瀞霊廷を出て瞬歩で五分程度の場所に、その桜は咲いていた。
近くには小川が流れ、新芽の明るい緑色が岸辺をびっしり埋め尽くしている。
「懐かしいだろ? ここ、毎年桜が早く咲くんだ。君と見に来たこともあったね」
「……あぁ」
息を吐き出すような返事に、草冠が肩越しに振り返った。
その視界の先で、どすっ、と日番谷が腰を降ろす。
立てた両膝に腕を置き、足の間に頭を落すような体勢でゼーゼー言っている。その耳は真っ赤に染まっていた。

「……まさか、今の瞬歩がキツかったってことないよね」
「そっちじゃねえ。動いたら一気に酒が回った……」
ぷっ、と噴出した草冠に、ちょっとだけ顔を上げた日番谷がバツの悪そうな視線を向ける。
「また意地張って、一気飲みとかしたんじゃないだろうね?」
「……」
「したんだ」
「……」
分が悪そうに押し黙った日番谷を見て、草冠はこらえきれないように笑い出した。

「そんなおかしいかよ?」
「いや、安心したんだよ。お前はやっぱり、俺が知る中でもっとも意地っぱりな男だ」
「なんだよ、それ」
全然ほめてねぇ。不満を言いたげな日番谷の横に、草冠は自分を投げ出すように腰を下ろした。

「そうやって意地張って、隊長にまで昇り詰めたのか? ずっと気を張ってるのは疲れるだろ? たまには力抜きなよ」
日番谷は、空を見上げて心地よさそうに言い放った草冠を見た。
「でも、お前は……」
途中で言いよどむ。死神としての居場所を失い、斬魂刀も奪われた。それでいいのか? 
そんな質問は、奪った張本人である自分が言うには、あまりにもふさわしくなかった。


「全てを失った。そう言いたいのかい?」
しかし草冠は、日番谷が飲み込んだ言葉をサラリと口にした。
「……すまない、俺が」
唇を噛み締め、頭を下げようとする。しかしその顎を草冠の指が止めた。
「何か失ったように見えるか?」
顔を上げた日番谷と、草冠の距離が至近距離で合った。
日番谷は、清清しく澄んだ草冠の横顔を改めて見つめて……ゆっくりと、首を振った。
「なら謝るな。命がある、それ以外の何かを求める必要があるか?」

日番谷は、その問いには無言だった。返事の代わりに、自分よりも一回りも大きい草冠の背中に、自分の背中をもたせ掛けた。
くす、と草冠はそれを見下ろして笑う。
「なぁ、冬獅郎」
「なんだよ?」
「俺と一緒に、どこかへ行ってしまわないか?」
すっ、と青い空の向うを指差す。その指の先を、日番谷はまぶしそうに見やった。
「それも、いいかもな」
わずかに、微笑んだ。酔いが、ゆるゆると全身にまわってゆくが、それに身を任せるのもいい。そう思えた。
ちらほらと散る桜の花弁が、そんな二人を彩った。


「……驚いた。本当に仲がいいんだねぇ」
茂みの奥からそっとやり取りを見守っていた京楽が、思わず声を漏らしていた。
檜佐木も、黙ったまま頷いた。檜佐木の知る限り、日番谷は常に周囲から、精神的にも肉体的にも距離を開けていた。
こんな風に無防備に誰かに凭れかかることがあるなんて、想像もつかなかった。
その時、細い指が肩にかけられ、檜佐木はドキリと振り返る。
そこには、思いがけないほど憂いを帯びた瞳で京楽を見やる、乱菊がいた。

「……ねぇ、もういいでしょ?」
「これ以上見ちゃいられないって? 君の隊長が、どこかへ遠くへ行きたいって認めたから?」
「……イジワルです、京楽隊長」
きゅっ、と唇を噛み締める乱菊の肩に、檜佐木は手を置くことしかできなかった。
上司においていかれる切なさを、檜佐木はよく分かっている。

「日番谷君だって、たまには肩の荷を降ろしたいこともある。逃げ出したいことだってあるだろう。
大丈夫だよ、日番谷君は君を置いていったりしない」
「……分かってます。隊長は、あんな奴とは違う」
あんな奴。それが誰か分かっていても、檜佐木には口にできないのだ。度胸がないと自分でも思う。

「行きましょ。あの男が何者にしても、捕縛する必要ないでしょう?」
乱菊は日番谷と男を見比べ、そう言った。捕縛してしまえばいいでしょう、と言いそうになるが、檜佐木はこらえる。
このまま放っておいて、日番谷があの男とともに行ってしまうわずかな可能性を、乱菊が心配していない訳がない。
それでも、日番谷の安らいだ表情をいとおしそうに見つめている彼女に、それ以上何も声をかけられなかった。

「……ま、知っての通り、僕ってほら、あんまり仕事熱心じゃないから」
京楽は肩をすくめると立ち上がった。だが、急に腹でも痛いかのように顔をしかめる。
「そういえば、ふと思い出したんだけど。さっきあの男が来た時に開いた虚腔、開きっぱなしだったよね」
「……え」
「で今、虚がワラワラ出て来てる気配がするんだけど、あそこに阿散井君と吉良君、置きっぱなしだったよね」
「……」
檜佐木と乱菊はとっさに、視線をあさっての方向に転じた。
見間違えようもない虚の気配がぞくぞくと増えている。

「やば……」
慌てて檜佐木と乱菊も立ち上がる。
「日番谷隊長には……」
「言わなくていいわ。そっとしといてあげましょ」
「……君がそう言うなら」
京楽と檜佐木が顔を見合わせる。そして、瞬歩でその場から姿を消した。


三人が姿を消した、その直後。
「……」
草冠は刺すような視線を、無人の茂みに向けた。
「……どうした?」
「いや……」
眠るように目を閉じている日番谷を見下ろして微笑み、首を振った。