※10万HITS企画の「READY A LADY」の10日後のお話です。



瀞霊廷の中で、もっとも季節感のない場所を挙げよ。
……という質問が真央霊術院の試験問題に出るわけではないが、恐らく涅マユリの研究室が当てはまる。
倉庫か、巨大な立方体を思わせる巨大な空間には、窓さえないのだ。
人工のわずかな照明の下では、書架が整然と、どこまでもどこまでも並んでいる。
書架群の向こうには、涅マユリがこつこつと貯めてきた実験の成果……通称「棺桶」がある。
そこには虫から動物から人間まで、納められていない種はないといわれる。
もっともお世話になりたくない場所はどこか、という質問にも、この場所は対応可能と思われる。
十二番隊の隊士といえども、好んで近づく者はいない場所だった。
そう。隊長と副隊長を除いては。

その空間の中央部分には、巨大なモニターが設置されている。
黒い画面に、緑色の文字が表示され、すさまじい勢いで画面はスクロールされてゆく。
長く細い指が、キーボードの上を踊る。その表情は、仮面に中途半端に隠されていても、不機嫌そうに見えた。
背後には、涅ネムが控えている。まるでマネキン人形のようにピクリとも動かない。
「ったく……あの、小生意気なガキが……一体どうしてくれようかネ」
独り言の槍玉に挙げられている小生意気なガキ、というのが、十番隊隊長の日番谷冬獅郎を指しているのは、間違いなかった。
何しろ彼は今朝まで、「総隊長を女にした」という馬鹿馬鹿しさこの上ない罪状で、十日間一番隊の獄舎につながれていたのだから。

全てはあの子供のせいだ、と涅マユリは憤る。
もともとその薬を使って日番谷を陥れようとしたのは自分だ、ということは初めから頭にない。
「どうすれば、もっとも効率的に痛めつけることができるかネ」
さきほどから検索しているのは、日番谷冬獅郎の精神データだった。
彼が周囲から投げつけられ、もっとも精神の波長が乱れた言葉を調べる、など涅マユリにかかれば造作もないことだったのだ。


やがて、その結果ははっきりとモニターに表示された。
「……チビ……」
神妙に、涅ネムが巨大に表示されたその二文字を、読み上げる。淡々とどこかの辞典から拾ってきたような解説を暗唱した。
「チビとは、小さいもの、人、動物。軽い卑しめや親しみを込めた言葉。例としては『ちび下駄』『ちびまる子ちゃん』などがあります」
ふふふ、と涅はこらえきれないように笑みを漏らした。
「ネム。身長を自由に変える薬があったはずだネ。元は、小さすぎたり巨大すぎる実験体を持ち帰るために作ったものだが」
「はい、マユリ様。書架の287-3-Aにございます」
「ふむ。そいつを、一振り分でよい、日番谷冬獅郎に飲ませて来るのだヨ。あの身長だとそうだネ、1メートルくらいまで縮むかネ。
二振りは止めておけ、縮みすぎて無くなってしまうからネ。あいつが無くなったら事務仕事が私に回ってくるから困る」
1メートル。それは、現世の人間で言えば4歳くらいの平均身長に当てはまる。
日番谷本人が聞いたら、むしろ無くならせてください、と訴えるかもしれない。
なんにしろ、もし実現したら確かに、日番谷を打ちのめすには十分なはずだった。

しかしネムは、わずかに首を傾げる。
「日番谷隊長が、そう簡単に口にされるでしょうか。つい先日の騒動もありますし、さらに用心深くなっているはずです」
確かに、前に薬を飲まそうとした時も、適量全てを飲まずに残りを隠し持っていたほどである。
しかし涅マユリは、ニヤリと笑みを浮かべた。
「私のリサーチにぬかりは無いヨ。あの子供、十二番隊には理不尽なほどに気を許さないが、身内となると別らしいネ。
可愛がっている部下に、直接薬を盛られたら、さすがに疑うまいヨ」
そして、三十秒後。説明を聞いたネムはコクリと頷いた。
「完璧です、マユリ様」


