一角の全身を包み込んでいた氷の塊が、その場を襲った衝撃波で砕け散った。
地面に投げ出された一角が、喉を両手で押さえてごほごほとむせこむ。
「一角さん!」
恋次が駆け寄る。そして、自分達と「日番谷」の間に着地した男の背中を見上げた。
「一護! お前……」
「俺がやる」
一護は、「日番谷」をまっすぐに見返した。斬撃の余韻で青白く輝く斬月を、肩に担いでいる。

分かってはいても、その姿を目の当たりにすると一護にも動揺が走った。
自分がかつて出会った「もう一人の自分」を前にしているようだ。
一護の場合はより虚に近い外見だったが、その混じり気ない殺気は同じだった。
見返す「日番谷」の視線には、見知らぬ敵を前にした他所他所しさしか感じない。

「……『氷輪丸』か」
一護の呼びかけに、ぴくり、と「日番谷」が反応する。
「ちょっとは、話が分かってるらしいな」
「お前の主人は……日番谷冬獅郎は、どこにいる。昨日の夜に隊首室からいなくなって、行方が分からねぇんだ。
具象化したお前の後を追ったんじゃねぇのか?」

ここに来る途中に、仮説を組み立てていたのだ。
突然執務室からいなくなった日番谷。そして、入れ違いのように現れた、目の前に対峙する少年。
恐らく昨夜、この異形の少年は、突然日番谷の目の前に、具象化した姿を現したのではないか。
そしてそのまま、姿をくらました。
一刻も早く先を追わなければならない状況下では、乱菊たちに声をかける余裕などなかったのだろう。
日番谷は、責任感の強い男だ。この事態を目の前にして、何もしないとは思いがたい。
この場に日番谷がいないことだけが唯一、違和感なのだ。

「日番谷」は、一護の葛藤を読んだかのように、軽く頷いた。
「……あァ。あいつは確かに、俺を見逃さなかった。当然のように戦いを挑んできたさ」
ニヤリ、と口角が上げられる。見返す一護の背中に、悪寒が走った。
「そして、あいつは俺に敗けた」
「……そんなわけあるか!」
動悸が胸の中で高まる。そんなはずない、と頭の中で繰り返す。
しかし、一護が思いついた日番谷がいない理由は、まさにそのことだった。

だが、敗けてしまえば、一体どうなるのだ?
一護も何度も「もう一人の自分」に殺されかけたが、間一髪で生還している。
―― 「てめえに勝って、自分が代わりに王になる」
もう一人の自分が、瀕死の一護にかけた言葉が、不意によみがえる。ハッと顔を上げた。

「まさか。てめえ、その体は具象化じゃなくて……」
途中で声が、かすれて切れる。愉悦に近い表情が、「日番谷」の顔に広がった。
「ご名答。この体は、『日番谷冬獅郎』のものだ。あいつは俺に敗けて、消滅したんでな。空っぽになった体は俺がもらった」
「じょ、冗談じゃねぇよ……」
じり、と一護は背後に退がる。
勘弁しろよ、と日番谷に頭の中で呼びかける。
お前がいなくなったなんて、冗談じゃない。乱菊さんや桃さんに、何って言ったらいいんだ。
消滅。「日番谷」が言った言葉が、頭の中でぐるぐると回った。

「疑問は解消されたか?」
馬鹿にするように、「日番谷」がじりじりと一護に迫る。
その声だけが日番谷と同じで、下がるしかない一護は唇を噛んだ。
戦えるのか? 自分に問いかけるまでもなかった。体が、戦いを拒んでいる。
「……一護? 一体、どうなってんだ」
背後からかけられた恋次の声に、足を止める。
あまりの事態に存在を忘れていたが、後ろには恋次と一角、弓親もいるのだ。
前にも進めず、後ろに退くこともできない。一護は苦渋の表情で立ち止まり、斬月を構えた。

