他に思うことはたくさんあるだろうに、最初に感じたのは「重い」だった。
日番谷はそっと自室の障子を開けると、腰の刀を引き抜き部屋の中にそろりと置いた。
いつになく手にずしりと重みを感じるのは、女になって腕力がさがったからだろうか、と他人事のように推測する。
月光が差し込み始めた景色は、自分の部屋だというのに何だか落ち着かない。
すぐに出てきたのは、一回り細くなった体に合わない着物のように、「日番谷冬獅郎」の身の回りの全てのものがそぐわなかったからだ。
音を立てないように障子を閉めると、夜の廊下に滑り出す。と同時に、軽く廊下を蹴ると、近くの高楼の上まで一気に飛び上がった。
体重が軽くなったせいか、身のこなしは明らかに速くなっている。
すたっ、と欄干の上に着地すると、片膝を欄干の上についた体勢で、地面のほうを見下ろした。
見慣れたその場所は落ち着いた佇まいの庭園になっており、池には満月がぽっかりと浮かんでいた。
池にくっきりと刻まれた自分の姿に、日番谷はまじまじと見入った。
「完全に、女になってる……」
月光にけぶるように輝く銀髪が、水を思わせる滑らかさで肩を伝い、曲げた膝にまで落ちている。
翡翠色の瞳も、肌の色も男だった頃と変化はない。ただ色彩は同じでも、受ける印象は全くの別物だった。
男の時は切れ長で精悍な印象を与えた瞳も、今はつぶらに見開かれあどけなく見える。
睫毛に光が溜まっている成果、遠目には潤んでいるようだった。
―― 本当に、一日で戻るんだろうな……
勢いで薬を飲んだのは、やっぱり浅はかだっただろうか。じわじわと後悔が襲ってきた時だった。
不意に現れた漆黒の影が、背後から全身をすっぽりと包み込んだ。
「！」
日番谷は素早い動きで振り返る。
「あかんで、そんなに自分を覗き込むもんちゃう」
その独特のアクセント。紅蓮の瞳が、蛇のように日番谷を狙っていた。
口元は微笑を湛えているが、まるで威嚇行為のように心を凍らせる類のものだ。日番谷より少し暗めの銀髪が、鈍く輝いている。
「異国の御伽噺にな、水に映る自分の姿に見惚れるあまり、水仙に姿を変えた子の話があるらしいで。ナルキッソス、やったかな」
市丸ギン。相変わらず気味が悪いほどに気配を感じない男だ。
まるで覆いかぶさるような圧力を感じる。日番谷は無意識のうちに、じり、と身を引いていた。
欄干の上についた膝が落ちかけ、慌てて体勢を立て直した。
その一瞬の虚をついて、市丸が指を伸ばし、その華奢な顎をすくいあげる。
見下ろした真紅と、見上げた翡翠の瞳が真っ向からぶつかった。……と思った刹那、
市丸の懐から銀色の輝きが奔った。
「触るな」
夜の闇の中で、月光を受けた日番谷の瞳が輝いている。
「……ふん」
市丸が、亀裂のような笑みを頬に浮かべる。
日番谷が一瞬のうちに、市丸が懐に帯びていた斬魂刀「神鎗」を逆手に引き抜き、市丸の胸に刀身を突きつけたのだ。
「気に入ったわ」
日番谷の顎を捉えた指に、力が篭る。
「ほんまに、花みたいな別嬪さんやな。子供なんが惜しいわ」
「……放せ」
市丸の力なら、日番谷の顎を軽く砕いてしまうくらいの力はあるだろう。
一方、刀を突きつけている日番谷が先に市丸に斬りつけることは、いつもなら可能だ。
しかし腕力が落ちている今では心もとなかった。
「……ん？」
その時、市丸が軽く眉を顰めた。
「この霊圧、どっかで……」
まずい。無意識のうちに発していた霊圧を、慌てて引っ込めた時だった。
その場の張り詰めた雰囲気とは全く異質な声が、その場に響き渡った。
「隊長―？ 出てきてくださいよ、隊長っ！」
刹那、互いに生じた隙をついて、飛びのいたのは二人同時だった。
市丸は神鎗にかけられた日番谷の手を払い、刀を奪い返す。
日番谷は距離をあけると同時に欄干に手を掛け、夜に身を翻した。
重さがないような軽い動きで、そのまま地面に飛び降りる。その間、わずか0.5秒にも満たない早業だった。
