それから、10分後。辺りは静寂に包まれていた。
「こ、こいつ……」
「まさか。相手になる思とったんか? あんたも昔は死神やったんなら、隊長の強さくらい当然、分かっとるやろ」
ひゅっ、と市丸は鞘に収めたままの刃を空中で一閃させた。
鞘にまとわりついた血が、地面に点々と散り落ちる。
地面には、うめき声をたてた野盗たちが意識不明に転がっていた。

「神鎗のサビにする気もおきんわ、こんな雑魚。でもまぁ……」
長身が、全身にふくれあがった殺気のせいで更に大きく見える。
市丸は大股でゆったりと、日番谷を抱えた男に歩み寄りながら、無造作に鞘を地面に放り投げた。
白々と輝く刃が、闇の中に浮き上がっていた。
「あんたやったら、10秒やそこら相手にしてやらんでも、ないで」
人質の少女のことは、一言も触れなかった。
返しても返さなくても命はないと、遠まわしに宣言しているのも同じだった。
乱菊が固唾を呑んで、二人の男のやり取りを見守っている。


「……あんた。逃げれば?」
腕の中で呟いた声に、男は視線を腕の中に落す。銀髪の少女が、翡翠色の瞳で男を見上げていた。
「勘違いするな。一緒に斬られるのはゴメンだって言ってる」
「……ホント、変なお嬢様だな、お前は!」
「なに……ぅわっ!」
思わず日番谷は、声を上げていた。
男が日番谷の小さな体を、腕に一気に抱え上げたからだ。

「た……!」
乱菊が思わず声を漏らして、足を踏み出す。市丸がいぶかしげに振り返った。
「た?」
「た? た……いへんだって言ってんのよ! あんた何ボーッと……」
乱菊の姿と言葉が、ブツッと視界から途切れる。
そう日番谷が思った時には、ひゅうひゅうと風が耳元で鳴っていた。
―― さすが元死神だ、瞬歩も使えんのかよ……
この調子では市丸がそこまで必死に追ってくるとは思えないし、乱菊だって追いつくには時間がかかるだろう。

さて、どうするか。
日番谷がそう思った時、がくん、と急にスピードが落ちた。
「誰かいるのか!」
男は足を止め、地面に砂埃を立てて、止まった。
辺りを見回せば、瀞霊廷の麓である。
荘厳な建物が、夜目にぼんやりと浮かび上がっていた。
―― なんだ?
日番谷にも、男が足を止めた理由はすぐに分かった。すぐ近くに、霊圧を感じる。
しかも、市丸には桁違いに落ちるものの、見過ごせないだけの存在感はある。



「……こんな綺麗な晩に人攫いなどと。風流を解さぬ男だ」
響いたのは、この上なく固い言葉遣いに、この上なく柔らかな少女の声音。
華奢な黒いブーツが、カッ、と音を立てて石畳を蹴った。
―― 女……っつーか、子供じゃねぇか……
その声から受けた印象は、間違いではなかった。
愛らしいアジサイの柄の着物は、闇の中でも桃色から青へのグラデーションだと分かる。
臙脂色の袴を履いていた。黒髪が、闇の中に溶ける。
日番谷よりも身長は高いが、外見から言えば12・3歳程度。まだ、子供だ。

その姿を認めると同時に、男は息をつき、日番谷は逆に体を強張らせた。
―― なんだ、コイツ……
確かに、霊圧は日番谷や市丸、乱菊の比ではない。
それでも、日番谷をゾクリとさせたのは、その霊圧のもつ気配だった。
その底冷えがするような霊圧は、どこか市丸を思い起こさせた。


「なんだガキか! 脅かしやがって」
眉を潜めた日番谷とは逆に、男は一歩足を踏み出す。
「確かに子供だが、だから何だ」
少女は、腰の刀をスラリと引き抜き、音もなく一歩進み出る。純白の輝きが刃から漏れた。