「……天相従臨」
氷輪丸の切っ先が、天をまっすぐに差した。何が起こるのか分からず、一護は無言のまま「日番谷」を見返す。
不意に、周囲が闇に覆われる。
見上げると、空に架かった月が、恐ろしい勢いで広がる暗雲に覆い隠されるのが見えた。
パシッ、と音を立て、雲間に稲妻が走る。見る見る間に気温が下がり、一護は後ずさった。
そんな一護の背後から、恋次の声がした。
「一護、氷輪丸の力は天候を操れんだ! 力を使わせんな!」
「って言ったってよ。もう遅ぇよ! ていうか、どうやって戦うんだ、こんなの!」
斬りつけてくるなら、刀で返せる。撃ちかかってくるなら体で止める。
しかし、こんな天変地異を相手に、どう戦えと言うのだ? 一護の動揺をあざ笑うように、「日番谷」が口を開いた。

「氷輪丸に、斬月。同じ月の名前を持ちながら、てめぇの力は天には通じねぇんだな」
動じるな、と一護は自分に念じる。
結局は、目の前のこの少年を何とかすればいいはずだ。
しかし、典型的な鬼道系のこの刀が、もっとも自分とは相性が悪いタイプだということは分かった。

「日番谷」はそんな一護を見やると、無造作に刀を持っていない左手を一護に示した。
こんな状況でなければ、まるで手を差し伸べたかのように見える。
なんだ、と一護が見やった瞬間、天空から走った雷が一護をまっすぐに狙った。辺りが昼間のように明るくなる。
「一護! 上だ!」
一角の声に、とっさに体を地面に投げ出すように避けた。
慌てて自分がいた位置を確認すると、闇のせいで見えないが、焦げ臭い匂いが立ち込めている。
傍にあった木の影が、まるごと一個分視界から消えていた。
「……まじかよ」
こんなものに一回でも打たれたら、死ぬ。

顔を引きつらせた一護に、「日番谷」が歩み寄る。
「逃げても無駄だ。この天の下にある限り、てめえに逃げ場はねえ」
どうする? 一護は歯噛みする。このまま逃げていても勝ち目はない。ぎゅっ、と斬月の柄を握り締めた一護は、一足飛びに「日番谷」に向かって跳んだ。
「……っ!」
「日番谷」が紙一重で斬撃を避ける。やはり、直接攻撃して戦闘不能にしてしまうほかない。
雄叫びと共に振り下ろした刃が、まともに氷輪丸と交錯する。ち、と舌打ちした「日番谷」が退いた。
力と力の打ち合いなら、体格差がある分自分が上。そう確信した一護は、一瞬バランスを崩した「日番谷」の懐に一気に飛び込み、刀を振り上げた。

耳をつんざくような音と共に、刀がぶつかり合った。
頭上に翳した氷輪丸に、振り下ろした斬月が直角に打ち当たり、止まっていた。
力が拮抗し、カタカタと小刻みに震えている。一秒、五秒、長く感じる数秒の後に、氷輪丸が押された。
互いの荒い息が聞こえるほどに、距離が近い。
「冬獅郎!」
一護は遠くにいる相手に呼びかけるように、大声を出した。
日番谷が消滅したなんて、絶対に信じられない。
この体が日番谷自身のものであったとしても、どこかに、日番谷は眠っているはずだ。そう信じたかった。

氷輪丸の刀身は、いまや「日番谷」の前髪に触れるほどに押し込まれている。
しかし刀の向こうで、「日番谷」は紅蓮の瞳を細めて、微笑った。
「……斬れねぇのか? これが、日番谷冬獅郎の体だから?」
「……」
見抜かれている。一護には、これ以上刀を振り下ろすことができないことを。
「冬獅郎を返せ!」
「哀れだな、人間。いくら呼びかけようと、死んだ者は戻らない」
死。その一言が持つ残酷な響きに、一瞬一護の力が緩んだのを、「日番谷」は見逃さなかった。
渾身の力を込めて、一護の体を背後に吹っ飛ばす。よろめいた一護に、逆に斬りかかった。

「唸れ、灰猫!」
鋭い女の声が、闇に響き渡った。
ざっ、とその場で足を止めた「日番谷」の周囲を、夜目にもぼうっと白い灰のようなものが取り囲むのが見えた。
「乱菊さん!」
その灰が「日番谷」に迫る直前、その小柄な姿は瞬歩で掻き消える。