「あれっ？ どこいってしもたん、嬢？」
もしこれが京楽や浮竹だったら、一瞬ほとばしらせた霊圧が日番谷のものだということは、ひと目で見抜かれていただろう。
市丸の目が節穴で助かった、と思う。
―― 逃げるが勝ちだ。
市丸に、女に化けていたことを知られるなんて、考えるだけでいたたまれない。
欄干から下を見下ろしているらしい市丸の視線を避け、闇にまぎれて十番隊舎の影に身を隠そうとした時だった。
「誰……！」
思わず日番谷は声を上げる。隊舎の影から、突然人影が飛び出した。
声をあげかけた日番谷の口元を掌で覆い、そのまま有無を言わせず物陰に引っ張り込まれる。
「……真田環か」
押し殺した声と共に、生暖かい息が耳元の吹きつけられる。
「ごまかそうたってムダだ。十番隊に女のガキが真田環しかいねぇのは分かってるんだ」
声を出そうとするが、背後からガッチリと口元を押さえ込まれているために身動きすら取れない。
「……ほぉ。ガキだが大した美人じゃねえか。さすが貴族だ」
好奇心を剥き出しにした視線が顔の上を這い回り、その男臭い体臭と共に、日番谷は吐き気を催させた。
ただ、感じる霊圧は、間違いようもない死神のものだ。
しかし身につけているのは死覇装ではなく、黒っぽい、あちこちがほつれた単衣だった。
大体、日番谷が顔を知らない死神はいないはずなのに、こんな男に見覚えはない。
―― 多分、間違いねぇ。
この男は、時折瀞霊廷に出没していると総隊長が言っていた「死神崩れ」だろう。
そして、身代金目当てか真田家に恨みが有るのかは知らないが、真田環を狙っている。
「真田環だな？ 間違いなければ頷け」
「……」
日番谷は男を睨み上げたが、やがて一度、頷いた。ここで否定すれば、本物の真田環に手が及ぶ恐れがある。
男はニヤリと笑い、日番谷をひっぱりあげるようにして立たせる。
「安心しな、殺しゃしねぇよ。お前の親御様がきっちり払うもん払ってくれればの話だがな」
やっぱり、身代金目当てか。日番谷は心中ため息をつく。死神といえば、恐れ多くも神職である。
それが、ただの盗賊に身を落しているとは。
「おーい？ どこ行ったんや？ 送ってってやるさかい、顔見せな」
呑気な市丸の声が聞こえてくる。高楼から降りてきたのか、その声は意外に近くから聞こえた。
「ちっ、この霊圧の高さ……隊長格だな」
日番谷の口を押さえた掌に力が篭る。一気に霊圧を高めてこの男を振り払うことはたやすい。
しかし、それをすれば市丸に確実に自分の正体がばれてしまう。押さえ込まれた力の強さに、日番谷は一度、喘いだ。
「嬢？」
市丸の声に、怪訝なものが混ざる。
「とっととずらかるか」
背後から細い胴を抱え込まれ、男が瞬歩で移動しようとしたその時。視界の隅を走った銀色の輝きに、日番谷は思わず身をすくめた。
「うぉっ？」
男が日番谷を掴んだまま、横ざまに吹っ飛ぶようにして一撃を避けた。
「何やってるんや」
抜き放った斬魂刀を無造作に肩に担いだ市丸が、二人の前に立っていた。
「ここの隊長さんは真面目なんや。敷地内で誘拐なんてしようもんなら、殺されるでやめとき」
明らかに今の一撃、かわさなければ男の命はなかっただろうに、よく言う。
それに、その隊長が、今ここで誘拐されようとしている張本人だとしたら、どんな顔をするだろう。
改めてバレるわけにはいかない、と思う。
「その子コッチへ寄こし。優しゅう言うてやるんは一回だけやで」
そう言って一歩一歩近づいてくる市丸には、警戒心などまるでない。しかし隙もまた、見事なくらい見当たらない。
笑顔を浮かべているが、次の瞬間斬りつけてきてもおかしくない、そんな相手の心を凍らせる類のものだ。
その時。
「あら？ ギン、いるの？」
思いがけないほどに近くで、乱菊の声が聞こえた。市丸がとっさに振り返る。
次の瞬間、ぐいと乱暴に引き起こされた……と思った瞬間、耳元で風が鳴った。
