嗚呼。俺は今、猛烈に幸せな気持ちを噛み締めている。
檜佐木は春の新芽が目立ち始めた地面の上に寝転がっていた。アルコールで火照った背中には、地面の冷たさも心地よい。
見上げた視界に黄金色の髪が波打っているのが、ますます檜佐木を幸福にさせた。
華奢な肩の下に、圧倒されるほどに豊かな膨らみがまともに見える。細くくびれた腹に、見とれるほどの曲線を描く腰。
酔いにゆすぶられながら見上げるその視界はあまりにも目に毒で、自制しなければついつい手が伸びてしまいそうだ。
「なによ、修兵」
ふい、と美女が振り向いた。その青色の瞳に檜佐木の心はまるで少年のようにドキリと飛び跳ねる。
「お酒入りすぎちゃったかな」
「檜佐木せんぱーい、もう呑めましぇん」
乱菊の背後から身を乗り出してきた髭面の男(京楽)や、檜佐木の横に正体不明で倒れている男達の残骸(吉良と恋次)のことは、この際忘れることにする。
春は、檜佐木の大好きな季節だ。なぜなら、心に秘めた女(ひと)とこれほどに近づけるチャンスを与えてくれるからだ。
うっとりとしたその時、まるで氷を背中に投げ入れられたような、冷たさに満ちた低い声が落ちた。
「……てめえら。一体何やってんだ、今は勤務時間中だぞ」
酔っ払った振り、酔っ払った振り。檜佐木は恋次や吉良を見習って、気を失ったフリをした。
見なくても分かる、その声の主は十番隊隊長・日番谷冬獅郎に違いなかった。
この隊長、ナリは子供だが、中身は完全に大人だ。
昼間っから酔いつぶれる隊長格を見せつけられ、反面教師にして育った(?)からか、隊長格の中で最も精神的に大人だといってもいい。
今も、この惨状に眉一つ動かさず、醒めた目で見下ろす視線が、目に浮かぶようだった。
「まーまー、カタいこと言いなさんな。春なんだ、花見くらいいいだろ?」
日番谷と対等に話せる人物その一、京楽が酔いも露な声でそう返す。しかし日番谷の声音は一向にあたたまらない。
「花が咲いてねぇ」
それはごもっとも。薄目を開けた檜佐木の視界に、日番谷が肩を怒らせて歩み寄ってくるのが見えた。
手近な桜の枝に腕を伸ばし、指先で引き寄せる。襟元もきっちりと締め、隊首羽織には皺ひとつない、きりりとした立ち姿だ。
蕾に目をやるその視線は、ほんのすこしだけ優しげに見える。
「咲くには、あと一週間くらいはかかるんじゃねえのか」
打って変わって厳しい目。花に向けるその優しさを、少しはヒトにも向けてくれるとありがたい。
「分かってないねぇ日番谷くん。僕の心の目には、咲き零れんばかりの満開の桜が見え……」
「見えんでいい」
にべもなく、日番谷は京楽の無体な一言を切り捨てた。しかし、その小さな肩がガクン、と下に揺れ、檜佐木は思わず目を開けてしまった。
「……放せ松本」
まるで棒読みのように日番谷が言う。日番谷と対等に話せる人物その二、乱菊が袴の裾をつかみ、日番谷を引き止めていた。
「ここに座ってくれるまで放しません♪ 飲みましょうよ、たいちょ♪」
なんてうらやましいんだ。一瞥して檜佐木は思う。頬をぽっと染めた、胸元もあらわな美女が足にしがみつき、しなを作っている。
自分だったらガラスのような自制心はあっさりと砕け散ってしまいそうだが、日番谷は眉一つ動かさない。
「俺は忙しいんだ。誰かさんが冬の間にためまくってた書類を発見したんでな」
絶対零度のその声音が、しゃべっている間にもどんどん冷えていく。乱菊の途端にひきつった顔が「ヤバイ!」と如実に語っている。
「ま、まーまー隊長。書類なんか片付けなくたって死にはしませんって。それより春は短いんです!」
取り繕うようにそういうと、手にしていた徳利を、日番谷に投げてよこす。
