「隊長っ!! ご無事ですか」
聞きなれた声に、日番谷は顔を上げる。
すぐ上空に気配が現れた、と思った瞬間、金色の髪が闇の中で揺れる。
日番谷と環の間に、息せき切った乱菊が着地した。
「松本……」
しかし返した声は、明らかに「彼」ではなく「彼女」である。
その姿をまじまじと見た乱菊は、それはそれは長いため息をついた。

「……隊長。何か辛いことがあったのかもしれませんが、だからってホンモノの女にならなくても」
「辛いこと、か。あったような気がするぜ」
自分を棚にあげやがって。ピクリと日番谷がこめかみを震わせる。
「誰かさんが俺に、冥土服だかなんだか、とんでもねぇ服をお仕着せようとしてた、とかな」
「冥土!? あぁ、メイド服ですね。今の隊長なら、きっと萌え萌えですよ♪」
「うるせえ黙れ」

ふん、と日番谷はソッポを向く。
「大体、一日で元の姿に戻るんだ。問題はねぇだろ」
「えっ?」
乱菊が目を見開くが、やがて気まずそうに視線を泳がせる。
「そう言われてたんですか……そりゃそうですね、本当のこと聞かされてたら、飲むわけないですよね、隊長が」
「あ? 小声で何言ってんだ、聞こえねぇぞ」
「あー、いえいえいいんです。ていうか隊長、女の姿似合ってますよねー。なんか令嬢って感じ♪ ずーっとそのままでも全然……」
「あぁ? 何とってつけたように言ってんだ。大体、令嬢なら間に合ってる」
くい、と日番谷が顎で指した先に、刀を鞘に納めた環が立っていた。

「……お初にお目にかかります、松本乱菊副隊長。真田環と申します」
ま、の形に乱菊の口が開かれた。
「ま……まーまーまー、キレイな子ね! あーんなお母さんに似なくて……ムッ」
途中で、無言で見上げた日番谷の視線に、言葉を止める。
「ていうか、何でここに? この子が?」
「……助けられたんだよ」
気まずそうに、日番谷が呟く。乱菊はまた「ま」の口のまま固まったが、やがて大爆笑した。
「何がそんなに面白ぇんだ!」
「これは可笑しいですよ。砕蜂隊長でもネムでも笑いますって。オケラだってカエルだって笑います」
さりげなく隊長格とオケラを並列にならべたのかこの女は。
向こう脛でも蹴っ飛ばしてやろうと日番谷が歩み寄った時、ピタリと動きを止めた。
そして、二人同時に上空を見上げる。

「……ギンもこっち来ますね。興味が失せて帰るかと思ったけど、意外と律儀ですね」
「市丸はお前が心配なだけだろ」
えっ、と言葉を途切れさせた乱菊を、見上げる。
「松本、命令だ」
「はい?」
「市丸をここで足止めしろ」
ここで市丸が来て、説明しろなんて言われた日には目も当てられない。
あの男の前で失態をやらかしたら、きっと一年や二年はそれをネタにされ続けるだろう。
冗談じゃない。

乱菊の返事より先に、日番谷は瞬歩で姿を消す。
「えっ? 日番谷、たい……」
目の前に突如現れた日番谷に、環は目を見開いてのけぞった。その右の手首を、日番谷が握る。
「失礼」
ふっ、と二人の姿が同時に掻き消えた。
「えっ、ちょっ、隊長!!」
乱菊の声は、空しく闇に響いただけだった。




夜の風が、耳もとで鳴る。
環がついてこれるようスピードを落していても、瞬歩を何回か使うと、瀞霊廷の門が見えてきた。
児丹坊が、顎が外れそうに大きな欠伸をしながら、西門の前に突っ立っているのが見える。
「通るぞ」
耳元で短くそう言うと、その巨大な肩をトンッと蹴る。
「ん? あぁ、冬獅郎かぁ?」
児丹坊が振り返ったときには、その姿はもう瀞霊廷の中に消えていた。

どこかへ逃げようなどとは、初めから考えていなかった。
市丸の目が届かない場所まで避難しようと思っただけだ。
一番隊舎の真上まで来た時、今まで大人しく従っていた環が、わずかに手を引いたのが、握った手首を通して伝わってきた。
疲れたのか、と思い、日番谷は一番隊舎の屋根の上に、環とともに着地する。
わざわざ一番隊の上に来る輩もいないため、ある意味絶好の隠れ場所でもあった。
ここまで来れば、市丸も追ってこないだろう。
日番谷は、環を振り返った。

