「は? 現世への滞在許可? お前が現世になんの用があると言うのかネ」
十二番隊隊長・涅マユリは、ぴしりと背筋を伸ばして目の前に立つネムを不審げに見やった。
隊首席に座り、書類を捲る手は休めないままだ。
「レースのリボンを買いに行こうと思います」
マユリは、それを言い出したのがまるで更木だとでも言うような、異様な目でネムを見やる。
「女性死神協会からの要請です。日番谷隊長を女装させるために、一人一品女性の持ち物を持ちよるようにと」
「…………バッッッッッカバカしいにもほどがあるネ」
しばしの沈黙の後、マユリは心の底からうっとうしそうな声を吐き出した。会話をしているこの時間さえ惜しい。
「どこまでヒマなんだヨ、女性死神協会はネ。そんなことしてるヒマがあったら、この私の実験を手伝って……」
ん? とマユリは視線をあさっての方向へ向けた。そして、ニヤリとほくそ笑む。
「マユリ様?」
「いや、ちょっと考え方を変えてみようじゃないかネ」
マユリは急に立ち上がると、そばの棚をガサガサとあさりだした。
「十二番隊ともあろうものが、女装にリボンを持ち寄るなど情けないと思わないのかネ。やるならばもっと本格的にやらなければならないヨ」
「……はぁ」
なぜか唐突にやる気を出したらしい隊長を、ネムは表情を変えずに見守る。
「あの小生意気なガキを、一度酷い目にあわせてやりたかったのだヨ」
そう言ってマユリが取り出したのは、小さな瓶に入った、三粒の黒い丸薬だった。
「マユリ様、これは?」
「女になる薬、だヨ。一粒で1日、二粒で1年、三粒で一生効果は続く。三粒飲ませるんだよ、分かったネ」
「そうすると、日番谷隊長は一生女性になってしまいますが。解毒薬は……?」
「作れるヨ、だが今はない。勿論それが可能なのはこの私だけだがネ。……土下座くらいでは作ってやらんネ。
百回や二百回、この私の実験台になってもらうくらいでなければ。
これで私はあのガキへの鬱憤を晴らしつつ、極上の実験台を手に入れることもできるわけだヨ」
「完璧です、マユリ様」
ネムは淡々と頷くと、小さな小瓶をマユリから受け取り、その場を後にした。
夕陽が、純白の瀞霊廷の壁を茜色に染め上げる。
山本総隊長は、窓から差し込む光に瞳を細めた。そして、目の前で背筋を伸ばし、膝を揃えて正座した少年を見返した。
「そう改まらずとも良い。正式な茶会でもないのだから」
総隊長たる自分を前に固くなるでもなく、すぐに足を崩して胡坐を掻くその姿を、好ましいと思う。
「何を笑ってるんですか? 総隊長」
「いや」
怪訝そうに眉を顰めた日番谷に、総隊長は立てたばかりの茶を差し出した。
「結構なお手前で」
「……茶の礼など、どこで覚えたのじゃ?」
礼を述べ、茶器を口に運ぶその立ち振る舞いからすると、誰かの手ほどきを受けたに違いないと思わせる。
しかし、流魂街出身の日番谷に、それを学ぶ機会はなかったはずだ。
「……流魂街の祖母の、趣味です」
「ほぉ」
思いがけない言葉に、まじまじと日番谷を見やる。
これ以上聞いてくれるなとばかりに気まずそうなその横顔が、母親のことを話す思春期の少年のようで、微笑ましくなる。
「少しくらいボロを出すかと思ったが、本当におぬしは、そつがないのう」
「それを期待してたんですか?」
「期待、というほどでもない。お主も、ちょっとは年相応に失敗したり、感情をあらわにする場面があっても良いのじゃぞ。
ましてや、今は仕事を離れておる」
日番谷はそれには答えず、わずかに首をかしげただけだった。
常にまとっている隊首羽織も死覇装もなく、すっきりとした渋めの若草色の袷に、藍色の袴を身につけた私服姿である。
腰に差してきた氷輪丸も、茶室の外に立てかけられているため、手元にはない。
明るい色を身にまとっているせいか普段の威厳は影を潜め、少年の凛々しさが匂い立つようだった。
「……例えば、どんな風に?」
素朴な返答に、総隊長は思わず破顔した。隊長職を長く務めるうち、子供らしさなど忘れてしまったかのような涼しげな顔を見返す。
ふむ、と長い顎ひげをひねる。
「そうじゃの……。例えば、軽いイタズラや嘘は子供にはつきものじゃ」
「悪戯や、嘘」
