※日乱小説「花の名」→十万HITS小説「17.LOOP」の続編です。日番谷くんが大人になってます。
※雛森ファンの方注意! 雛森は既に故人です。
―― 異常だ。
朽木ルキアは、あらためて目の前の景色に視線を落とした。朽木邸の百畳はある壮麗な座敷には、あまりにも不釣合いな色彩が溢れていた。
くちばしがオレンジ色の、黄色いアヒルの人形。パステルカラーのガラガラ。文字通り山と積まれたベビー服。
バネ仕掛けの人形が、瀕死の魚のようにカタカタとかすかに動いている。しかし、その場に最も不釣合いなのは、この赤ん坊用の玩具や服やその他もろもろではない。
「に……兄さま。これは一体……」
どこからこれを。どうしてこれを。何から先に問うたらいいのか分からず、ルキアは恐る恐る、隣に佇む男を見上げた。
妹の身から見てもうらやましくなるほどの艶めいた濡羽色の黒髪、漆黒の瞳、透き通るような白い肌を持つ、その威厳は押しも押されもせぬ貴族のものである。
だから尚更、この惨状(?)を目の前にして、いつもの無表情を保っている兄の意図がさっぱりつかめなかった。
「お前の姉の……緋真が生前集めていたものだ」
「えっ?」
朽木白哉は、亡妻の名前を平坦な表情で口にした。しかし兄を見慣れたルキアには、その表情がやわらいでいるのが分かる。
死して百五十年経っても猶、姉の名は白哉の心に、柔らかな風を吹かせるらしい。
「姉様が……でも、今どうしてこれを?」
姉は子供が好きだったのだろうか。この様子を見るとそうだったのだろうと思う。
しかしルキアがこの家に来てから、姉の話や、姉の遺品に触れることはほとんどない。
忘れられているのではなく、めったに表にださないほど大切にしまい込まれているように。それなのに、どうして今ごろ。そう思った時、なんだか胸騒ぎがした。
白哉はすぐには答えず、首をめぐらして縁側のほうを見やった。
「……ルキア。縁側に客人が来ている。呼んで来てくれ」
「えっ? あ、はい!」
言われるがままにルキアは腰をあげ、縁側へ足を向ける。外はまだ寒々しい冬の気配を色濃く残しているが、鈍色に沈んだ庭には、梅が純白を添えていた。
鏡のように磨き上げられた廊下を、音も立てずに摺り足で歩く。足が痺れるほど冷たい感触も、もう少ししたら春の陽に暖められることだろう。
「行くぞ!」
「やぁっ!」
縁側から聞こえてくるこの声は、朽木家の使用人の子供たちのものに違いない。乾いた、棒切れがぶつかるような音も聞こえてくる。
客人が、子供たちの相手でもしてくれているのだろうか。
廊下から縁側に、ひょいと顔を覗かせたとき、ルキアは息を飲んだ。共に10歳くらいの、着物を着た二人の少年は確かに朽木家の使用人の息子だ。
しかし問題は、二人がお手製の木刀を握り、打ちかかっている相手の男にあった。
ルキアからは、縁側に座ったその男の鈍く輝く銀髪と、死覇装をまとった広い背中しか見えない。
鞘に納めた斬魂刀の鞘を右手で掴み、木刀で打ちかかってくる少年達の攻撃を、軽くいなしていた。乾いた音が響き、頭を狙った一撃を鞘で受け止める。
「お前達! 何をしておるのだ」
思わず声を上げて縁側に飛び出すと、2人の少年が同時にルキアを振り返った。
「この死神の兄ちゃんが、稽古の相手をしてくれるって言ったからさ」
ナマイキ盛りの、毬栗(いがぐり)頭の少年がそう言って男を指差す姿に、ルキアは心持ち青ざめた。そこにいる男は、死神の兄ちゃんなどと呼ばれていい人物ではない。
