長、早く四番隊舎へ……」
「……分かった。事後処理は任せたぞ」
わけが分からないまま、他の部下も頷く。それを見ると日番谷は身を翻した。



「はい。まだ芽生えて間もないですが、確かに兆しがあります」
「そうですか。でも、このままだと母体の命に関わりますね」
「はい。残念ですが……」
母体?
朦朧と話し声を聞いていた乱菊の思考が、ゆっくりと浮上していく。意識がはっきりすると同時に、自分を見下ろすいくつかの視線を感じた。
母体、ということは。あたしは妊娠しているのだろうか?

「乱菊さん、聞こえますか?」
卯ノ花の穏やかな声が聞こえ、乱菊は瞳を開ける。目覚めると同時に戻ってきた痛みに、うめき声を押し殺した。自分の体はどうなっているのだろうと思う。
腹部が、外側と内側からそれぞれ殴られているかのようにギリギリと痛んだ。
「卯ノ花、隊長。あたしは……」
「妊娠、一ヶ月にもまだなっていませんね。この様子だと」
痛みに突っ張った手が、何かすがるものを探すかのように伸ばされる。その乱菊の手を卯ノ花は捕らえると、乱菊の横たわるベッドの横に腰を下ろした。

「ただ、貴女の傷は緊急を要します。子供を救えば、貴女を助けることは難しいのです。私の言っていることが、わかりますか」
間断なく続く痛みが、乱菊の冷静さを奪ってゆく。
―― 「乱菊」
こんな時なのに、彼女を慈しんだときの日番谷の優しい表情を、思い出す。
「さよならを、告げられますね? 貴女は、まだ絶対に死んではなりません」
優しく、しかし断固とした言葉が卯ノ花から放たれる。もうそれしか手段はないのだと、否応でも思い知らされるほどの強さで。
その厳しさとは裏腹に、卯ノ花は乱菊の手をゆっくりと腹の上に置いた。別れを、告げろというのか。たった今、存在を知ったばかりだというのに。

「あ、た、し……」
卯ノ花が頷くと、ベッドを四番隊士たちが動かし始める。その病室の先が手術室だということが、乱菊にも分かった。
乱菊の掌の下には、何も手ごたえがない。新しい命が本当に有るのかどうか、自分の体だというのに分からない。
それでも今きっと、乱菊と同じ痛みを共有しているのだ。
その瞬間乱菊の脳裏を閃いたのは、昼間訪れたあの居間だった。二人づかいには大きすぎるちゃぶ台。
乱菊はそこに、日番谷と自分自身、そして隣で笑う子供の姿を、確かに見たのだ。

「やめてッ!」
乱菊は、重傷を負っているとは思えないほどの勢いで、ベッドから跳ね起きた。
そのまま、体を引きずるようにベッドから降りようとした彼女を、慌てて周りが引き止める。
「乱菊さん!」
「子供を、殺さないで!!」
引きとめようとした卯ノ花の腕に、乱菊はすがりつくようにして懇願した。卯ノ花は一瞬泣きそうに表情を歪めたが……やがて、厳しい表情で首を振った。
「二人とも命を落とす可能性が高いのです。そんな危険すぎる賭けはできません」
「お願い!」
乱菊が悲鳴のような声を上げたとき、強張った表情で病室に日番谷が入ってきた。


「卯ノ花隊長! 本当なんですか」
「ええ。松本副隊長は、ご懐妊されています。このままでは母子共に危険です。お子様は残念……ですが」
そこまで言った四番隊士が、顔を伏せた。日番谷が入ってきた時点で、その子供のもう一人の親は誰なのか、誰もが明確な答えを出せずにいたことがはっきりしたからだ。

「……子供を助ければ、松本は助からない。そう言っているのか」
日番谷とて狼狽しているはずなのに、それが伺えない揺らぎのない声だった。
卯ノ花が頷くと、日番谷はゆっくりと乱菊の指を卯ノ花の腕から外させ、ベッドの上へ横たわらせた。不安げな瞳を、乱菊が日番谷に向ける。
「……処置を、頼みます」
「待って!!」
乱菊は叫ぶ。腹の傷が開いたのか眼がくらむような激痛がはしったが、構っていられなかった。
「この子の親は貴方でもあるんですよ! 貴方が味方になってくれなくて、誰が……」
「……お前の命より優先できるものがあるか」
乱菊の体を押さえた日番谷の掌が、震えている。その冷静に見える表情の中に浮かんだ葛藤に、乱菊は唇を噛んだ。

「時間が……」
狼狽する四番隊士を、卯ノ花は黙って手を上げて制した。
「……この子を、見殺しにするんですかっ!」
噛み付くように乱菊が言い放った。
「お前を見殺しにしないためだ!」
紙一重の冷静さだったのだろう、日番谷が仮面をかなぐり捨てたように、怒鳴り返した。
「お前の命が第一だ。まだ顔も見てねぇ子供のことなんて……!」
その瞬間。身を乗り出した乱菊が、日番谷の頬を全力で打った。乾いた音が病室に響き、日番谷は一歩よろめく。
乱菊は傷の痛みか動揺のせいか、大きく肩で息をしていた。それでも、爛々と輝く瞳で、日番谷をにらみつけた。
「それ以上言ったら、あたしは貴方のことを、絶対に許さないわ」

無言のまま、時間だけがすぎてゆく。乱菊が横たわる布団は、既に血に濡れていた。
切れそうな糸のように張り詰めた空間に割って入ったのは、卯ノ花だった。無言のまま、乱菊に向き直る。
「……厳しく、辛い戦いになりますよ。貴女にとっても、赤ちゃんにとっても」
「はい」
乱菊は頷く。日番谷が、これほど乱菊が凛と強く見えたのは初めてだと思うほどに、その姿は冴えて見えた。
「戦っても、二人とも助からない可能性も高い。それでも、共に生きる可能性を探しますか」
乱菊は、もう一度頷く。そして、何か言いたげに唇を噛んだ日番谷を見やった。
「探します。この三人で共に生きたいですから」

卯ノ花は、その言葉に、長く重いため息を漏らした。そしてキッと顔を上げると、部下たちに短く指示する。ベッドが動き、手術室へと吸い込まれていく。
「乱菊……!」
「貴方」
乱菊は、すれ違いざまに日番谷の指を掠めるように触れた。
「祈っていてください」
その指先には、いつも乱菊が身につけているネックレスがはさまれていた。そっと掴み取った日番谷の目の前で、扉が無情に閉められた。