保健室のベッド脇の窓からは、夕焼け空が見えていた。
ガラスを一枚通した外からは、クラブ活動を終えた生徒達が呼び交わす声が聞こえてくる。
この学校のルールでは、教師はどれかのクラブの顧問にならなければならないが、俺だけは免除されていた。
理由は……授業中に倒れてベッドの中、というこの状況で十分だろう。
はあああ、とため息を漏らしたとき、ガラッ! と保健室の扉が開いた。
「浮竹先生! 誰かあたしが留守の間に保健室、来なかった?」
「いや、誰も来てないよ」
「そか。開けるよ?」
「ああ」
ベッドを囲ってあるカーテンがそっと引き開けられ、保健室の先生である越智先生が顔を出す。
手には、何枚かの答案を持っていた。俺の視線に気づいたのか、ぞんざいな手つきで差し出してくる。
「古文の追試! やっといたよ。ついでに丸付けもしといた」
「ありがとう、助かったよ」
越智先生は言葉はきつめだし、仕種だけを見ていると荒っぽいが、中身はとても優しいのだ。
俺は感謝しながら、受け取った答案をぺらぺらとめくる。
「珍しい奴がいたからビックリした。黒崎も追試だったんだな。
あいつ、不真面目なのは髪の色だけだと思ってた」
「んー。でも百点だね。たまには遅刻することもあるさ」
いつもの追試メンバーに混ざって、黒崎君の生真面目な字が混ざっているのがほほえましい。
「追試」と言った時は顔が引きつっていたけれど、この程度のミニテストが成績に響くこともないし。
「ありがとう、楽になったよ。そろそろ家に帰ることにするよ」
ベッドから身を起こすと同時に、ぐらりと前によろめきそうになる。
細いが逞しい越智先生の腕が、俺を支える。ふぅ、とため息をつかれたのが分かった。
「あんたね、そんな顔色して楽になったわけないだろ。家、誰かいんの?」
「京楽を家に呼ぼうと思ってる」
美術の先生の名前を上げると、頭上のため息が大きくなる。
「あんなの呼んだって、看病どころか酔っ払うくらいがオチでしょ! 却下却下」
強引に京楽を切り捨てた後、うーん、と考え込む。
「そだ。あんた、ウチ来る? その状態のあんたを帰すのも忍びないし」
「い、いや! 女性の一人住まいにお邪魔するわけにはいかないよ」
咄嗟に手を振ると、はじけるように豪快な笑い声が降ってきた。
「あんたとあたしの間に、何があるって? それにあたし、一人暮らしじゃないよ」
えっ?
とっさにリアクションに困って、俺は越智先生のどこか面白がっているような顔を見返す。
越智先生は、確か数年前に夫と離婚し、今は一人住まいのはずだ。
実家に帰っているのか、と一瞬思ったが、確か遠方の出身だったはず。
「病人はくだらないこと気にしないで、元気な人間の世話になりゃいいの。行くよ!」
そして俺は、いつもながら強引な越智先生に抗えず、そのままふらふらと後ろをついて行くことになる。
***
越智先生のアパートは、古びて壁は黒っぽくなっているが全体的には清潔なイメージで、
日当たりのいい、公園の隣にあった。
ところどころ赤く錆びた階段を上がり、越智先生はピンポーン、と扉の隣のボタンを押した。
「……鍵、カバンのどっかにあるんだけど、出すのが面倒くさいでしょ」
自分の家なのに? という顔をした俺に気づいたのか、越智先生は肩をすくめる。
はい、と聞こえた声に、俺は心中訝しく思う。男にしては高く、女にしては低い声音だ。
「ンだよ藍染、もう来たのかよ」
ぞんざいに扉が開けられる。ふわりとした銀色が、視界の下のほうに見えた。
「冬獅郎、ただいま!」
「なんで俺に開けさせんだよ!」
わしわし、と頭をなでようとする越智先生の手を、少年はうるさそうに払いのけた。
そして外に一歩踏み出したときに、少年は俺の存在に気づいたようだった。
まぶしそうに見上げてきたその目の色が青く、少し驚く。
「浮竹先生、この子があたしの同居人だよ。冬獅郎っていうんだ。ちっちゃいけど敵に回すと怖い」
「え、えー、と……」
とん、と冬獅郎少年の肩に手を置き、笑顔で見返してきた越智先生に対して、リアクションに困る。
明らかに、カケラも似てない。おまけに、越智先生に子供がいるなんて全く聞いてない。
「アタシの学生時代の友達……ヨーロッパのどっかの出身だけどさ。赤ん坊だったこの子を連れて来てね。
で、忘れて帰っちゃったの。だからあたしが育ててる」
「……」
赤ん坊を「うっかり」忘れて、引き取りに来ない母親がこの世にいるだろうか? いや、いない。
その意味に気づかないはずはない。一瞬俺は気まずそうな顔をしたに違いないが、
冬獅郎少年は全く顔色も変えず、越智先生も平気そうな顔をしている。
平気……なのだろう。当人達が平気な顔をしているのなら。
「学校の同僚?」
冬獅郎少年は、小学生の外見とは思えない大人びた表現をすると、俺を見上げる。
その視線は鋭いが、やっぱりまだ子供のものだ。ああ、と越智先生が頷くと、眉をしかめた。
「オマエな。もうちょっと回りの目を気にしろよ。変な噂立てられたら面倒だろ」
「まーまー、あたしがそんな噂立てられるほど色っぽいと思う?」
「……思わねえけど。俺が言ってんのは一般的な話だよ」
不思議な会話だ、と聞いていて思う。言葉だけ聞けば、まるで兄妹のようにさえ思える。
母子とは違うし、なんとも名づけられない関係だが、ただとても自然に見えた。
部屋の中に入ろうとしていた二人が、戸を開けたまま同時に振り返る。
入れば?
そう語りかける表情が面白いくらい同じで、微笑んでいる自分に気づいた。
浮竹 十四郎