手術室に乱菊が入ってから、すでに七時間近い時が経過していた。
乱菊の重傷、そして妊娠の知らせは瀞霊廷を駆け巡り、夜明け前にも関わらず全ての隊舎で燈が灯る異常な状態になっていた。
ただ、誰もが息を詰めて続報を待っているのだろう、話し声はほとんど聞こえてこなかった。

京楽は、女物の着物の裾を夜風にはためかせながら、ゆっくりと四番隊舎内へ足を踏み入れた。
夜な夜なたしなんでいる酒瓶が腰にぶら下がっていない以外は、いつも通りの姿である。
真っ暗な廊下は、ところどころ行灯の燈で照らし出されている。やがて京楽は、目指す人物の姿を行灯の傍の椅子に見つけ、歩み寄る。


日番谷は椅子に深く腰掛けた体勢で深く俯き、組んだ拳を額に当てていた。その固く握りしめた拳からは、乱菊のアクセサリーが光っていた。
ちらちらと瞬く行灯の炎が、彫像のように固まったその姿の陰影を深く映し出している。
「や。日番谷くん」
日番谷の隣に立つと、声をかける。しかし返ってくる言葉は無かった。
「…………無力だ」
長い、長い沈黙の後、日番谷は呟いた。傷ついた獣のようにかすれた声だった。
「今頃気づいたのかい?」
京楽が返した言葉に、日番谷がわずかに顔を上げる。銀髪の間から、深い翡翠色の瞳が覗いた。その瞳の中に、行灯の炎が頼りなく燃えている。
「今、向うの部屋で乱菊ちゃんは生きるために戦っている。君の部下たちは事後処理に追われている。君はなにもできないかもしれないが、それでいいんだ」
「いいわけあるか……! 俺は」
「自分が万能だって思ってた? どんな時でも自分が出て行けば何とかなると? それは驕りだ」
あくまで飄々と受け答えしていた京楽の言葉が、やおら鋭さを帯びる。厳しい表情で突き放した後、少し態度をやわらかくして続けた。
「幼い頃から天才だって言われ続けた君だから、気づくのが遅れたのかもしれないけどね。弱くて一人きりじゃ満足に立てもしない、人間なんて元来そんなものさ」
「……」
日番谷は、反駁するように口を開いたが、やがて手術室のほうへ視線を向けた。ゆっくりと、その首が俯いてゆく。
「……今、思い知らされてるところだ。お前に言われるまでもねぇさ」
優しい瞳で、京楽は日番谷を見下ろした。
「己の無力さと、支えあうことの大切さを知る。そうやって、君も父親になってゆくんだ」

父親。
その響きに、日番谷は瞳を瞬かせた。初めて、不安や後悔以外の感情が、その表情を満たしてゆく。
手術室から、疲れきってはいるがホッとした歓声があがったのは、その時だった。
日番谷の表情がくしゃくしゃにゆがみ、やがて自分の腕に突っ伏すように動かなくなる。その肩を、京楽はぽんと叩いた。
「おめでとう、日番谷くん」



ゆっくりと、日番谷は病室の中に足を踏み入れた。
病室を足しげく出入りしていた四番隊士たちも、日番谷が入ってくると、何かあれば連絡をとだけ言い残して姿を消した。
いつのまにか日の出を迎えていたらしく、穏やかに差し込む春の日差しを背に、乱菊は静かに横たわっていた。
無言のまま歩み寄った日番谷は、笑みを湛えた乱菊の瞳とぶつかり、何もいえなくなる。

「……雛森の、夢を見ました」
乱菊が初めに口にした言葉は、日番谷にとってあまりにも思いがけないものだった。
まだ半分夢を見ていて、半分の意識で雛森を見ているかのような穏やかな口調で、乱菊は言葉をつなげた。
「桜を持っていましたよ、あの子。腕一杯の、満開の桜の花を。あれは、あの家にあった桜の花かしら」
ぐらり、と思考が揺れる。どこまでが現実で、どこまでが夢なのか分からない。日番谷はそっと、乱菊のベッドの前に置かれた椅子に腰掛けた。

「あの子、ただ微笑んでいました。あたし言うこといっぱいあったはずなのに、思いつかなくて。
そんなあたしの前で頭を下げたと思ったら……消えてしまいました。気づけば、意識が戻っていたんです」
「……そうか」
何も言葉を継げず、日番谷は頷くことしかできなかった。雛森に出会った乱菊も、きっとこんな気持ちだったのだろうと思う。
乱菊は、そんな日番谷を労りに満ちた瞳で見つめた。

「きっと、女の子だと思うんです」
「え?」
「あたしたちの子供」
とっさに何も返せず、口ごもる。母親は強いものだと思う。
存在を知ってからの時間は日番谷とほとんど変わらないはずなのに、何だかもう親になったような、日番谷の知らないやすらかな顔をしている。

「そしたら、『桃』ってつけていいですか?」
ね? と下から覗き込まれ、日番谷はとっさに、横たわったままの乱菊に手を伸ばした。
中空を彷徨った手は伸びてきた乱菊の手に掬い取られ、ゆっくりと彼女の腹部の上に押し付けられた。
「約束したんでしょ? 雛森と」
励ますように、続ける。
「いつか輪廻の先で、また出会うと。そしたら次は絶対に傍にいると」

日番谷が声を漏らすのを見て、乱菊は耳を疑う。深く俯いた彼がまるで嗚咽をこらえているように聞こえた。
そのままの体勢で日番谷は空いた右手を乱菊の背中に回し、強く、強く抱きしめた。
押し付けられた頬から、日番谷が涙を流しているのが伝わってくる。押さえきれない嗚咽が、病室を流れてゆく。乱菊は微笑むと、日番谷の頭をそっと抱きしめた。



飛鳥さまへ捧げます。
「大人日乱夫婦話で、ラブラブ夫婦→(熱い一夜)→ご懐妊発覚」というリクでした。
熱い? いえ、Rがつけられないほどヌルいorz すみません根性無しで……
「花の名」を気に入っていただけたということだったので、続編という形にしました。
もしかしたら、更に十万HITSの別の話に展開がつながるかもしれません。
切香より愛を込めて。

更にこの話に続きができました→ Lukia

[2009年 2月 17日(2010年6月19日改)]