「馬鹿者っ、その方は日番谷隊長だ! 無礼にもほどがあるぞ」
一瞬の、空白があった。2人の少年は、まるで示し合わせたかのように同時に目と口をぽかんと開くと、同じタイミングで座ったままの男に目をやった。
そして背中に一本棒を通したように、ピンと少年達の背筋が伸びる。
「マジで!?」
「あぁ」
ルキアに背を向けたまま短く返した日番谷の声を聞き、おや、と思う。彼の声は、こんなに穏やかだっただろうか。
「ホントか? なぁ、サインちょうだ……」
「コラ!」
毬栗頭の少年を、茶色い髪を刈り上げたもう一人の少年がたしなめる。
「すみませんでした!」
頭を下げるこちらの少年は、わずかに毬栗頭よりは年上に見える。
「構わねぇよ、戯れ事だ」
日番谷はぺこりと下げられた頭ふたつを見下ろすと、ゆったりと腰を上げた。草履を脱いで、ぬぅと縁側に上がってきたその長身に、圧倒されるような思いがする。
ひょい、と日番谷は肩越しに庭の少年達を振り返った。
「おい毬栗頭、お前は防御はなってねぇが力はある。茶髪のは逆だな。互いのいいとこ見習って、精進しろ」
護廷十三隊の隊長といえば、雲の上の存在なのだ。まして日番谷は、次期総隊長になる日も近いといわれている。そんな男に褒められ、ぱぁっと少年達の表情が輝く。
「ありがとうございました!」
何度も頭を下げて去っていく二人を見守った日番谷は、その和らいだ表情のままルキアを見やった。
日番谷の翡翠を涼しい冷静な色だと思ったことはあったが、こんなに優しい色になれるということを、ルキアは初めて知った。訳もなく胸がドキンと弾む。
「……お変わりになられましたね、日番谷隊長」
天才児と呼ばれた昔は、自分よりもはるかに小柄なその背中を、近寄りがたいと感じたものだった。
大人になって、更に威圧感が加わった。しかし、ここ数ヶ月で日番谷は薄皮を剥くように少しずつ変わった、とルキアは思う。
「何がだ?」
「表情が、やわらかくなられました」
「そうか?」
「お子様が、お生まれになるからですか?」
聞いてから、踏み込みすぎたか、と後悔する。しかし日番谷は気を悪くした風もなく、逆に微笑んだ。
「そうかもな」
あっさりと認めたその声音に、かつてはなかった、ゆったりとした余裕を感じ取る。その時思いがけず、縁側から続く座敷から艶やかな声が聞こえた。
「あたしのおかげでしょ?」
「お前じゃねぇよ」
間髪いれず日番谷が返す。その眉間に皺が寄り、いつもの日番谷の表情を取り戻す。
ルキアは座敷の中に視線を向けてすぐに、その猫のようなイタズラっぽい瞳とぶつかった。
「松本副隊長! よいのですか、出歩かれて」
いつもなら、陽光に輝く美しい黄金色の髪や、明るい青色の瞳に視線が行くところだ。
しかしルキアの視線は、柔らかな蒼い着物に包まれた、大きく膨れた腹部に向けられていた。
「えぇ。そろそろ産まれてもおかしくないけど、平気よ」
ぽん、と腹を軽く叩き、乱菊は微笑む。分厚い座布団を下にしき、ゆったりと座っていた。
「産んだら、早く仕事に復帰しないとね。ね、日番谷『隊長』?」
揶揄するように、自分の夫を見上げる。日番谷は肩をすくめた。
「どうせ復帰しても、副官席でゴロゴロ寝て菓子食うだけだろ、お前は。結構だ」
「あっ、ひど……」
言いかけた乱菊が、自分の腹を見下ろした。
「今お腹のなかでくるって回った!」
「回る?」
ルキアは思わず聞き返した。子供というのは、腹の中ではそんなに活動的なのだろうか?
