「……日番谷くん。ねぇ、聞いてる?」
声をかけられ、日番谷は顔を上げた。向かいの椅子に腰掛けた雛森がテーブルに肘をつき、首を傾げて見返していた。
「え? あぁ、何だ?」
「ボーッとしちゃって。疲れてるんじゃない?」
微笑んだ雛森の瞳の中に、いたわりの色が見える。
「ちょっと痩せたよね。いっぱい食べないと大きくなれないよ?」
「うっせーよ!」
声をあげると、くすくす、と笑われる。からかわれているのだ、と気づいた日番谷は、仏頂面でコーヒーを口に運んだ。

大体、こんなことをしている暇はないのだ。
一刻も早く雛森を瀞霊廷に連れ帰りたいのに、コーヒーを飲み終わるまで、と雛森にねだられ、何だかんだで席を立てずにいる。
こんなことをしている間にも、膨らんでゆく虚の気配を感じるだけに、気が気ではなかった。


「……あの子が、黒崎一護、かぁ。信頼できそうな感じだったね」
コーヒーカップを両手で挟みながら、雛森が窓の外を見やった。
「そう思うか?」
「うん。日番谷くんはそう思わなかったの?」
「……ンなことねぇ、けど」
眉間に皺を寄せたまま、薫り高い液体を飲み下す。ハッキリ言って、苦い。でも雛森の前で砂糖を入れまくるのは抵抗があった。

「でも、あいつはこれ以上、死神に関わるべきじゃねぇ」
「なんで? 強い力を持ってるんでしょ?」
「それでも。あいつは『人間』だからな」
脳裏に、先日一護と初めて会話した日のことが甦っていた。最後、家族と合流した一護は、ハッとするほど優しい目をしていた。
彼については瀞霊廷でイヤと言うほど噂を聞いていた。
数ヶ月で隊長格に匹敵する力を手に入れた異才だとか、朽木白哉や更木に勝ったとか、力に関するものばかりだった。
でもそんな男でも、現世では普通の人間なんだと、当たり前のことに気づかされた。
これから起きるに違いない死神同士の殺し合いに、巻き込みたくはなかった。

「……やっぱり優しいね、日番谷くん」
「はぁ? 別にそんなんじゃ……」
「でもね、そんな割り切れるものかなぁ?」
「何が?」
「黒崎一護って人は、『死神』だから関係ない、『人間』だから助けるとか、切り分ける人かな?
もしそうだったら、死神の朽木さんを助けにわざわざ瀞霊廷まで来ないよ」
確かに。朽木ルキアが人間だろうが死神だろうが何だろうが、それが「朽木ルキア」だという理由だけであの男は助けようとしたはずだ。
だからこそ黒崎一護には、「引き際」が分からない。
戦いが泥沼にはまり込んでも、死神が劣勢になっても、命を落とすまで戦いから退かない。だから厄介なのだ。


「そうよ」
雛森の声が、低くなる。
「あたしが……藍染隊長が死神じゃなくて虚側についたからって、敵だって割り切れないみたいに。
あの人はあたしにとっては……今でも藍染隊長なの」
がたん、と音を立てて日番谷が立ち上がり、雛森は弾けるように顔を上げた。
「帰るぞ」
雛森の分のコーヒーカップもまとめて持ち、日番谷はテーブルから背を向けた。
「ちょっと、日番谷くん?」
「……だれも、藍染の代わりにはなれねぇのかよ」
苦い。でもこの苦さは、口に残ったコーヒーのせいなんかじゃない。

藍染が憎かった。文字通り、殺してやりたいくらい。
―― でもきっと、殺されるのは俺の方だな。
藍染の前には、今でも雛森が立ちはだかっているのだ。



会計を済ませ、日番谷は先に扉へ向った。人気のない裏手に入って死神化し、すぐに穿界門を開いて帰るつもりだった。
雛森を送り届けたら、すぐにとんぼ帰りして虚を一掃しなければならない。
しかし、扉を開けた瞬間、日番谷は固まった。

「これは……」
宵闇よりも暗い穴が、空の中にいくつも浮かんでいた。虚圏からの入口だ、というのは見た瞬間に分かった。
穴から次から次へと、仮面をつけた異形の連中が湧き出している。
―― ただの虚じゃねぇ……
霊圧が、異常に高い。そして全身に纏わせた殺気が、ただの虚とは思えないほどに強かった。
死に切れない死者が、かつての大切な人間を捜し求める……
そんな本来の虚の姿ではなく、無差別に人間を食らいつくし、滅ぼしたい。そんな悪意が見えるようだった。
隊長として、即刻虚を排除しなければならない。それは間違いなかった。

「日番谷……」
後から続いて出てきた雛森が、その瞬間、短い悲鳴を上げて固まった。
全く虚の気配を感じなかった状況で、いきなりこんな景色を目の当たりにしたのだから無理もない。
「雛森」
身を震わせた雛森の前に、ひらりと黒い着物の袖が翻った。
「日番谷くん……」
死神化した日番谷が、庇うようにその前に立っていた。手にはすでに鞘から引き抜いた「氷輪丸」を携えている。


「一刻の猶予もねぇ。お前は瀞霊廷に帰るんだ、いいな」
振り返った日番谷は、雛森の瞳を覗き込んだ途端、言葉を止める。
「雛森……?」
「虚……っていうことは、藍染隊長が近くに来てるの?」
風が吹きぬけるほどの刹那に、ワンピースが死覇装に切り替わる。
その表情に浮かんだ恍惚に、日番谷は焦りと恐怖が入り混じった不快を感じる。
「雛森! しっかりしろ」
伸ばした手は、ふっ、と宙をすり抜けた。そこには、閉まった店の扉があるばかり。雛森の霊圧を探ると、すでに遠く離れていた。

「バカヤロー……」
ぎりっ、と奥歯を噛み締める。霊圧も感じ取れない状態で、藍染を探し当てられるはずもない。
大体、探し当てたとしても、前と変わらない笑顔で迎えてくれるとでも思っているのか。
―― 「あの人はあたしにとっては……今でも藍染隊長なの」
たった今聞いた雛森の言葉が、頭をよぎる。

「くそっ!」
どんどん遠くなる霊圧を追おうとした時、背後から襲ってきた何者かを、日番谷は直感だけでかわした。
「……こんなトコに死神がいるぞ」
「たった一人だ、食っちまえ」
一体いつの間に、と舌を打ちたくなるほどの虚の群れが、日番谷の眼前に迫っていた。
今戦わなければ人間が襲われ、空座町が大混乱に陥る。


隊長として、空座町に迫りつつある虚を倒すのか。
それとも、隊長の責務をかなぐり捨てても虚に背を向け、雛森を追うのか。
「……!」
ぐっと握りしめた氷輪丸の柄に、自分の血が滲むのが分かった。
「……俺は、隊長だ」
自分に言い聞かせるように、呟く。もう、ただの「日番谷冬獅郎」でいるわけには、いかないのだ。
俯いた日番谷に、奇声を上げて一斉に虚が飛び掛った。しかし次の瞬間、悲鳴とともに弾き返される。
凍りついた全身があっという間に砕け散った。

「すまねーな、イライラしてんだ。手加減してやる気はねぇ」
氷輪丸から放たれた霊圧の強さに、虚たちはバッと離れて距離を取る。やっと、目の前のこの少年が只者でないと分かったらしい。
「後悔させてやるよ。『隊長』に牙を剥いたことを」
顔を上げたその瞳に、冷酷な輝きが宿った。