「今度は女が二人か。次から次へと出てきやがる」
一護は背後を振り返る。そこには、「灰猫」を構えた乱菊と、雛森の姿があった。



「乱菊さん……っ」
一護は、自分の前に歩み出た乱菊に、呼びかけることしかできなかった。
まっすぐに「日番谷」に突きつけられた灰猫の切っ先を、信じられない思いで見た。
やめてくれ。喉元まで制止の言葉が出てきそうになり、押し込める。
そこにいるのは、あんたの上官だぞ。こんなのは間違っている―― などと、言いたくとも言えなかった。

「乱菊さんっ! やめて!」
一護の心の声が通じたかのように、雛森が乱菊に駆け寄る。
そして、無表情に自分達を見返す「日番谷」を見て、体を震わせた。
「日番谷くん……なんでしょ? やだよ、こんなの!」
「てめえなんぞ知るか」
一部の温度もなく、「日番谷」が返す。雛森の大きな瞳に、涙がたまった。
「ねえ乱菊さん、お願いやめて! 話せばきっと……」
きっ、と振りかえった乱菊が、その掌で雛森の頬を叩く。パシン、という乾いた音が響いた。
目を見開いたまま固まった雛森と、その背後にいる一護たちを睨みつけた。

「しっかりしなさい! あれが隊長ならなおさら、あたし達が止めなくてどうするの!
確かに隊長は強い。でもあたし達は六人いるのよ」
一護は、これほどまでに乱菊が凛とした声を出せると、初めて知った。
「け。俺たちも頭数に入るらしいぜ」
一角が、弓親の上半身を起こしながら乱菊を見上げる。
「とはいえ松本、なにか手があるのかよ」
「氷輪丸を、少しの間でも封じられれば……」
「あたしがやります」
キュッ、と目じりに残った涙を指で押さえ、雛森が立ち上がった。

「大丈夫……かよ」
一護が歩み寄ると、雛森はわずかに一護を振り向いた。
「相手は氷雪系最強。ずっとは無理だけど、短時間なら大丈夫です」
そういうことを言っているのではない。雛森の震える腕を見れば、大丈夫ではないのは一目瞭然だった。
だが、今は戦うしかないのだ。六人もいれば、うまく捕らえられるかもしれない。
一角が、弓親が、恋次が立ち上がる。「日番谷」は獰猛な光を両眼に湛えて、そんな六人を見返した。

雛森が、口元で小さく何かを呟いている。鬼道というのだ、とその頃になると一護にも分かっていた。
「……四極結界」
力ある言葉が、華奢な唇から紡ぎだされる。
雛森が上に向けた掌の上に、半透明に輝く、正四面体が現れた。
それはあっという間に広がり、自分達と「日番谷」との間を覆ってゆく。

「あ? 何だ?」
日番谷が、怪訝そうに夜空を仰ぎ見た。空を厚く覆っていた雲が、霧散してゆく。
凍えるようだった寒さも、少しずつ緩んでゆく。
「……三十メートル四方くらいですけど、結界を張りました。この結界の中で発動された、全ての鬼道系の力は無効化されます」
「三十メートル四方から、日番谷隊長を出さなきゃいいんだな」
一護、一角、弓親、恋次がそれぞれ四隅に散り、中央の「日番谷」に刃を向ける。
その場の全員の視線を集めた「日番谷」は……嘲笑っていた。

「有象無象が何人揃おうが、何が変わる」
一角が、槍を大きく背後に振り被る。
「やせ我慢は……」
「上だっ、一角!」
一角を遮り、一護の叫びが宙を劈く。がくん、と一角の槍が後ろに下った。
「な……」
背後の槍の上に、一瞬のうちに姿を現した「日番谷」が飛び乗っていたのだ。
その全身が、高まる霊圧で赤く輝いている。微塵のためらいも見せず、刃を一角の頭上から振り下ろした。
「くそ!」
とっさの判断で一角は槍を捨てる。そして拳を「日番谷」の胴に繰り出した。
血しぶきが散り、一角の右肩が破れる。わずかな間でかわした「日番谷」の胸の辺りの布地がパッと散った。