「……どうした」
わずかに身長が高い環を見上げると、漆黒の瞳が逸らされる。
「……いいえ、何でもありません」
さっきまで男勝りに敵を追い詰めていたのと同一人物とは思えないほど、弱気な声に聞こえる。
いや、「弱気」なのではない。闇のせいではっきりと表情はわからないが、その口調は、恥らっているようにも、はにかんでいるようにも聞こえる。
それに気づいて、日番谷は内心ギクリとした。
真田環について、数日前に雛森から聞いた噂話を思い出していた。


***


一週間ほど前。
ネタを持ってきたのは、日番谷をウンザリさせるほどに恋愛談義が好きな雛森だった。
その日も、死神の誰と誰が似合いだとか、毒にも薬にもならない雑談を続けていたのだ。
―― 「なーによ、シロちゃん! 生返事ばっかりで。こっち見てよ」
頬を膨らませた雛森を、日番谷は睨み付けた。
―― 「な……何よ」
―― 「雛森副隊長。質問なんだが」
ゴリゴリと力任せに墨をすりながら、続ける。
―― 「ヒトがせっかく松本がいないから集中できると思ってんのに、わざわざそんなくだらねぇ話を、俺に聞かせるのはなんでだ?」
―― 「何でって、別に……」
―― 「一言で言うとこういうことだ。『他所でやれ』」

それきり仕事に没頭してしまった日番谷の机の前に、雛森が歩み寄る。
机に差した影に気づき、手を止めた日番谷の目の前に、懐中時計を示して見せた。
―― 「これ見てよ」
―― 「時計だが」
―― 「定時すぎてるって言ってるのよ! もぅ日番谷くん、働きすぎ! 仕事よりも大切なことってあるよ」
―― 「……お前のその、くだらねぇ恋愛話がか?」
―― 「そうよ!」
雛森は無駄に力強く言い切ると、ズイ、と日番谷に顔を寄せた。
その近すぎる、下手したら鼻先が触れ合いそうな距離に、日番谷はのけぞる。

―― 「おいお前、近すぎ……」
―― 「好きです」
―― 「……」
椅子の背もたれに背中をもたせかけ、思いっきりのけぞった体勢で固まった日番谷は、たっぷり五秒は沈黙した。
そして、更に五秒後。雛森の爆笑によって沈黙は破られた。

―― 「冗談に決まってるでしょ? やーだ、今の顔」
―― 「て・め・え……」
がたん、と日番谷は椅子を倒す勢いで立ち上がった。
―― 「ヒトに恥かかして面白いか?」
―― 「そう、それよ」
日番谷の怒りに毛ほども気づいていない表情で、雛森が日番谷の鼻先に指を突きつけた。
―― 「それって何が!!」
―― 「いい男の条件は、仕事ができることとか、頭がいいこととか、強いことだけじゃないの。
女の子に怖気づかないようにならなきゃだめよ。免疫つけなきゃ」
―― 「怖気づくって誰……」
言いかけた日番谷の言葉は、途中で途切れた。
たっぷり十秒沈黙しておいた直後では、あまりに分が悪い。

―― 「いーんだよ、俺はそういうのは」
―― 「まだ子供だから、とか言うつもり? いつも俺は子供じゃねぇって言ってるくせに?」
―― 「ぐっ……」
―― 「日番谷くんのこと、大好きな女の子がいるって言っても?」
あのなぁ。日番谷は、雛森から目をそらしてため息をついた。
なんだって、次から次へと爆弾を投下してくれるんだ。俺に恨みでもあるのか、コイツ?

―― 「興味ねー」
―― 「真田環、大貴族のご息女よ。お目が高いって思っちゃった! お姉ちゃんの欲目かしら」
―― 「俺に姉貴はいねぇ。お前、その妄想癖なんとかしろ」
―― 「でねでね、その子、真央霊術院、今年首席で卒業してるのよ。で、十番隊志望だって!」
―― 「首席だろうが、現役の死神にはそうそう通用しねぇよ……」
―― 「あらぁ? 実力を疑ってるの? 元・首席君」
―― 「あのなぁ……」
―― 「入隊、OKするんでしょ? 十番隊は来る者拒まずだもんね。かわいがってあげてね♪」
話がそこまで至るころには、日番谷は突っ伏していた。
自分が心から興味がない、全くない、本当にない、と訴えているのに。
全く空気を読もうとしないんだこの女は。
それより、いつの間にか会話につきあってしまっている自分が釈然としなかったりする。

―― 「もうお前、帰れ……」
―― 「どーしたの、なんかぐったりしちゃって」
手を伸ばしてきた雛森の手を掴み、ぐい、と押し返す。
―― 「ハーイ、今の減点1。女の子の手をいきなり握らないの! 特に自分に好意がある子にはしちゃダメ」
―― 「誰が女の手なんか握るかよ!」
―― 「何か、意識せずにしちゃいそうよね、日番谷くんて」
―― 「……帰ってクダサイ、頼むから」


