救護隊舎で待つほかなかった氷輪丸の元にもたらされた最悪の報せ。
傷ついた恋次と一角、弓親を救護室へ送った卯ノ花の決断は早く、すぐに伝令を一番隊に走らせた。
死神の事情に疎い氷輪丸にも、そうするしかない事態だ、ということは飲み込めた。
そして、打てば響くように、すぐに一番隊からは返答があった。
臨時隊首会を開く。各隊の隊長と関係者は、一番隊舎の隊首室へと集合するようにと。


隊首室の窓の外は、いつの間にか暗くなっている。
理由も分からないうちに呼び集められた各隊の隊長と、一護、乱菊、雛森、そして氷輪丸は一言も発さず、説明する卯ノ花の声だけが、朗々と室内に響き渡っている。
「……大丈夫? 氷輪丸。退がってていいのよ」
ぐらり、とよろめいたのを目にしたのだろう、乱菊が小声で話しかけてきた。
卯ノ花の話では、乱菊はためらわず、上官である日番谷に刀を抜いたという。
彼女なりに心労はあるはずなのに態度に表さず、逆に気遣われるとは。
「構わない。……我の、主のことだからな」
主不在の今、この体がまともに動くようになるには、まだ日にちがかかりそうだ。
しかしだからといって、黙って事が収まるまで待つ、などできるはずがなかった。

ごほん、と総隊長が咳払いをし、卯ノ花が報告を終えていたことに気づく。
「日番谷隊長が斬魂刀に身を乗っ取られるなど。このような重大な事態を黙っているとは言語道断! しかし、お主らの処罰は後回しじゃ」
どうしたものかのう、と唸った総隊長に代わり、心配そうな表情を浮かべていた浮竹が口を開く。
「一旦乗っ取られた場合……戻ってこられるのか?」
「……戻って来れない、って。アイツは言った」
一護の言葉に、白哉がスッと瞳を細める。
「死んだ、ということか?」
しばらく、すすり泣く雛森の声しか聞こえなかった。氷輪丸の目には、乱菊がぐっと唇をかみ締めるのが見えた。

ハッ、とその場にあまりに不釣合いな笑声が響いたのは、その時だった。
「斬魂刀に魂を食われてしまうとは、バカな奴だネ。元に戻れるはずがないヨ」
涅マユリだった。雛森が、それでも救いを求めるように異形の男に向き直る。
「涅隊長! 何か方法はないのですか?」
「無茶を言うものじゃないヨ。死人を生き返らせるなどと」
死。その言葉が氷輪丸の心をうがつ。
主が死して、どうして自分がここにまだ在るのだろう。それが、とてつもなく理不尽に思えた。
もう一人の自分とも言える、あの主そっくりの魂を思い出し、腹の底から怒りがこみ上げてくる。
あれが主どころか、主の仇であるとあの時点で分かっていたら。おめおめと黙ってやられはしなかった。
しかしその怒りは、続けられた涅の言葉によって霧散した。

「まあ、自業自得だヨ。日番谷はこうなることを、全て分かっていたのだからネ」
「どういうことだい?」
聞きとがめた京楽が、眉間に皺を寄せて涅を見返す。
「どうもこうもないネ。放っておけばよいものを、勝手に巻き込まれたアイツが悪いのサ。そこまでして、そこの斬魂刀を庇いたかったのかネ」
私には到底理解できんネ、と続けながら、涅はまっすぐに氷輪丸を指差していた。

「どういうことだ! 説明しろ!」
氷輪丸! 窘める乱菊の声を聞きながら、氷輪丸は大股で涅に歩み寄っていた。
勢いに任せ、その胸倉を取ろうとした時、横から手を伸ばした狛村がそれを阻む。
「……たく。主が主なら斬魂刀も斬魂刀だヨ」
一歩さがった涅を、氷輪丸は感情を込めて睨みつける。
「説明してくれないか」
狛村が、静かな視線で涅を見下ろした。