「もちろん、仕事には絡まない程度に頼むぞ」
「……難しいっスね」
その頬に、軽い苦笑が浮かぶ。その表情も大人びすぎている、と思う。
「かと言って、身を固めるような話題もお主にはまだそぐわぬしな」
何気なく切り出した話題に、日番谷ははっきりと眉をひそめた。その表情の変化に、今度は総隊長が苦笑する。
「そんな話題のために、俺を呼んだんスか?」
「どうやら、悪巧みがばれてしまったようじゃの」
ほっほ、と声を上げて笑うと、日番谷は対照的にため息をついた。そして、ぐいと胸を反らして顔を上げると、総隊長を見やった。
「そういう話なら、隊舎に戻って仕事の続きをやりますが」
「そう気を悪くするな。……まぁ、そう言うなら仕事の話は、ないでもない」
「そっちの方が、性に合います」
ずっ、と日番谷が茶を飲み下すと同時に、わずかに顔をしかめた。どうやら、味覚にはまだ合わないらしい。
「死神崩れが、最近盗賊として出没しておってな。一番隊で極秘に排除に動いているのじゃが、手を焼いておる」
「死神崩れ?」
「知ってのとおり、本人の意思での死神の脱隊は許されぬ。じゃから、行方不明となって死んだとされている者、というほうが正しいかも知れぬ」
「どうして元死神だと分かるんですか?」
「瀞霊廷に侵入してきておるからじゃ。瀞霊廷の門も、死神は排除できぬ」
「……なるほど」
日番谷は頷き、言葉を切った。死神から抜けることがあるとすれば、基本死ぬしかない。
現役でない死神は存在しない、ということだ。その建前上、瀞霊廷の排除システムは死神には一切働かない。
「実害は?」
「今のところはない。お主に話したのも、気に留めておいてくれ、という程度じゃ。ただし見知らぬ霊圧を感じたら、追ってくれ」
「はい」
日番谷は十番隊を限らず、瀞霊廷内の死神の霊圧は大抵把握している。
その気になれば、いつ誰がどこにいるのか、的確に把握することもできるほどだ(もっぱらその能力は、サボっている乱菊を捕まえるために使用されている)。
「次現れたら、捕えます」
そう言うと、日番谷は一礼して身を起こした。この後仕事をしたい訳ではなかったが、物騒な言葉を残して去って行った乱菊のことが気になっていた。
女装一式などそろえられてはかなわないから、早めに釘をさしておきたい。
「ところで日番谷隊長、今後身を固めるつもりは……」
「ねえっス」
本当にありがた迷惑だ。日番谷はもう一度ため息をつくと、立ち上がった。
***
さて、どうするか。
一番隊の門をくぐりながら、日番谷は考えていた。
死神を目指している少女で、そこそこ霊圧がある貴族を探して体験入隊を頼む、なんて無理に決まっている。
だからといって自分が女装するなんて常軌を逸している。
自分だけ女装がバレていないと思って振舞う隊長と、気づいているが必死に気づかぬフリをする部下、なんて考えるだけで泣けてくるではないか。
「……でね、隊長がでてきたら……」
外に一歩出た途端、聞きなれた副官の声が日番谷の耳に届いてきた。
いつもなら、何油売ってやがる、と首筋を引っつかむところだが、思いとどまる。何だか、嫌な予感がした。
声が聞こえてくる一番隊の裏庭に、そっと足を進める。
松の陰になっている塀の上に瞬歩で現れたとき、塀の下に何人かの女性死神達が集まっているのを見つけた。
「隊長が出てきたら、有無を言わさずコレに着替えさせるのよ」
「えぇ? でも相手は隊長ですよ。そんなことできると思えないけど……」
「絶対唖然とするから、そのスキをつくのよ」
「あたしこれも着せたい!」
「やっぱりメイド服には耳がつきものよね」
冥土? 全く意味が分からないが、嫌な予感だけはひしひしとこみ上げてくる。
ざっと声から予測するに、乱菊、七緒、やちる。他にも何人もの気配を感じる。
「で、勇音! すぐに写真を撮るのよ!」
「えー、で、でも……怒られないでしょうか」
「瀞霊廷編集部に売りつけたら、絶対金になるわよ!」
一体なにを企んでるんだコイツらは。そもそも、女装という案に至るまでの経緯が、思い切り忘れ去られてしまっている。
日番谷はそーっと首を伸ばして、彼女らに目を凝らす。そして、手に手に持っているものを目にした瞬間……
がたんっ!