ここは、酔っ払って酒に流してもらうしかない、という戦略が透けてみえる。
日番谷は仏頂面のまま、自分の顔に向って飛んできた徳利を片手で受け止めた。
「……どうあっても放さねーのか、てめぇは」
「まぁまぁ日番谷くん、ちょっとくらい休んでいきなよ!!」
おっ、そういう流れになるか。檜佐木は慌てて身を起こし、日番谷の場所を空けた。
確か、誰もまだ手をつけていないあの徳利には酒が零れんばかりに入っていたはずだ。
度数も決して低くないから、あんなものをあの小さな体で一気飲みすればどうなるか、考えるまでもない。
そう思っていたから、日番谷が無造作に口をつけたときには、檜佐木ははらはらした。しかし、
「いっ……?」
その感情は、すぐに驚愕に変わる。まるで水でも飲んでいるかのように喉が嚥下し、徳利の角度が見る見る間に急になってゆく。
と思った時には、日番谷は徳利の口を下にして示して見せた。一滴ポトリと地面に落ちただけで、見事に中は空になっていた。
「……い、いい飲みっぷりだね。しかもいつの間に、そんな強く」
京楽の声を聞き流すと、日番谷はぽんと徳利を投げ捨てた。
乱菊が日番谷にしがみついていた手を離し、慌てて徳利を空中で受け止める。それと同時に日番谷が隊首羽織を翻し、背中を向けた。その足取りには全く乱れがない。
「てめーらみてぇな、サボリ魔と一緒にするんじゃねーよ」
チラリとも振り向かずに言い放たれた捨て台詞。クールだ。
「てめーら」と一括りにされたのは非常に遺憾だが、遠ざかっていく背中に、檜佐木は思わず見惚れた。
「何だっ!?」
その時、一瞬落ちた沈黙を埋めた声の主が誰なのか、とっさに檜佐木には分からなかった。
「日番谷くんっ、虚の気配だ」
機敏に身を起こした姿を見て、それが京楽だということに気づく。
さっきまで見事なくらい酔いつぶれていたのが信じられないほど険しい表情で、日番谷に駆け寄った。
「……ああ。何か来るな」
日番谷は中空を見上げ、背負った斬魂刀の柄に手をかけた。慌てて檜佐木と乱菊も身を起こす。
二人を見習って空を見上げれば、まるで切り傷から血が滲むように、じわり……と青空に黒い線が引かれ、それがじわじわと広がってゆく。
「こんな瀞霊廷の真っ只中にいきなりやってくるとはね。自信があるのか馬鹿なのか」
京楽も刀の柄に手をかけた。親指で鯉口を切ると、白い刃が日光に輝く。
緊張感が一瞬のうちに張り詰め、檜佐木は斬魂刀を引き寄せながらゴクリと唾を飲み込んだ。
「ハッ。馬鹿だってことを思い知らせてやるだけだ」
日番谷がそう言ったとき。布を裂くような音を立てて、黒い線が、まるで愚鈍な巨大魚が口でも開けたかのように広がった。
底知れぬ闇の中から、草履の足が現れ、ガッと境界線を踏みつける。京楽と日番谷は、表情も変えずそれを見守った。
次の瞬間、すさまじいスピードで、そこから一人の男の姿が吐き出された。
「……っ?」
檜佐木が息を飲んだときには、その男は真っ直ぐに日番谷に向かって突っ込んでいた。
「日番谷たい……っ」
乱菊が鋭い声と共に、身を起こす。京楽がよどみない足取りで日番谷の前に出、刀を抜き放とうとした、その刹那。京楽はぴたりと動きを止めた。
「……えっ?」
意表をつかれた声が京楽から漏れる。檜佐木は視線の先に、腕を伸ばした日番谷が、京楽の刀の柄を握りこむのを捉えて目を疑った。
紛れもなく、京楽の動きを止めようとしているようにしか見えなかったからだ。
目を見開いた京楽とぶつかった日番谷の視線が、戸惑ったように一瞬、揺れる。
日番谷が何か言おうと口を開いたとき、突っ込んできたその人影が、日番谷の体に正面からぶつかった……ように見えた。