***


それは、数日前の昼下がりのことだった。
冬の間締め切っていた隊舎の窓という窓は開けられ、春の風が吹き抜けている。
さわやか、というらしいが、涅には全てにおいて興味がなかった。不意に訪れた、少年の存在以外は。

「なんだネ。私は忙しいのだヨ」
フラスコに液体を注ぎながら、背後の気配に呼びかける。相手が黙ったままなのを怪訝に思い、振り返ったところで動きを止めた。
一瞬のことだが、その少年の銀髪が黒く、翡翠のはずの瞳が赤く光って見えたのだ。
ひとつ瞬きをする間に、その幻影は消えていた。光の加減か? と涅は目を細める。
「……聞きたい事がある」
研究室の開けっ放しにしたドアのそばに立ち、腕を組んだまま壁にもたれかかっている日番谷は、常になく疲れて見えた。


「具象化しようとしている斬魂刀が二体いる。そう言ったのかネ?」
日番谷の説明を聞き終えた涅は、眉をひそめた。
村正により引き起こされた、斬魂刀の具象化。やっと落ち着いたと思った矢先にこれだ。
「お前の斬魂刀といえば、あのうすらでかい青髪の、お前と同じく小憎らしいツラをした男だろう。他にもいるというのかネ?」
人形のように大きな目をぐりんとまわして、涅は不興げに言い捨てる。
具象化した斬魂刀の研究は、もう終わっている。せっかくもとの研究に戻れると思っていたのに、また引き戻されるなど真っ平御免だった。
日番谷の隣を、キーキーと小動物のような声を立てながら、具象化した足殺地蔵が通り過ぎる。
気持ち悪ィ、と呟かれた気がしたが、無視した。

「一つの斬魂刀の中に、二つの人格がある場合。そして、片方が飢えた猛獣みてぇな奴で、表に出ようと暴れてる場合。両立は可能だと思うか?」
その言い方を聞けば、日番谷が答えに辿り着いていることは分かる。
「できないだろうネ。今具現化している『氷輪丸』は、村正に無理やり引きずり出されて弱っている。
そんな時に、凶暴な人格が追い出しにかかれば、食われるだろうネ」
「……やっぱりか」
「ま、主であるお前には、誰が斬魂刀の中にいようが関係あるまい、放っておけ。何を心配しているのだネ?」
「放っておけねぇから、死ぬような決心をしてお前のところに来たんだが?」
「お前の一大決心など知ったことじゃないネ」
互いに同意を求めようとしても、無駄だということを忘れていた。

「……あいつは、やっと居場所を見つけたって言ったんだぞ」
涅には理由はさっぱり分からないが、日番谷は始めに具象化したほうの「氷輪丸」を護りたいのだろう。
そのために、現れた反乱分子たる二体目を排除したい。用件だけは飲み込めた。
「じゃ、その二体目が具象化する前に屈服させればいい。それだけじゃないのかネ」
「できるならとっくにやってる」
日番谷はため息をついた。

「氷輪丸と、そいつは密接にくっついてる。そいつを斬れば、氷輪丸も傷つく。そいつだけを引き剥がす方法はないのか」
「あのネ。魂っていうのは、数字のように足したり引いたりできるものではないのだヨ。
諦めたまえ。どうしても嫌なら、お前が氷輪丸の代わりに食われてやればいいサ。お前の自我は消えるが、氷輪丸は残る」
「馬鹿野郎、それじゃ解決に……」
言いかけた日番谷が、言葉をとめる。
「解決にはならんヨ。どうせ、そんな反乱分子ならお前を食らった後、氷輪丸をも食らおうとするだろう」

ふぅん、と日番谷は口の中で唸った。
何か考えているのは分かったが、その頭のうちは涅には読めぬ。
そのまま唸りながら背中を返した日番谷に、涅は呼びかける。
「ただ、忘れるんじゃないヨ。斬魂刀は、お前の魂から生まれる。どんな反乱分子だろうが、お前の一面であることは間違いないんだヨ」
分かってる、と日番谷は短く返す。見返したその目は、疲れのせいか血走って見えた。
「だから、俺が必ず押さえ込んでみせる」


