その日、一護は五番隊を手伝い、流魂街に出没したという虚を倒しに出かけていた。
「黒崎殿っ! 危険です、たった一人では……」
「かまわねーよ。アンタたちは、退がっててくれ」
一護は斬月を片手にだらりとぶら下げると、居並ぶ五番隊士たちの前に足を踏み出した。そして、前に立ちはだかる虚と対峙する。
体長は3メートルほどで、巨大な熊を思わせる漆黒の剛毛に覆われ、鋭い爪と牙を光らせ、爛々と輝く瞳を背後に向けている。
虚に睨みすえられ、周囲を遠巻きにした流魂街の住人達がヒッと息を飲むのが聞こえてくる。
その声は否応なしに、ここが流魂街の真っ只中なのだということを一護に思い出させた。
―― たく、こんな住宅地に出るんじゃねぇよ……
一護は心中、ぼやく。周囲には、粗末な平屋が建ち並んでいる。
五番隊士たちが何とか虚を建物のない広場まで追い込んだものの、そこからこう着状態が続いていた。

地響きを立てて、虚が一歩踏み出してくる。一護は体をさっと開き、虚に向き直った。
虚は一護のことなど気づかないように昂然と、二歩、三歩と歩いてくる。
一護が体勢を低くすると同時に、右手に握りしめた斬月の刀身に、ギラリと光が渡る。
その光に気づいたか、虚がぴたりと動きを止め一護に目を据える。獣そのもののように、足に力が入ってゆくのが傍目からも分かった。
大きく吼えた瞬間、一護は斬月を大きく横に振りかぶった。
「危ないっ!」
井上織姫の声が高く鋭く響いたときには、一護は一足飛びに前に飛び出していた。
一刀両断、斬月はまるで大木でも切り倒すようにあっさりと、虚の体を肩口から断ち切っていた。
数秒おいて、その体が煙のように掻き消える。一瞬の静けさの後、辺りに歓声が広がった。


「あの兄ちゃん、すげぇ!」
遠巻きにしていた流魂街の住人達が、どこにこれほどの人数が隠れていたのだと思うほど一斉に、広場に集まってくる。
「あんた、どこの隊だい!」
「たのもしいねぇ!」
破れた着物を着て、ほころびた草履を履きながらも、住人達は満面の笑みを一護に向けてきた。
一護は苦笑いとも照れ笑いともつかない笑みを漏らすと、その場からそそくさと抜け出す。
褒められるなんてめったになかったせいか、居心地が悪くてたまらない。

「黒崎くんっ、だいじょうぶだった?」
人ごみを掻き分けて一護の前に顔をのぞかせた織姫が、一護を爪から頭の先まで心配そうに見やる。
「あぁ、怪我ひとつしてねーよ」
ぐるりと腕を廻してみせると、織姫の表情がやっとほころんだ。
ソウル・ソサエティに来るまでなら、このレベルの虚を無傷で倒すなど想像もつかなかっただろう。
しかし、隊長格と戦った後となっては、全く負ける気がしなかった。
「申し訳ありません黒崎殿、お手を煩わせてしまって」
「かまわねぇって。ヒマだしよ」
駆け寄ってきた五番隊隊士たちが何度も頭をさげてくるのを見て、一護は手を振って遮った。
今の一護や織姫たちの立場は、瀞霊廷の客人ということにされている。旅禍と呼ばれたいたころとは雲泥の差で、当惑するほど丁寧な扱いを受けていた。

「隊長と副隊長さえ、おられれば……こんな虚に手間取ることはないのですが」
悔しげに、しかし心配を前面ににじませた表情に、一護は軽く頷くことしかできなかった。
五番隊の隊長・藍染は瀞霊廷を裏切り、副隊長の雛森桃は藍染に斬られ意識不明の状態が続いている。
しかしその事実は、平隊士には謎の虚の襲撃により藍染は行方不明、雛森は重傷を負ったというふうに伏せられていた。
「俺にできることあったら、何でも言ってくれよ」
本当なら、それで喜ばれることさえも心苦しいのだ。自分達が瀞霊廷に侵入しようがしまいが、藍染はいつかは反旗を翻しただろう。
それでも、自分達の行動が引き金になったことは、どうやら事実らしいのだから。そう思った時、そっと一護の袖をつかんだ指があった。

