それより、15分ほど前。
「あーっ、くそっ。虚なんてドコにいんだよ?」
一護は斬魂刀を背負い、電信柱の上に突っ立って周囲を見渡していた。
死神になって数ヶ月目、ようやく着慣れてきた死覇装が、風にはためいている。
何となく、嫌な感じはする。しかし、どこにどれくらいの数の虚がいるのか、など予想もつかない。
気配を感じないのなら、街を見回って現れるのを待つしかない。
―― 冬獅郎の奴が言う気になれば、手っ取り早いのによ……
そこまで考えて、舌を打つ。お前には関係ない、と言い放たれた時のムカムカした気分が、戻ってきそうだった。

にぎやかな話し声に通りを見下ろすと、眼下を家族連れが笑いながら通り過ぎていくのが見えた。
ふと、日番谷が一護の家族を見つめていた時のことを、思い出す。
そこにいたのは、護廷十三隊の隊長でも、天才児でもなかった。
帰る家のない子供が、窓から他人の家の明かりを覗き込むような目だ。そう思った。
それを見て、いてもたってもいられないような気持ちになった。
母親を失ってしばらくの間、町を行く母子をいつまでも見送っていた昔の自分を、思い出すからかもしれない。

そして、ようやく日番谷が取り戻した小さな明かりを見て、本当にほっとしたのだ。
まだ弱いその炎を、掌でなんとか庇い護ろうとしている。
護りとおさせてやりたかった。


「だから。空座町は、俺が護らなくちゃな……」
日番谷が、雛森の傍に少しでもいられるように。そう思って、回りを見回した一護の表情が強張った。
「……来た!」
初めは空のあちこちに、黒い点が見えただけだった。それはあっという間に一本の線になり、広がって漆黒の穴となった。
そこから、次々と虚たちが湧き出してくるのが見えた。

「やるか!」
背中に担いだ斬月を引き抜く。
―― 一護。
その途端に頭に響いた声に、動きを止める。
「オッサン? 斬月のオッサンか」
―― 気をつけろ。強力な死神が近くにいる。巻き添えを食うぞ。
「は? 巻き添え? って、うぉぉ!?」
言いかけた一護が思わず悲鳴を上げる。何気なく見下ろした死覇装の袖が凍り、生き物のように氷が体を這い上がってきたからだ。
「何だコリャ! シッ、シッ!」
とっさに払い落とし、周りを見回すと、虚たちが次々と凍てついていくのが分かる。
空を見上げると、とんでもない速度で雲が広がっていくのが見えた。ポツ、と頬に当たった何かを手にとって見れば、それはなんと雹(ひょう)だった。
「信じられねぇ。もう6月だぞ……」
下を行く人々も、突然の雹に、慌ててビルや建物の下に駆け込んでゆく。


気配、というレベルではない。肌にビリビリと響くような霊圧が、周囲に恐ろしい勢いで広がるのが分かった。
「冬獅郎が、怒ってる……のか」
呟くと、サッと胸の中に嫌な予感が広がった。
雛森に何か起こったのか?
―― うかつに近づくな、一護!
「ンなこと言っても、奴は仲間なんだぞ!」
仲間。斬月に返した言葉を、一護は口の中で反芻する。
初めて会った時は、ルキア以外の死神は敵だった。
でも、冬獅郎に直接会い、話して笑って喧嘩もして、今思うのは別のこと。
「あいつは仲間なんだ」
噛み締めるようにもう一度呟くと、一護は日番谷と別れた場所へと向った。



目を開けているのが辛いほどの、冷気だった。
吐き出した息が、白く立ち上ってゆく。
まとった死覇装から、動くと同時にパキパキと音がした。
「……冬獅郎」
店へ向う坂の途中で見つけた小さな背中は、初め一護が呼びかけても無言のままだった。
その周囲には、何体もの虚の群れが立ち尽くしている。
「……黒崎か。何しに来た」
ゆっくりと、振り返る。その瞳に込められた絶対零度の殺気に、一護はごくりと唾を飲み込んだ。

「てめぇの出番なんかねぇぞ」
向き直ると、波のように霊圧が体にぶつかるのが、分かる。
「全部で何百いるか、わからねぇんだ。お前一人で制圧仕切るのは無理だ」
「何が無理だって?」
一歩、また一歩と日番谷が一護に歩み寄る。
「危ねぇ! 虚が……」
一護が慌てて前に足を踏み出した。全く無警戒に、日番谷が牙を剥いた虚の目の前を通り過ぎようとしたからだ。