「一角!」
突っ込んできた一護に、ギラリと「日番谷」が振り返る。パシッ、と空中に放り出された槍を掴み取った。
まるで槍を扱いなれているかのような滑らかな動きで、一護に向かって投げつける。
あっ、と思った時には、槍の穂先は眼前に迫っていた。
「っうお!」
反射的に、何とかかわす。しかしその穂先は一護の袖を貫き、背後の岩に突き立った。
「日番谷」が追う。一護はかわそうと身をひねって、がくん、と縫いとめられた槍に引き戻される。

―― 危ね……!
避けきれない、と思った時、折れた右腕をものともせず、恋次が前に出た。
振り下ろされた蛇尾丸に、さすがの「日番谷」も一護への攻撃を諦めて跳び下る。
「初歩的なミスやらかしてんじゃねぇよ、一護!」
着物を破り自由になった一護に、恋次が前を見たまま呼びかける。
「すまねぇ、助かった」
見返した「日番谷」の肩や腕の辺りに、パシッ、と光が弾けるのが見えた。
押さえ込まれた霊圧が、少しずつ戻ってきている―― 振り返ると、雛森が肩で息をしていた。

「……一気に、畳み込むわよ」
乱菊が前に出た。
「数人は斬られるかもしれないけど、一度に五人は斬れないでしょ。無事だった奴は隊長を抑える。いいわね」
「……男前っすね」
「あんたらがだらしないのよ」
恋次に言い返した乱菊の表情に、恐れはない。
雛森の状態を見ても、これ以上戦いを引き延ばせない、それだけは確かだった。
パシッ、とまた日番谷を覆う霊圧が、強くなる。

「……てめぇが、邪魔だ」
「日番谷」の視線が、まっすぐ雛森に向けられる。
「日番谷くん……」
もう限界に近いのだろう、額に汗の玉を浮かべた雛森が、必死に呼びかける。
ふん、と「日番谷」が笑った。途端に、その霊圧が急速に高まる。
「雛森っ!」
乱菊が悲鳴を上げた。
むせこむようにうつむいた雛森の口元が、血に染まる。
「もう限界よ! 早く、隊長を―― 」
雛森に駆け寄った乱菊が、そう叫んだ時だった。
斬りかかろうと刃を構えた全員が、その場に固まる。
「日番谷」が―― いない。

どこへ行った。見回すより先に、雛森が押し殺した悲鳴をあげた。
ざっ、と砂が鳴り、突っ込んできた「日番谷」が雛森の眼前に現れる。
狂気をはらんだ真紅の瞳が、雛森を真っ直ぐに射た。
「死ね!」
振り上げられた氷輪丸の刃は、まっすぐに雛森と、とっさに前に出た乱菊に吸い込まれた。

「冬獅郎っ!!」
スローモーションのようにゆっくりと感じたその一瞬、一護は無力に叫ぶことしかできなかった。

「……た、いちょう……?」
絞り出された乱菊の声は、乾いていた。
ぜえ、ぜえ、とその場の誰ともいえない荒い呼吸が、混ざり合う。
夜の空気に、蜂蜜色と黒色の髪が一筋、流れて散った。

「日番谷」の刃は、乱菊と雛森に届く直前で、止まっていた。
チィィィ、とかすかな音を立て、氷輪丸の刀身が震えている。
「……なんだ?」
意外そうな声をあげたのは、他ならぬ「日番谷」だった。動かぬ自分の腕を、信じられないように見やる。
「シロ、ちゃん」
雛森の頬を、涙が伝った。

「冬獅郎……? なのか」
一護はゆっくりと歩み寄る。振り向いた「日番谷」の瞳は紅蓮のまま。戸惑ったように、刀と一護を見比べた。
「戻って来い!」
必死に、呼びかける。しかし、「日番谷」に変化はなかった。
「命拾いしたな」
そういい残すと同時に、その姿がふっ、と掻き消える。手を伸ばす間もなかった。
辺りを見回してみても、三十メートル四方の結果以内にいないことは、間違いなかった。
「追わないで。氷輪丸を使われたら、被害はあたし達だけじゃすまないわ」
「……追えねぇよ」
一護は、乱菊に返すと、重い溜め息をついた。夜は、まだまだ明けそうにない。