「冬獅郎! 会いたかったよ!」
冬獅郎? 会いたかった? しかも何、飛びついてんだ? 日番谷の背中に腕を回したその男に、一同はとっさにリアクションを取れず固まった。
満面の笑みを浮かべているのは、黒髪のストレートの髪、菫(すみれ)色の瞳を持つ男。雰囲気的には白哉にも似た、端正な顔立ちである。
檜佐木はとっさに乱菊を見たが、男を見つめた乱菊は、わからない、と首を振る。
死覇装をまとっていることからして死神だということには違いないが、檜佐木も見たことがない顔だった。
―― 「放せ、この野郎!」
この恐れ多い行動に出た男が、日番谷によって氷漬けにされると誰もが予想した……その時。
日番谷は、ぽんと男の肩を叩いて戒めを緩めさせると、一歩後ろに下がってまじまじと見つめた。
「お前、本当に……草冠か? なんで? お前はあの時……」
そこまで途切れ途切れに言うと、言葉を途切れさせる。
それきり次の言葉を継げずにいる日番谷は、今まで檜佐木たちが見たこともない、途方にくれた子供のような表情をしていた。
―― 誰なんだ。
聞きたいが、二人の間にはとても他人が割って入れない空気が流れている。
草冠、と呼ばれた男は、凍りついた日番谷を見下ろすと、屈託なく笑った。
「ああ。まあ理由は気にするな、大人の事情でね」
「お、大人?」
「君は気にしなくていい、ってことだよ」
ぅわ、と乱菊が思わず漏らす。こういう子供扱いが最も日番谷の勘に触ることは、身に染みて知っている。
しかし日番谷は、ちょっと眉間に皺を寄せただけで口をつぐんだ。
草冠はそんな日番谷に頓着することなく、強引とも言える明るさで日番谷を手招いた。
「それより、ちょっと出かけないか? 君に見せたいものがあるんだ」
「バカヤロウ、俺は仕事中だ」
日番谷は思ったとおり眉を顰めて返したが、その言葉にはわずかに面白がるような色も見て取れる。
「冷たいね、久しぶりの再会なのにさ。昔は、たまには授業サボッただろ? 懐かしいな」
くすっ、とついに日番谷が根負けしたように微笑んだ。
「お前は変わらねぇな……」
「君だって変わらないだろ?」
草冠は日番谷から離れると、明るい日差しが差し込む東の方を見やる。
日番谷も同じ方向に目をやった……途端。その姿は同時にその場から掻き消えていた。
「えっ……隊長!?」
乱菊が身を乗り出すが、その声は日番谷には届かなかっただろう。
「う、そ」
驚きと、かすかな嫉妬が入り混じった声音を、檜佐木は複雑な思いで聞いた。
あの仕事熱心で鳴らした日番谷が、部下の目前で仕事から逃亡してしまったのだから。
それに、自分の敬愛する隊長が、誰かの言うことを素直に聞くところを、初めて見たからだろう。
すくなくとも日番谷は自分達の前では、決してあんなふうに無防備には笑わない。
「……授業をサボった、って言ってましたね、さっき。真央霊術院の同期でしょうか」
「霊圧は副官以上はあったよ。無名であるはずがないけど……もしも逃亡者だったりすると、厄介だねぇ。捕縛しないといけないし」
京楽は顎をひねるような動作で首を傾げる。確かに、あの男の霊圧は、抑えているようだったがやたらと強い。
もしかして檜佐木よりも上かもしれない。もしも逃亡者なら捕縛して「蛆の巣」の幽閉……というのが定説だ。
ただ、もしもそれを実行しようとしたら、誰より日番谷が激しく抵抗するのではないか、そんな気がした。
「……京楽隊長」
懸念も露に檜佐木が声をかけると、京楽は微笑んで首を振った。
「二人とも霊圧は隠してない。そう遠くも行ってないし……様子だけ、見てみるかい? 害がなさそうだったらそれでいいよ」