男は零れた刃に表情を険しくしたが、その態度には余裕が透けて見える。
ぐい、と日番谷の肩を自分の方に押し付け、睨み返した。
「ハッ、その年で斬魂刀を持ってるとは、大したモンだがな。ガキがガキを助けようたぁ、英雄気取りかよ?」
「……ガキ?」
少女の瞳が、胡乱に細められる。そして、硬質な漆黒の瞳が、日番谷を捉えた。
「そのお方は、貴様が軽々しく手を触れていいような方ではない!」
「そりゃ、お貴族様だからな。何だお前、コイツを知っているとは、真田家の縁の者か?」

―― どういうことだ?
二人のやり取りに、日番谷は心中首を捻った。
自分のことを真田環だと思い込んでいるこの男が、この少女を真田家の関係者だと想像するのは自然だろう。
おかしいのはこの少女だ。
正体を知っている乱菊と涅ネム以外は、今の自分が何者か見抜ける者はいないはずなのに。

「だったら話は早ぇ。真田環を傷つけられたくなけりゃ、通すんだな。ガキを相手にするほど、ヒマじゃねぇんでな」
日番谷の疑問を他所に、男は日番谷の首筋に刀を突きつける。
少女はその言葉に、はっきりと分かるほどに眉を顰めた。
「貴様、何を言っている? 真田環と言ったのか?」
「あ? こいつが貴族だって知ってんだろ? てめぇ、真田の者じゃねぇのか」
「何を言っているのか分からぬ」
少女はあどけない外見とは裏腹に、にべもなく男の言葉を一蹴した。
「真田環は俺だ」

「……は?」
次の瞬間、重なったのは日番谷と男の声だった。
「その方を放せ」
ずい、と一歩進み出た少女……いや、「真田環」が、男に刀を突きつける。
「え? あ? その方って……てめぇ、誰だ!!」
「あ? いや……」
狼狽しきった男に喚かれ、日番谷も思わず口ごもった。
こいつが真田環なのか? まさか、当人が偽者を助けに現れるとは、さすがに想定外だった。

それに……あまりにも母親と違いすぎる。
あどけない丸顔の少女と、逆三角形の顔を持つ母親。
自分のことを「俺」と言い、夜更けに出歩いている娘をどう思っているのだろうか。
そう考えて、日番谷は雑念を頭から振り払った。
そんなことはどうでもいい。

「問答無用!」
攻撃的なのは母親譲りなのか、環が更に一歩踏み出した。
そして斬魂刀の切っ先を天空に向ける。朗々と響く声で続けた。
「朧たること幻の如く。鋭たること刃の如く。光臨せよ……月読(つくよみ)」

環の刃を覆った霊圧に、日番谷は目を細める。
その底が見えない不気味な気配……ますます、気に食わない男、市丸を思い出させる。
隊長として数多くの部下に接しているが、その刀の力を知りたいと思うのは久しぶりだった。

「なるほど」
男は、ニヤリと笑う。しかし、その表情は明らかに強張っていた。
「何が何だか分からねぇが。てめぇがガキの皮かぶった狸だってことはよく分かったぜ」
言い終わるが早いか、男は陣風の勢いで環に斬りつけた。
重量は言うまでもなく、圧倒的に男が上。環は表情も変えずにそれを見守った。

危ねぇ!
日番谷が声をあげようとした瞬間、環の姿が陽炎のように霞んだ。
と思った時には、その姿は掻き消えた。まるで、炎を吹き消したかのように。
「何っ?」
男が声を上げた直後、振りかぶった刃が環のいた場所を薙ぐ。

「貴様に俺を捉えることはできぬ」
ふっ、と消えた時と同じように一瞬で、環が姿を現した。
―― これは……瞬歩の一種か?
普通の瞬歩はもっと鋭角的な動きだが、見た目こそ違えど本質は同じだ。