「は? 何が」
日番谷は、腹が立つほど冷静に返すと、指先でひょい、と虚の体をつついた。
すると、触れた場所から虚の全身にあっという間にヒビが入ってゆく。
一護が声をあげるよりも先に、その場を吹きぬけた風に、その全身がさらさらと砂のように崩れ落ちた。
そのわずかな衝撃で、他の虚たちも一斉に、同じように崩れてゆく。

「全員……」
「殺した」
それがどうした、と言わんばかりに淡々と答えられ、一護は絶句する。
目の前の少年が「死神」なのだ、という事実を身をもって知らされた気分だった。
日番谷はまっすぐに一護に向かって歩みを進める。一護は無意識のうちに、わずかにのけぞっていた。
下手をすれば自分も凍らせられかねないほどの殺気が一護を圧している。


「ひ……雛森さんは、どうしたんだよ?」
こうなってしまった日番谷を止められるもので思い浮かぶのは、彼女しかいなかった。
しかし日番谷の眉が不穏に顰められたのをとらえ、言ってはいけなかったかと察する。
「瀞霊廷に戻ってないのか?」
「あぁ」
日番谷はわずかに、一護から視線を逸らした。
「藍染を追うって言って、消えちまった」
「……で? お前はここに残って戦ってるのか」
8メートル。6メートル。距離が近づいたとき、いきなり一護が大股で日番谷に歩み寄った。
翡翠の瞳が見開かれるのが一瞬分かったが、かまわず掌を打ち下ろす。
パアン!!
乾いた音がその場に響いた。

「な……」
平手で頬を打たれた日番谷が、わずかに後ろによろめいた。一瞬クラリとしたのは、おそらく思ったより体調がよくないからだろう。
一護はそれを見てとっさに支えようとしたが、伸ばした手を途中でぎゅっと握りしめた。
「……なんで、助けねぇんだよ。大事な人なんだろ!」
「てめえに何が分かる」
ぎり、と唇を噛んだ日番谷が、一護に向き直る。
「俺は隊長だ! この街が虚に襲われるのを放っておけるか!」
「隊長だから、何だってんだ! この街を護るのはお前じゃなくてもできる。でも、雛森さんを護ってやれるのはお前だけだろ、違うか!」
日番谷が握りしめた氷輪丸の柄から鮮血が滴るのを、一護は目の端に捉えた。固く柄を握りしめた指が血にまみれ、かすかに震えている。
雛森が寝込んでいる時、あれほどに心配した表情を見せた日番谷が、今葛藤していないはずはないのだ。
一護は、声を落して続けた。

「お前、どれだけ家族が大事なものなのか教えてくれたろ。俺は家族を護るために、死神になったんだ。お前だってそうじゃねえのか?」
「……」
「隊長とか隊長じゃねえとか、死神とか人間とか言うけどよ。お前ほんとはそんなの気にしてねぇだろ?
俺にそう言えば、身を引くと思ってんだろ? そうやって全部背負い込んで、周りの奴がどれほど心配するか分からねぇのか?」
力が篭った小さな肩を見下ろし、続ける。
「分からねぇなら、お前はまだガキだよ」
俯いたまま言葉を聞いていた日番谷が、不意に顔を上げた。その横顔が見つめる先に雛森がいるのだ、と一護は察する。

しかし日番谷は、すぐに上空に視線を移した。二人が話しているわずかな間にも、虚たちは見る見る間に勢力を取り戻しつつあった。
「ここは俺がやる。行けよ」
一護は日番谷に背を向け、手にした斬月を虚に向けた。
「行け」
肩越しに振り返った一護の瞳と、揺れる翡翠の瞳がぶつかる。
「……バカだな、お前は。自分から戦争に巻き込まれるつもりか」
「当然だろ。俺はもう、部外者じゃねぇ」
「巻き込まれる」というのは、元々当事者じゃない、という意味だ。
でも仲間の裏切りに傷つきながらも、何とか立ち直ろうとあがいている死神達を見て尚、外にい続けることなんてできるわけがない。

日番谷は、そんな一護をまっすぐ見つめると、やがてふぅ、とため息をついた。殺気は、嘘のように消えうせていた。
「この場は任せたぞ」
「えっ?」
自分の言葉にかぶせられた声に、思わず聞き返す。しかし日番谷は次の瞬間、瞬歩でその場から姿を消した。

任せた。
その言葉を噛み締めた一護の頬に、ニヤリと笑みが広がる。
「……当たり前だろ」
ただの一言に力が漲ってくる理由は、それを言ったのが日番谷冬獅郎だからだ。
凍て付いた地面を踏みしめ、一護は虚の群れと対峙した。