「井上?」
「ホントに強くなったよね、黒崎くんて。ここに来る前とは、別の人みたい」
見上げるようにして言いながらも、その表情には心配がにじみ出ている。
「でも、ムリしちゃダメだよ? ここのところ、ずっと戦ってるよね?」
「どってことねぇよ。お前こそ、俺についてくるのも大変だろ? お前は瀞霊廷でルキアんとこにいろよ」
「あ、あたしは全然平気! それに、黒崎くんが怪我しないか、心配だもん……」
「井上……」
向き合った二人の沈黙は、口笛を吹いた流魂街の若い男達によって遮られた。
「いーよなー、美人の彼女いて!」
「はっ? そんなんじゃねーって!」
慌てて顔を伏せてしまった井上から目を逸らし、一護は狼狽した視線をその方向に向けた。そして、何か言い募ろうとした時だった。

ひらり。
一護の視界の先で、栗色の髪が揺れた。

「……え?」
自分の掠れた声が、別人のもののように耳に届く。
ひらり。
柔らかな髪質だと遠目でもわかる、腰までもある長い髪。その人物は一護に完全に背を向けていたが、わずかに見えた肌は白い。
「黒崎くん? どこ見てるの?」
織姫の声を、遠く感じる。
「あの……ひと」
「えっ? 何?」
一護は気づけば、届くはずもないのにその人物に手を伸ばしていた。
「待て……」
掴もうとした指の先、するりと遠ざかるその人物は、粗末な木壁の角を曲がって姿を消した。
「黒崎くんっ!」
織姫の悲鳴が木霊する。それと同時に、一護の視界がぐるりと回った。


***


「卯ノ花隊長! 黒崎は、一体どうしてしまったんですか?」
ぼんやりとした意識の中で、一護は石田の声を聞いた。いつも通り沈着冷静な話し方だが、その声はやたらと焦っている。
何を焦っているんだ? 心中でひとりごちた一護の体の周囲で、慌しく人が行き来するのがわかる。
「黒崎くん、起きて! ねぇ……」
織姫の泣き声が聞こえてくる。おそらく彼女の指だろう、誰かに肩を掴まれ、ゆすぶられる。
起きねえと。そう思って瞼をこじ開けようとするが、まるで薄い膜に幾重にも幾重にも取り囲まれたかのように、意識がどんどん遠くなってゆく。
どれほど力を込めても、瞼はピクリとも動かせなかった。一体どうなってるんだ、と思い始めたとき、卯ノ花の落ち着いた声が一護の耳に届いた。

「……ご存知の通り、ここは死者の世界です。死ねば人間の魂魄は離れ、魂だけがここにたどり着く。
『流魂街』の俗名もそこから来ています。もしも生者がここにたどり着いた場合、魂と体の結びつきはきわめて流動的になります。
例えば、精神に強い衝撃を受けただけで意識だけが流れ出し、戻ってこられなくなるということもあるのです」
「衝撃? 衝撃って……」
「卯ノ花隊長、はっきり言ってくれ」
上ずった石田の声を押さえつけるように、重量のある声でチャドが遮った。
普段なら人の言葉を遮るような奴じゃないのに、と一護は混濁した頭の中で思う。
「魂が戻らなくなる、とは。死ぬということなのか?」
その後の返事は、聞こえなかった。しかし織姫の嗚咽が続いたことで、卯ノ花が頷いたのだということは想像できた。
泣くな。泣くなよ、井上。今起きるから。そう思いながらも、まるで水底に沈むように底知れず、意識はただただ、沈んでゆく。
「黒崎さんの魂は、流魂街にいるはず。見つけて、一刻も早く連れ戻さなければなりません」
確固とした卯ノ花の声を最期に、一護の意識は、まるで扉がぴしゃりと閉ざされたかのように断ち切られた。