「誰っ?」
突然響いた音に、その場の女性死神達全員が振り返る。音がしてきた塀の上は、無人である。
「気づかれたわ……」
乱菊が唇を噛む。
「多分十番隊舎の周りにいるわ。探すのよっ!」
乱菊の声が、周囲に響き渡った。
冗談じゃない。
絶ぇっっっ対に、冗談じゃない。
日番谷は、闇に紛れて瞬歩で移動していた。何なんだあのフリルは。何なんだあのピンク色は。
あんなものを身につけて十番隊に入るくらいなら、虚の群れに丸腰で突っ込んだほうがマシだ。
どこかに身を隠そうと思うが、気づけば十番隊のほうへと向っていた。
変に出歩くより、過ごしなれた十番隊の中に混ざってしまうのが一番目立たない方法だと思う。
―― 軽いイタズラや嘘は子供にはつきものじゃ。
総隊長がそういった言葉を思い出す。女性死神達を凍らせたら、軽いイタズラで済まされるだろうか?
はぁぁぁ、とため息をつき、十番隊の門を潜った時だった。
「日番谷隊長」
背後から投げかけられた女性の声に、びく! と日番谷の肩が揺れた。
「く……涅?」
安堵半分、不審半分で、目の前に現れた涅ネムを見返した。とりあえず、女物の服は携えていないようだ。代わりに、小瓶を手に持っていた。
「涅隊長が、日番谷隊長にいつもお世話になっているからこれをと」
「……なんだ、それ?」
「一日だけ女性になれる薬です」
一粒飲んだ場合、という説明は、マユリの指示によって省かれている。日番谷は思い切りうさんくさい表情で、ネムから小瓶を受け取った。
―― いつもお世話になってるって……何が?
嫌味に嫌味の応酬をしたとか、どさくさに紛れて十二番隊の隊士を引き抜いたとか、そんなことしか思い出さないのだが。
大体あの涅マユリが誰かに感謝するなんて、更木が性転換するくらいありえないと思う。だが、しかし。
「一日だけ、なんだな?」
「はい」
一粒だけ飲んだ場合は。
そんな事情を知るはずもなく、日番谷は小瓶の中に入った三粒の丸薬を見やる。
いっそ一日だけ女になってしまえば、いくらなんでも自分だと見抜く者はいないだろう。
手っ取り早く目的も果たせるが……涅マユリからの手土産、ということだけが信用できない。
「松本副隊長たちが、近づいていますね」
ハッ、と日番谷が顔を上げる。上げるなり、げんなりした顔になった。
普段の仕事はおそろしく遅いくせに、どうしてこんなことになると素早いのだ。
「男装の少女になるか、女装の少年になるか、ふたつにひとつですね」
なんなんだその選択肢は。日番谷は恨みがましい気持ちで、ネムと近づいてくる乱菊の気配、そして目の前に丸薬に視線をめぐらせる。
ええい飲んじまえ、と踏み切るのは案外早かった。
「……飲まれましたね、三粒とも」
きゅっ、と蓋を締めると、日番谷は無言で、ネムに空になった小瓶を返した。
「なんだ、変わらねぇじゃねえか」
痛いとか、光に包まれるとかいう反応を想像したが、変化はないようだ。掌を見下ろした時、その腕にさらりと銀色の髪が流れた。
「……え?」
腰まで伸びている、自分の銀髪を見やる。とっさに思考が追いついていない。
「もう、変わっていますよ」
ネムが懐から出した手鏡を覗き込み……日番谷は、絶句した。
「あっ、見つけましたよ隊長!」
乱菊が、十番隊の門から中へ身を躍らせる。そしてふたつの人影を見つけ、ぴたりと動きを止めた。
背中から腰へ流れる、流麗な銀のライン。夕陽の残滓に、鈍く輝いている。
透き通るような白い肌、そして闇に沈もうとしている翡翠色の瞳。銀色の睫毛が、つぶらな瞳のラインを彩っている。
「だ、れ」
少女の背後に、月が空に架かっているのが見える。それはため息を通り越して、ゾクリとするほどに美しい景色だった。
言葉を失った乱菊は、少女が腰に帯びた刀に気づいて、息を飲んだ。
「氷輪丸……?」
その睫毛が震え、桜色の唇がわずかに動く。まつもと、と読み取れた次の瞬間、その姿は掻き消えた。
時間としては、3秒もなかっただろう。とっさに何が起こったのか分からず、乱菊はその場に立ち竦む。
「あ……日番谷隊長」
ネムが首をめぐらせたのを見て、乱菊は今度こそ、素っ頓狂な声を上げた。
「なんですってぇ??」