「瞬歩かよ。だがな。そいつは疲れやすいんだ。どこまで持つかな」
男は言うが早いか、矢継ぎ早に刃を繰り出した。
環はその度姿を消し、攻撃を交わす。
「逃げ回ってばかりじゃ、俺は殺せねぇぞ!」
男がそう言ったとき、ざっ、と足音を立てて環が足を止めた。

「それもそうだ」
刃を、水平に構える。「月読」と呼ばれた斬魂刀の光が増し、息を詰めて見守っていた日番谷の目には、その刃が二つにブレたように見えた。
「……なにっ?」
日番谷は、思わず声を上げる。三日月の形をした光芒が、刃から放たれたのだ。
朧なその光芒は、闇の中をかすめ、真っ直ぐに男へと向かう。
そのスピード、男の目には、ただの閃光にしか映らなかったかもしれない。

次の瞬間、悲鳴を上げたのは男だった。それと同時に、鮮血が宙を舞う。
日番谷を捕まえていた左腕が、だらりと肩から垂れ下がっている。
その二の腕はざっくりと斬られ、骨まで達しているかと思われた。
環が、ひゅん、と無造作に、再び刃を振り下ろす。
コンマ数秒あけて、背後にあった一抱えはある木の幹が、音もなく吹き飛ばされた。
「投降しろ。さもなければ次は胴体を狙う」

―― 一種の鎌鼬か?
触れたものは、木でさえ一瞬で斬り飛ばすその威力、切れ味。加えて、そのスピード。
「ガキのお遊びにしちゃ、過ぎた玩具だな」
血が噴出した傷口を押さえながら、男がうめく。

「逃げられんぞ」
環が「月読」をもう一度構える。光芒に照らされた彼女の顔は、人形のように無表情だった。
ぎり、と男が唇を噛み締める。そして、突然日番谷の首筋にその刃を突きつけた。
「ふざけんな、ガキがぁ! いい気になりやがって!」
激昂したその男の刃が、首元に吸い込まれる……日番谷が目を見開いた時。
「俺の隊長に、何をするっ!」
環の声が闇を引き裂いた。

「た……!?」
男が日番谷を見下ろして目を剥くのと、
急に止まれないその刃が日番谷の首を真っ直ぐに狙うのと、
環がまっすぐに突っ込んでくるのは、ほぼ同時だった。


「……」
ざっ、と音を立てて、環のブーツの踵が地面に食い込んで、止まった。
「……お前。まさか」
男が、見下ろしたまま、絶句する。
「ったく……」
舌打ちしたのは、鈴を鳴らすような少女の声。銀髪がさらりと闇に流れる。
「結局、こうなんのかよ」
日番谷は、とっさに引き抜いた男の鞘で、刃を頭上で受け止めていた。
白刃の向うで、翡翠色の大きな瞳がきつく細められる。

「往生しろっ!」
日番谷は一瞬で、男の刃を上空に弾き返した。
勢いでのけぞった男の腹に、鞘の先を思い切りつきこむ。
くぐもった悲鳴を上げ、男の体がいとも簡単に背後に吹っ飛んだ。
背後にあった岩にその巨体がぶつかり、意思の力を失ってずるずるとくず折れる。
その間、わずか10秒にも満たなかった。

男が完全に意識を手放しているのを見届けて、日番谷は鞘を手放した。
カラン、と音がした向こうで、環が一歩、日番谷に向って歩み寄る。
「……初めまして。わたくしの名前は、真田環と申します」
さっきまでの男そのものの言葉遣いが嘘のように、はっきりとした声音で口に出すと、優雅に頭を下げた。
顔をあげた時には、少しはにかんだ笑顔を浮かべていた。

一瞬開きかけた口を閉ざした日番谷だが、やがて諦めたかのように、再度口を開く。
「……日番谷冬獅郎だ」
でも、どういうことなんだ。
そう聞こうとした時、日番谷は近づいてきた霊圧に、顔を上げた。