***


六月の空は明るい。
雨が降っているのか、降っていないのか分からない状態が朝から続いていた。
厚みをもち、つやつやと緑に輝く紫陽花の花が、十番隊の庭にしっとりとした彩を添えていた。
「あ〜、やだなあ。また出来ちゃった、ニキビ」
給湯室で湯が沸くのを待っているのは、十番隊の末席、城崎尊だった。
額にひとつポツンと出来た赤いふくらみを手鏡に映し、はああ、とため息を漏らす。
六月は、嫌いな季節だった。湿度が高まるせいで肌はテカるし、ニキビも出来やすくなるからだ。
「日番谷冬獅郎の嫁が目標」と辺り憚ることなく公言している彼女にとって、容姿は何より重大事項だった。
それにこれから、この茶を淹れて隊首室まで行かねばならないというのに。

もっとも日番谷は、尊の肌が荒れていようがいまいが、太ろうが痩せようが、特に感想を漏らすことはない。
「ありがとう、城崎」
そう言って茶を受け取るだけだ。その言葉は嬉しくもあり、外見に反応してくれないのは寂しくもある。
「日番谷隊長……」
はああ、とまたため息を漏らし、入り口を何気なく見やった尊は、ヒッ、と思わず短い悲鳴を漏らした。

「くくく涅副隊長! どうしてここに? っていうか、いつから?」
「1分28秒前からです」
誰もそんなところまでは聞いていない、というほどに律儀に答えたネムは、人形のような無表情だった。
ちょっとだけ開いたドアの隙間から、その顔が覗いているのが恐ろしい。
おどろおどろしい噂の多い十二番隊の副隊長といえば、末席である尊を震え上がらせるに十分だった。
「マユリ様からのご指示があります」
ネムは尊の動揺など意に介することもなく、そのままドアを開けて給湯室に入ってきた。
しゅんしゅん、と湯気を立てるヤカンを通り越し、急須の蓋を無造作に取る。
「これは、日番谷隊長にお出しするものですね?」
「え? は、はい、そうですが」
「分かりました」
ネムは淡々と答えると、懐から一本の小さな瓶を取り出した。
尊の見たところ、それは味塩の入れ物にすぎないように思えた。
しかし、十二番隊、という時点で何らかの薬であることは間違いなさそうだった。尊は、勇気を振り絞って前に出た。
「おやめください! いくら涅隊長のご指示でも、日番谷隊長が口にされるものに薬を盛るなんて許せませんっ!」
怖かったが、ネムと急須の間に身を割り込ませ、ネムと向き合う。
確かに尊は末席。ネムとは月とスッポンほどに実力の差があるだろう。
でも、「お茶汲み」は、日番谷から直接指示された、尊にとっては大切な仕事だった。
日番谷が好む湯の温度から茶の濃さまで、全て知っている。得体の知れない薬を入れるなどとんでもなかった。

「……貴女」
ネムが、初めて尊に気づいたかのように視線を向けてくる。
「何ですか」
声が震えないように気をつけながら、尊が返す。
「その薬が、惚れ薬だと言っても? 口にして初めに目にした者に一目ぼれする効果があります」
尊は、愕然と目を見開いた。
「GJ! グッジョブです涅副隊長! さあ、入れてください!」
入れてください、といいながら、あまりの豹変振りにさすがに絶句しているネムの手から、瓶を奪い取る。
そして、中蓋まで外すと、一気に中身を全部急須の中に注ぎいれた。
「あの……」
「ありがとうございましたっ! あたし達の結婚式には、お呼びしますね!」
バチンとウインクを寄こすと、急須の中に勢いよく湯を注ぐ。そして、颯爽と去っていた彼女を、ネムは首をかしげて見送った。
「一振り、でよかったのですが……」