「日番谷」は春風に吹かれて土手の上に佇んでいた。
漆黒の隊首羽織が、ふわり、と風に膨らむ。
上ってきたばかりの月が朧な光を周囲に投げかけている。
流れる川の波が、無数の小さな白い三角形に見え、現れては消えてゆく。
背後に闇よりも暗い影が差す。「日番谷」は肩越しに振り返った。
「てめえか」
東の空にある月を背後に、一人の男が立っている。
「斬月!」
凛とした声が響き、天に斬魂刀の切っ先が示された。
「霜天に座せ、氷輪丸」
「日番谷」もほぼ同時に始解する。
「……月を斬るか、『斬月』」
二振りの刃が、月光にきらめいた。
斬月の切っ先を「日番谷」に向け、一護が構える。
「……お前が、冬獅郎を返さないなら」
「できねえと言ったはずだ」
「次は、氷輪丸を狙うつもりか?」
「当然だろ」
氷輪丸の切っ先を一護に向け、「日番谷」がずいと前に出た。
にやり、と笑みを頬に載せている。
「まだまだ、食い足りねぇ。腹が減って、腹が減って仕方ねぇ」
戦いの前触れにしては、長い、長い沈黙が二人の間に落ちた。
「……そうか」
自分に言い聞かせるように、一護は呟いた。そして、自分も前に出る。
「じゃあ、俺はお前を斬る。氷輪丸を体を張って護ろうとした、あいつの願いは叶えてやりてぇ」
本当に、こんな結末しかないのか。もっと希望がある選択肢は?
やるせない気持ちを、一護は押し込めた。
どうすることもできないのなら、「日番谷」と倒すのは自分しかない、そう思っていた。
氷輪丸に、主の姿と瓜二つの「日番谷」を殺させるのは、あまりにも酷だ。
だからといって、死神達にその役目を負わせることもまた、同じくらい残酷な話だ。
あの乱菊が、雛森が、「日番谷」を殺した誰かを、何事もなかったかのように受け入れるだろうか?
そんなことは、不可能だ。
それなら、死神代行として距離がある自分が、憎まれ役を買って出るのが一番マシだと思えた。
―― 「黒崎」
不意に、一護を呼ぶ穏やかな声を思い出す。
少年にしては落ち着いていて、大人にしてはやわらかい、あの独特のアルトの声。
あいつは、ぶっきらぼうで人付き合いが不器用で、でも本当は、誰かの隣が好きなんだ。
そう思えるのは、自分と日番谷が、どこか似ていると思っていたから。
いつか、分かり合えると信じて疑わなかった。
「……死ね、黒崎一護」
異形の少年から放たれた同じ声が、一護の心をうがつ。
「いつか」なんてない。
分かり合える、そう思ったその時に、もっと話せばよかった。
「……卍解」
祈るような気持ちで、一護は力ある言葉を口にする。
同時に、斬月の刀身が漆黒に染まり、闇に溶けてゆく。
―― 「良いのか、一護」
普段は沈黙を守っている斬月が話しかけてきたのは、一護の動揺を見抜いてのことだろう。
「しょうがねえんだ」
死神になったことを初めて後悔しそうだ、と思った。
でも……今戦わなかったところで、それは変わらないだろう。
全身に力を込め、地を蹴る。始解のときよりは何倍も早いスピードで、「日番谷」の懐に飛び込んだ。
刀を振りかざした「日番谷」が、驚いたように目を見開くのを捉える。
斬月と氷輪丸の刀身が打ち合う。ぐんっ、と力を増した斬月に押され、氷輪丸の刃が跳ね飛ばされた。
「日番谷」が飛び退き、河川敷に降りる。その肩口に鮮血が散った。
「容赦なしだな。望むところだ」
ピッ、と頬に飛んだ自分の血を指で払い、「日番谷」が斬魂刀を構える。
「卍……」
言いかけた「日番谷」は、不自然に言葉を切った。
一瞬青白く反応した氷輪丸は、すぐに力を失う。
苛立ちを露に、「日番谷」は怒鳴りつけた。
「てめえ、まだ俺の邪魔をするか!」
ハッ、とその声に、一護は顔を上げた。
「てめえ」と呼んだのは、明らかに一護のことではない。とすれば……
一護は後を追い、河川敷へと飛び降りる。
「やっぱりだ! 冬獅郎だろ? まだ、そこにいるんだろう?」
危険も忘れ、駆け寄る。数メートルまで迫った時、「日番谷」が掌を一護に翳した。
「っ!」
気づけば、掌から放たれた氷の矢が、眼前まで迫っていた。かろうじて一護はそれをかわしたが、こめかみから血が散った。
「冬獅郎っ!」
「やかましい!!」
返したのは裂帛の声。一護は苦しげに頭を抱える「日番谷」を、ただ見返すことしかできなかった。
獣のような唸り声を発し、「日番谷」は斬魂刀を振りかざす。
その叫びに反応するように、河川敷が、土手が、川が、次々と凍りついてゆく。
月が、急速に噴出した雲に隠れてゆく。また昨日のような展開になれば、卍解した一護でさえ危険だ。
シャッ、と刀が鳴る。空に目をやっていた一護は、その動きに気づくのが遅れた。
「どこ見てやがる!」
弾丸のように突っ込んできた「日番谷」の刀を、腹の前で受け止める。
しかし勢いを殺しきれず、一護の体は後方へ吹っ飛ばされた。
「死ね!」
背中が地面に当たり、体がはずむ。体勢を立て直す暇もなく、串刺しにしようと刃を突き立ててきた攻撃をかわす。
本気で殺すつもりだ、としか思えない、殺意を十分に含んだ攻撃だった。
一護は立ち上がりざまに、刃で打ち返す。「日番谷」が大きく下がった隙を突いて、大きく刀を振り上げた。
「天鎖斬月!」
三日月の形にも似た、巨大な輝く刃が打ち出される。
「ケッ、そんな大技、この距離で当たるかよ」
「日番谷」がそう吐き捨て、右へ攻撃をかわした。そして……動きを急に止める。
「くそ……なんで動かねぇんだ!」
慌てた素振りで、自分の体を見下ろした。
その眼前に、一護は姿を現した。
大きく、刃を振り上げ……振り下ろす。
「……なんで、斬らせるんだよ。俺に」
目を見開いた「日番谷」の姿が、にじんだ。