「ホントか?」
日番谷がしゃがみこみ、ひょいっと乱菊の腹に耳を当てたのを見て、ルキアは思わず赤面した。
日番谷と乱菊といえば、十番隊の隊長と副隊長であるときの姿しか知らない。こんな夫婦然とした二人を目の当たりにするのは、初めてのことだったからだ。
日番谷は乱菊の腹に顔を寄せて中の気配に耳を澄ませ、乱菊はそんな日番谷の肩に掌を置き、見守るように微笑んでいる。
いつもそうやっているのだと分かるほどに、それは自然な動きだった。
その時、
「うっ!」
唐突に乱菊と日番谷がうめいた。日番谷はまるで水でも掛けられたかのように飛びのき、耳を押さえている。
「け、蹴りやがった……しかも、耳を」
「あ、あたしこそお腹を、思いっきり……内側から蹴られちゃ避けようがないわよ」
腹を押さえてうずくまる乱菊を見て、ルキアはやっと状況を理解した。
「蹴るんですか? お腹の中の赤ん坊が?」
「思ってたんだけどよ、絶対女じゃねえよ」
「女ですって」
「生まれる前から足癖悪ぃんじゃ、先が思いやられるぜ」
ぷっ、とルキアは思わず、噴出した。
「……楽しみですね」
ルキアの言葉に、ふたりが浮かべた微笑が、まるで血が繋がったきょうだいのように似ている。家族になるというのはこういうことなのだ、と少しうらやましくなる。
「兄が座敷で待っております。どうぞ」
「ああ」
頷いた日番谷が、乱菊に手を差し伸ばす。その手を取った乱菊が、手を支えに立ち上がった。
あんな風に、まるで自分の体の一部のように、他人に触れた記憶がルキアには無い。
「……やっぱり、うらやましいです」
「え? なに、朽木?」
「いいえ」
そっと廊下に落とした呟きを、ルキアは笑って打ち消した。
座敷全体に広げられたベビー用品の山を見た日番谷と乱菊は、同時に遠い目をした。
「……朽木隊長。産まれるのは一人なんだが?」
「もちろん知っている。犬猫ではないのだからな」
思わず問いかけた日番谷に、白哉は悠然として返した。
「きゃー! これかわいい!」
瞬間的にテンションが上がったのは乱菊で、大きな腹部をものともせず、大股で玩具に歩み寄ると、その中に身を沈めるようにして座った。
「これ、ホントに好きなの頂いていいんですか? 朽木隊長」
「かまわぬ。使われたほうがよいだろう」
「ありがとうございます! ねぇ朽木、これどう思う?」
やはり母親として、ベビー用品を見るのは楽しいのだろう。眼を輝かせた乱菊の横に、ルキアが座った。
「……こりゃすげえな。肩が凝りそうだ」
二人の女性の華やいだ声を聞きながら、しゃがんだ日番谷がベビー服のひとつを取り上げた。
金と蒼の糸を使った、舞鶴の精緻な刺繍が前面にほどこされたその服は、まるで王家の若君のようだ。
「赤子なら肩も凝るまい」
日番谷の素朴な感想に、白哉もまた素朴に返す。
「そういうものこそ、持って行くべきだ。兄は次期総隊長。総隊長の御子が適当な格好では済まされぬだろう」
「……俺が次期総隊長なんて、決まってもねぇことを言うなよ」
「私は賛成するつもりだ」
当然だろう、と続けられて日番谷が言葉に詰まる。なぜ、と理由を聞くのも野暮なような気がした。
「……それにしても一体、こりゃどうしたんだ。朽木家に子供がいたのは随分昔だろ?」
話題を元に戻すと、日番谷は手にした服を見下ろした。
ルキアが来たころはもう今と同じくらいの体格だったから、その前の赤ん坊となると白哉、既に何百年もの昔である。
この服も決して新しくはないが、そこまで昔のものには思えない。
「緋真が……亡妻が、な。集めていたのだ」
「子供好きだったのか?」
「それもあるが、赤子のルキアを捨てて生き延びたことを気に病んでいてな。ルキアへの想いがそうさせたのだろう」
