化粧台の前で、長い黒髪を梳かした。
リボンを唇に挟み、軽くうつむいて髪を結わえると、お団子に結ぶ。
「眉毛、よし。マスカラ、チーク、口紅、よし!」
ポーチから取り出したチェックリストを見て、声だし確認をする。
「ねーちゃん、眉毛片方ねぇよ」
「頬っぺたの色が右と左で違うのは何でだ?」
あたしが、弟から言われた言葉の数々を思い出す。化粧もしょっちゅう忘れたり、途中で抜けたりしてしまう。
そう、あたしは忘れっぽいのだ。堂々と言うことじゃないけど!
外見とは裏腹に几帳面で、しっかり者の弟。
足して2で割ったら、ちょうどいい感じになるんだろうなと思う。
化粧を確認した後、制服もちゃんとチェックする。
グレイのタイトスカートにジャケット、ピンクのネクタイっていう、ありふれた格好だけど。
それでもあたしは出版社の受付なんだから、適当な格好はできない。
出版社の受付って、それはそれはいろんな人たちが来るんだから。
「桃ちゃん! おはよっ!」
元気な声をかけられて、あたしは笑顔を作って振り返る。
「織姫ちゃん、おはよ」
栗色の髪が明るい、可愛らしい女の子。織姫ちゃんとあたしが仲良くなったのは、
全く同じ日に右の眉毛を描き忘れて、隣同士で受付やってた前科があるから。
何だかお客さんが変な顔したり、後ろ向いてくすくす笑ってるから、何だと思ったら。
あたしと同じくらいおっちょこちょいで、よく笑って、そして……胸があたしの倍はあったりする。
「ねぇ、外のコンビニ行かない? 新発売で、焼肉バナナ味のチョコの広告が出てたの!」
それって、焼きバナナ味の間違いじゃないのかしら。
そう思いながら腕時計を見下ろして、思わず悲鳴を上げる。
「な、なになに?」
「遅刻っ! ごめんあたし行くね!」
全速力で走ってるつもりだけど、ヒールとタイトスカートのせいで走れやしない。
受付のカウンターが見えた時、入り口の自動ドアが開いて、吉良くんが入ってくるのが見えた。
どうしちゃったのか、なんだかいつもより一段とやつれて見える。
あたしと目が合うと、青褪めた顔が少しほころんで、ひょろり、と腕を上げた。
「ひ、雛森君、おはよう。元気……」
「吉良君っ!」
吉良君が言い終わるよりも先に、あたしは思わず叫んでいた。
自動ドアが閉まるよりも先に、一人の男の人が入ってくるのが見えたから。
一目で、まともな人じゃないって分かる。黒いサングラスしてるし。
着てるのは普通のスーツだったけど、下にはシャツも何も着てなくて、腹巻みたいなのを巻いてた。
腹巻に、短刀が差されているのがはっきり見える。
「え……」
振り返った吉良君も、すぐに異変に気づいたらしい。男の人がまっすぐに受付に向かうのを見て、前に出る。
「ちょっと君、一体何を……雛森君、逃げ……」
逃げて、と言おうとしたんだろうなと思う。
「どけやこのガキ!!」
その男の人が、吉良君を突き飛ばす。ほっそりした吉良君の体は、面白いくらい簡単に飛んだ。
「……お客様。どのようなご用件でしょうか」
受付で覚えた敬語で、マニュアル通りに返してみる。男の人は、あたしを見るなり声を荒げて、どすどすと歩み寄ってきた。
「おどれんとこやろ! 嘘八百の記事書きよってからに! ウチがヤクザに見えるか! 訴えるぞこらぁ!」
そういえば……とあたしは思い出す。
社内でも女子に人気が高い檜佐木さんが、射場とか言うヤクザの記事をすっぱ抜いたと噂に聞いた。
刺されないように気をつけろよ、って上司に言われてたっけ。
そう思っている間に、近寄ってきた男の人に、スーツの襟を取られた。
「記事書いた奴ださんかい!」
やっぱり、とあたしは思う。やっぱりここは、いろんなのが来すぎだわ。
もっと時給を上げてもらわなきゃ。
あたしは、ひょいっと男の人のスーツの襟を掴み返す。怪訝そうな顔をしたその人の顔が、驚愕に見開かれる。
ひらり、と男の人の体が宙を舞う……数秒後、あたしはその人の体を地面に叩きつけていた。
「ひ、ひ、雛森くん……?」
床の上で伸びてた吉良君が、伸びたままの格好であたしを見上げてる。
男の人を締め上げながら、あたしはにっこりと笑った。
「あたし、柔道は軽く段あるの♪」
目を回した男の人が担架に乗せられて去っていくのを見送っていたあたしの肩を、誰かがぽんと叩いた。
「ねーちゃん、忘れ物だ」
呆れたような、聞きなれた声。
見上げると、見慣れた弟の顔があった。
雛森 桃