※アニメ「斬魂刀異聞編」の設定を下敷きにしてます。捏造大目です! ご注意を。


氷輪丸は、ふと目を開けて辺りを見回した。
ジジ……と音を立てて行灯の中の油が燃え、炎が静かに揺れている。
隊首室の床も、白い壁も天井も全て、夕焼けのような朱色で染まっていた。

斬魂刀の中で眠っていたはずが、いつ具象化したのか自分でも分からなかった。
基本的に、具象化は死神たちの間で、良く思われてはいないらしい。
刀は刀として存在するべき―― その理屈は確かに、分からぬでもない。
しかし主である日番谷冬獅郎が、氷輪丸の具象化について苦言を呈したことは一度もなかった。
「……いて、かまわぬのか」
「いたらいい」
遠慮がちに問いかければ、穏やかな答えが即座に返ってきたことを思い出す。
外見は幼いとさえ言えるが、器の大きな男だと思うのはこんな時だ。
幸せだと思う、彼の前にひざまずくことを。しかし今……隊首席は、無人だった。
		

無造作に後ろに引かれたまま放置された椅子に、歩み寄る。背もたれに触れると、まだ温もりが残っていた。
硯に残った墨は磨られたばかりのように見えたし、筆に含まれた墨はまだ、乾いていない。
途中まで書きかけの書類が、机の上に置かれていた。
机の隅に置かれた湯飲みには、まだ温かい茶が半分ほど、残っている。
仕事中、突然呼び出されて席を立ってしまったものか。
それにしても、いつもの主なら周囲を片付けてから席を立つだろうに。
主の不在以外に、部屋に変化はないか。見渡した時、隊首席の背後の刀置きから、斬魂刀が消えているのに気づいた。

おかしい。胸騒ぎがじわじわと、体の奥底から湧き上がってくる。
戦時特例が出ていない今では、斬魂刀の常時携帯は禁じられている。
主が斬魂刀を持ち歩くところを、随分見ていない……それなのに、刀を持っていったのか?
中に宿る、自分を置き去りにして。

背後の窓が、わずかに開いていた。外からは、晩冬の冷たい風が吹き込んでくる。
窓を閉めようと歩み寄り、外に目をやる。木々や建物の輪郭がかろうじて見える程度で、周囲はもう暗い。
宵闇を眺めるうち、不意に悪寒が襲った。
誰かが、こちらを凝視している。瞬間金縛りにあったように、息苦しくなった。

「主!?」
焦りに突き動かされ、窓を全開にする。
途端、冷たい風が吹き通り、隊首席に置かれた紙がぱたぱたと乾いた音を立てた。
今の視線。間違いなく、主のものだった。しかし、返される言葉はない。

身を乗り出せば、窓の外は満月だった。
黒く磨き上げられた鏡のように雲ひとつない空に、月が空の穴のように浮かんでいる。
氷輪、と呼ぶにふさわしい凍てつく月を見上げた時、再び視線を感じた。
「主! どこだ!」
しかしその気配は、呼びかけると同時に離れてゆく。踵を返して、歩き出したくらいの速度だ。
呼びかけに答えぬとは、全く持って主らしくない。違和感が頂点に達し、氷輪丸は部屋の中から外へと滑り出した。


心配、しているのか? 気配を追いつつ、自問自答する。
もちろん誰よりも信頼し、命を預けてもいいと思っている。
力でも頭脳でもなく、清冽な魂としか言いようがないものに対し、畏敬にも近い念を持っている。
しかしその一方で、純粋であるがゆえの脆さにも、気づかずにはいられなかった。
記憶を失った自分を救うため限界を超えて力を放出し、直後に気を失ってしまった時のことが思い浮かぶ。
意思が強い反面、その体はまだ未熟すぎた。
腕に抱きとめた体のあまりの小ささに、それを痛感させられた。

まだ開花しきらぬ蕾だというなら、自分が花開くまで護り抜こう。
従者ではなく、時には父のように、時には兄のように。
斬魂刀が主人たる死神に持つ感情としてはふさわしくないが、そう決意していた。


瀞霊廷の外れには、巨大な川が流れる。
まだ冬のように寒い三月上旬の川に近寄るものはおらず、枯れたススキが揺れている以外は、土手は全くの無人だった。
「主!」
土手の上に、見慣れたシルエットを目にし、氷輪丸は足を止めた。
逆立った髪が、川からの風にあおられて揺れている。
隊首羽織が風に吹き上げられ、背中に担いだ氷輪丸の柄が肩から突き出して見えた。
主にその声が届かなかったはずはないのに、放心したように川を見やっている。

その背後に歩み寄った時、氷輪丸はあることに気づいて足を止めた。
……髪の色が。見慣れた銀ではなく、漆黒だったのだ。
一瞬目を疑ったが、確かにその色は黒で、輪郭は日番谷冬獅郎のものだった。
よく見れば、おかしいのはそれだけではなかった。
確かに死覇装と隊首羽織をまとってはいるが、死覇装が純白で、隊首羽織は逆に黒かった。
黒く染め抜かれているはずの背中の「十」の文字が、白い。
まるで主の周囲だけ、色が反転してしまったかのようだった。

無人の隊首席を見た時からの、違和感。それは不吉な予感に姿を変え、胸の中で膨れ上がる。
主だけが写真のように、スクリーンに映し出された映像のように、現実感がない。
「ある、じ」
その肩に手をかけた時、彼はくるりと肩越しに振り返り、氷輪丸を見上げてきた。

途端、悪寒が走った。
黒い髪、浅黒い肌。その瞳はあの澄んだ翡翠ではなく、濁った真紅だった。
「どういうことだ……何者、だ」
短い言葉だと言うのに、声がかすれた。鼓動があっという間に高まってゆく。
「てめえこそ何者だ。こそこそ追ってきやがって」
「な……」
氷輪丸は今度こそ、返す言葉を失った。「何者だ」と言われたのが自分だと気づくのに、一拍の時間を要したほどだ。
魂の分身とも言える自分を忘れるなど、ありえない。
しかしその声は、どこからどう聞いても、日番谷冬獅郎のものだった。
ただし、主は口こそ悪いが、こんな野卑な口の利き方はしない。
こんなに下品に、顔をゆがめたりもしない。

目の前の人物が、主以外の何者かであるはずがない。しかし、主と認めることもできない。
「……馬鹿な。主が我を忘れるはずがない! 我は……」
「面倒くせえな」
主が柄に手をやるのを、氷輪丸は呆然として見た。瞬間、刀を覆っていた柄が音もなく消え、美しい刀身が現れる。
冬の空に浮かぶ月のように孤高で美しい、と評された「氷輪丸」がそこにはあった。自分自身でもある、日番谷冬獅郎にしか許されぬ神刀。
軽々と片手で扱うと、ヒュッと音を立て、氷輪丸の喉元に切っ先を突きつけた。
頼む、悪夢であってくれ。その刃がひらめくのを、氷輪丸はただ見返すことしかできなかった。