「……しかし、なんで今頃、手放す気になったんだ?」
問いかけた日番谷だが、すぐに首を振った。
「いや、すまねぇ。余計な詮索だった」
「意外に聡いな、兄は」
白哉は、わずかに微笑したようだった。日番谷は着物には興味はないほうだが、それでも白哉の着物が最近変わったのは分かる。
まるで斎服のように白ばかり着ていた彼が、最近穏やかな深緑や淡い蒼など、彩をまとうようになった話は、聞いたことがあった。
「……兄は、どう思う? 一生離れぬ。そう誓った心すら移ろうのを、人の愚かさだと思うか?」
淡い青色の裾が、風にヒラリと揺れる。
「ルキアも、何となく察しているようだ。時折、不安そうな瞳で私を見るようになった」
日番谷は、その問いにすぐには答えず、見事な庭園を見やった。光に満ちたその庭の片隅には、見事な椿の大木が植えられている。
一輪だけ赤い花弁が残り、春先の風に揺れていた。
「……一箇所に凝り固まって離れねぇってことは、なんにしろ不健全だ。
季節が変わって花や草が移り変わっていくみたいに、人の心が移り変わるのは自然なことだと思うぜ」
「……桃から菊へ、か」
日番谷が途端に、咽(むせ)た。
「その話、長くなるのか?」
「いや?」
白哉は涼しい顔で、懐に手を入れた。
「そういえば、子供は女だという話だな。名はもう考えてあるのか」
日番谷がなんとも返事をしない間に、懐紙を取り出して日番谷の前に広げる。
「緋真は子供の名前を考えるのも好きでな、これは中でも秀逸だ。薔薇のように気品に満ちた優雅な子に育つようにという思いが込められた名だ」
それを見やった日番谷が、一目で絶句した。
「ば……薔薇子」
「すばらしい名だろう?」
「……。ちょっと、画数が多いだろ。署名するとき大変だ」
普段から事務作業に追われている日番谷らしい、遠まわしな拒絶の言葉を聞きながら、ルキアが立ち上がった。
「さすが姉さま、すばらしいセンスです!」
「……俺が凡人なのか?」
「なにか?」
「いや」
薔薇子、とルキアは口の中で呟く。
「姉さまとお揃いの名前ですね。私がその名前をもらいたい位です」
「お揃い?」
「姉の名前は、緋真。真に緋(あか)いと書きます。薔薇のイメージも、赤ではないですか?」
聞き返した日番谷に、ルキアはどこか懐かしそうな笑みを浮かべて返す。
「ルキア、みたいに意味のない言葉ではなく、私も色がある名前なら良かった」
「意味も色もあるじゃねぇか」
「え?」
不意をつかれたように、ルキアが日番谷を見る。
「ルキア、は異国の言葉で、光という意味だ。知らなかったのか?」
どくん、とルキアの心臓が、撥ねた。
「ひ……かり」
まるで初めてその言葉を聞いたかのように、繰り返す表情は無心だった。
「お前の親は、お前を光だって思ったんじゃねぇか? いい名前だと思うが」
視線を一箇所にとどめ、考え込んでしまったルキアに、白哉が歩み寄ろうとした時だった。
「……松本副隊長?」
白哉の声に、日番谷が機敏に乱菊に視線を向ける。そこには、掌を畳の上につき、冷や汗を首元に浮かべている乱菊の姿があった。
「乱菊っ!」
日番谷が声を上げて、駆け寄る。
「やっばい、これ……産まれる、かも」
「産まれるって……ここでかよ!?」
乱菊を助け起こした日番谷が、狼狽した表情で座敷を見やる。共に出産など初めての経験なのだから、平静でいられるはずがない。しかし。
「かまわぬ、ここで産んでいけ」
白哉はこともなげにそう言うと、背中を見せた。
「今産室を準備させる。使用人の数人かは、助産婦の経験もある。今準備させる」
四番隊に連れて行く、という選択肢もあるが、ここから四番隊にはそれなりに距離もある。
体を震わせて痛みに耐えている乱菊の顔を見て、日番谷は即座に決断した。