***


「……」
日番谷は、そっ、と環の手を放した。
敵だったら、ぶっ倒せばいい。
張り合ってくるライバルなら、追い越せばいい。
でも、好意を寄せられたらどうすればいいんだ?
未知なる敵(?)との遭遇に、日番谷は顔を引きつらせた。

「え……と。何で、あの場にいたんだ?」
ひきつり、たじろぎ、迷った挙句に日番谷が口にしたのは、色恋に発展する懸念がない、無難な問いだった。
軽く俯いていた環は、ハッと我に返ったかのように顔を上げる。
「日番谷隊長の霊圧が、急に小さくて……何だか、少し質が変わったみたいに思えて、気になって追ってまいりました」
「……それに、気づいたのか?」
日番谷は動揺していたのも忘れ、聞き返す。
市丸でさえ、目の前にいても尚、日番谷だと気づかなかったというのに。

こくり、と少女は頷いた。
「霊圧探査は、私の最も得意とするところです。それに」
環はそこまで言うと、暗くても分かるくらいに頬を染めた。
「隊長の霊圧は、いつも遠くから感じていましたから」
覚悟を決めたようにまっすぐに見つめ返され、日番谷は頭を掻いた。
この質問は、どうやら失敗だったようだ。
というか、どの話題を振ろうが、最終的にはそっちに話を持っていかれそうな気がする。

「……あの。私からもお伺いしてよろしいでしょうか」
「……何だ」
「女性のお姿をされているのは、ご趣味ですか?」
「……あっ」
忘れていた。自分が今女の姿だということを、完全に忘れていた。
ていうか、趣味って。
「絶対に違う!! ばれたら大は……」
言いかけた時、ゴーン、と遠くで鐘が鳴り、日番谷は言葉を止めた。
日が変わる深夜0時に鳴り響く時報である。
「……大恥だ」
言い直した時、日番谷はふと違和感を感じた。
声が、低い。自分の声は、こんなだっただろうか。

「あ!」
その時、環が令嬢に似合わぬ大きな声を出して、日番谷を穴が開くほど見つめた。
「何……」
何気なく頭をさわって、日番谷は動きを止める。
さっきまでさらりと背中に流れていた銀髪が、短くなっている。
「おい! 俺男に戻ってるか!?」
がし! と環の右肩を掴み、尋ねる。環が身じろぐほどの剣幕だった。
「は……はい」
「戻ってるんだな! 男に!」
コクリ、と頷くと、日番谷は肩全体で大きくため息をついた。

「効力が1日って、薬を飲んでから、日が変わるまでの『一日』かよ……適当なこと言いやがって」
でも、何はともあれ、戻ってよかった。
もしかしたら、効力が一日じゃなかったらどうしよう、という懸念も、頭の片隅にくすぶっていたからだ。
「……あ、あの。日番谷隊長」
「ん?」
見返せば、驚くほど近くに環の顔があった。日番谷と目をあわすと同時に、慌てて伏せてしまう。
「……すまん」
俺はこんなに学習能力がなかったのか。
自分自身に絶句しつつ、日番谷は環の肩に置いた手をそっと放した。

「あ、あの。どうして、女性の姿に、薬を飲んでまで……」
落ちた沈黙を埋めてくれようとしたのだろうか、環が日番谷を見返す。
そういえば、一体なんでだっただろう。
あまりに色々起こりすぎて、きっかけをすっかり忘れていた。

一瞬考えた日番谷だが、環の顔を見て、頷く。
そうだ。この少女が、十番隊に入隊してうまくやっていけるか。それを調べるためだったのだ。
さきほど、野盗の男相手の立ち回りを思い出す。
取り付く島もない会話、そしてその後の、一部の甘さもない戦いっぷりを。
ドSだ。野盗の方が人情家に思えてくるくらいだ。
市丸2世だったらどうしよう、と思う。
それなのに、日番谷の前では、人が変わったかのようにはにかんだりしている。
もしかして、他の隊では面倒みきれないからウチに、という話の流れだったんじゃないか、と日番谷はその瞬間疑った。

「……まぁ、結果的に、目的は果たしたわけか」
「はい?」
十番隊でこの少女が溶け込めないかもしれない、なんて、いらない心配らしい。
というよりも、危ないのは他の十番隊士かもしれない。

「あの、一体……」
「いいから、帰って寝て、体調を万全にしとけ。十番隊は厳しいぞ」
それだけ言って、くるりと背中を向ける。なんだか、とても疲れていて自分のほうが休みたかった。
「……おい?」
背後の気配が微動だにせず、日番谷は振り返る。
そして、目を見開いたまま固まっている環と目が合った。
「入隊……できるんですか?」
頷くと。
環は、まるで普通の少女のように、両手を打ち合わせて笑った。
「ありがとうございますっ!!」