「ホンッマ、お前の声って気ぃ抜けるわ。また逃げられてしもたやん」
「はぁ？ いきなりウチの庭に来といて何その言い草」
市丸が振り返った先に、金色の髪を揺らせた乱菊が現れる。
怪訝そうに、その眉が顰められていた。そして、肩に担がれた斬魂刀と、殺気の残滓を見る。
「何ぶっそうなモン出してんのよ、みっともない。しまいなさいよね」
抜き身の刀を手にした市丸に、そこまで無造作な言葉を投げつけられるのは乱菊くらいのものだろう。
市丸もまた、軽くため息をついただけで、斬魂刀を鞘に納めた。
「ギン、そこにいたならアンタ……」
銀髪碧眼の少女を見なかったか。そう聞こうとした乱菊の視線が、地面を滑った一枚の紙に吸い寄せられる。
歩み寄ると、それを指先で拾い上げた。
「真田家の息女、環の身柄は預かった。身代金一億環用意しなければ、命は保証しない……はぁ？」
読み上げながら、乱菊の声が裏返る。ありえない、という思いがまず頭をよぎった。
真田環は未だに十番隊には入隊していないはず。なのになぜ十番隊に、このような書置きがあるのだ？
乱菊は怪訝そうに市丸を見上げた。
「あんた、逃げられたって言ってたわよね、今。何がいたの？」
「何って」
市丸は軽く肩をすくめた。
「山賊みたいなダサい恰好したオッサンがな、銀髪碧眼のそれはそれは可愛ぇ子をかっさらうとこや」
「……はぃっ？」
硬直する乱菊の後ろから、市丸が紙をひょいと覗き込む。
「ふぅん。真田環っていう貴族の子やったんや。どうりでそんな雰囲気したわ」
市丸の声を聞きながら、乱菊はクラリとした。市丸の目が節穴だ、ということはどうだっていい。
さらわれたのは状況的に日番谷に違いないことが重要だ。それに日番谷の意図が理解できないほど、つきあいが短いわけではない。
環が狙われていると知って、彼女に累が及ばないように自分が誘拐されたのだろう。
その場で振り払うことは簡単なはずなのにそれをしなかったのは、市丸に正体をばらしたくなかったからに違いない。
「あんた、本当にヤなところで出てくる男よね」
「はぁ？ ケンカ売っとるんか」
「そんなにヒマじゃないわ」
ばさりと切り捨てると、乱菊は目まぐるしく考える。とにかく目の前のこの男は、この件から引かせたほうがよさそうだ。
「真田環は、十番隊に入隊予定の子よ。だから、隊長とあたしで助け出すから」
「……なんやねん、急にやる気出して。どういう風の吹き回しや」
余計な詮索を……自分の普段の不真面目さを棚に上げて、乱菊は憤る。
市丸は首をめぐらして、巨大な黒い影に見える十番隊の隊舎を見渡した。
「大体、隊長さんが出てこーへんやん。この騒ぎを感じ取れんはずがあらへん。ってことは、近くにはおらんのちゃうん？」
全く的外れだが、ある意味正しい指摘に、乱菊がぐっと言葉に詰まる。ずい、と市丸が身を乗り出した。
「あのオッサン、ボクの初めの一撃かわしよった。雑魚ちゃうで」
「あたしが遅れを取るっていうの？ そんな死神でもない奴……」
そこまで言いかけて、乱菊が黙った。流魂街ならいざ知らず、ここは瀞霊廷である。
死神や貴族以外は、ここへ入り込むこともできないはずだ。
「ありゃ死神やで。間違いないわ」
市丸は、さほど深刻そうでもなく断じた。
―― どうしよう。
身内にさえ全く気配を感じさせない市丸の初撃をかわす……それをやれ、といわれたら乱菊だって心もとない。
現に、一対一では負けるかもしれないと警告されているのは分かった。
しかし、浚われたのは日番谷なのだ。その気になれば、勝手に振り払って帰ってきそうなものだが……
「乗り込む気か？」
そうだとも違うとも言えず乱菊は言葉に詰まったが、市丸はそれを肯定と取ったようだった。
「しょうがないな。ボクが一緒に行ったるわ」
ある意味、それが一番泥沼化しそうなのだが、乱菊の思惑を他所に市丸はそう断言した。