***


「では……主は結果的に、我の身代わりになったということなのか」
氷輪丸は、気づけば顔を覆っていた。
主に尽くすならいざしらず、逆に庇われるとは。一体どうなっているのだ?
信じられない、と思いながらも、あの主ならやりかねない、という確信がある。
肩に華奢な手が触れ、乱菊が自分の肩に手を置いたのだと分かった。

「あのガキが何を考えているかは知らんが、おそらくお前を具象化させて一旦外へ出し、二体目と対決しようとしたのではないのかネ。
そして敗北し、日番谷の魂は消滅した。難しい予測ではないネ」
言葉もない、とはこのことだった。黙り込んだ氷輪丸に、涅が言葉を継ぐ。
「そんな心配をしている暇があったら、自分の心配をするがいいサ」
「……どういうことですか?」
乱菊が硬質な声で、涅に呼びかける。

「主を食らったんだ。次は間違いなく氷輪丸、お前を食らいにくる。恨むなら、とどめられなかった主を恨むんだネ」
話を黙って聞いていた砕蜂が、ふぅ、と溜め息をつく。
「全て分かった上で戦い、犠牲になったというのなら。どうすることもできぬな」
そして腕を組んだまま、踵を返す。

「でも!」
その時、今まで黙っていた一護が大声を出し、全員が振り返った。でも、と一護は苦しげに言葉を吐き出す。
「でも冬獅郎は、乱菊さんや桃さんを斬ろうとした直前で、刃を止めたんだ! まだ心が残ってる」
「ありえないネ」
涅の答えは短かった。
「なんであれ、それは斬魂刀の意志だヨ。事実なら、なぜ刀を止めたのかまでは分からないがネ」
一護がぐっと言葉に詰まる。
確かにそれが事実だとしても「誰」の意志だったのか、までは分かりようがない。

京楽が、やるせなさそうに呟いた。
「なす術なく、飲み込まれたっていうのかい? らしくないじゃないか……」




どうすればいい。どうすればいいのだ。
散会後、氷輪丸はふらふらと夜道を歩いていた。
どこをどう歩いたものか記憶にないが、気づけば十番隊の近くにまで戻ってきていた。
主の中にいた記憶が、そうさせるのかもしれない。

――  「見つけ次第、捕縛するのじゃ。できなければ……斬れ」
最後にそう言い放った総隊長の言葉が、耳によみがえる。そのときに他の隊長が見せた表情も。
皆、辛いのだ。せっかく、王印をめぐる騒動が落ち着いたというのに。
また総隊長がこのような命令を出さなくてはならないとは。

死神には、あの「日番谷冬獅郎」は、斬れぬ。そんな気がした。
だからといって、他に誰が、戦うことが出来ようか。

思い迷いながら、隊首室の窓へ目をやる。そこには明かりがついていた。
昨日と同じ穏やかな明かりなのに、主一人がいないだけで、そこはもうよそよそしい空間と化している。
氷輪丸は四角に切り取られた窓の向こうに、乱菊の姿を見つけた。

たった一人で、日番谷がそのまま残していった机の上を片付けていたらしかった。
書物をそろえて、束ねる。硯と墨を硯箱にしまう。
その無表情が、見慣れぬ者を見るようで、氷輪丸は声をかけられずにいた。
不意に、あ、と声を漏らしたのだろう、乱菊の口が開く。
机の上から何かが落ちたのだろう。前かがみになり、手を伸ばす。
しかし、伸ばされようとした掌は宙をさまよい、最後には乱菊の目元に当てられた。
―― た・い・ちょ・う。
子供のように歪んだその口が、その言葉の形に動くのを見てしまった。

ひそやかな嗚咽が、隊首室から漏れてくる。
自分が、やらねばならぬ。そんな衝動がこみ上げてきたのは、突然だった。
何のために、主は刀を振るっていた? 仲間を、部下を、護るためではなかったか。
その意志を、自分は誰よりも深く理解している。
それならば、その意志を注ぐのは自分しかいるまい。
氷輪丸はそのまま、あの河川敷へと再び、足を向けた。