ポケットの中で震えた携帯を取り出し、画面をパカッと開く。
届いたメールは、遊子からだった。
―― 夏梨ちゃん、どこにいるの? 晩ごはんできてるよ?
ごめんもうすぐ戻る、と返事を返して、夜空に瞬き始めた星を見上げた。
犬舎で何か起きないか見張り続けてるけど、犬たちは犬小屋にもどっていて姿も見えない。
探偵もラクじゃないな、ぜんぜん霊障の原因がつかめるような気がしないよ。

遊子には、今回のことは言ってない。絽夏ちゃんと遊子は友達同士だから、絶対にこのことを知れば、自分も行くって遊子は言うだろう。
でも、霊障に呪われた家に、霊感がまったくない遊子が入るのは危ないことかもしれないから、敢えて伝えてなかった。
ま、霊力があったって危険なんだろうけど……一時期は虚にことあるごとに追いまくられていたけど、最近まったくそんなことはなくなったのは、どうしてだろう?
偶然かもしれないけど。前のクリスマスで冬獅郎からもらった、携帯ストラップを使うようになってから、の気がする。

「……冬獅郎」
あいつは、今遠い瀞霊廷にいるんだろうか。
目の前で、携帯のストラップを揺らしてみる。青い革で作られた花に、ガラス細工がはめられたチェーンがゆれる、大人っぽいデザインだ。
ひときわきれいな、緑色のガラス玉が目に留まる。どこかで見たような、透き通るような緑だ。
なんだっただろう。思い出そうとしたとき、
「だから! もう犬は放っておけばいいじゃない! だから、呪われたのよ!」
振り絞るような、悲鳴のような叫びが聞こえて、あたしは反射的に腰を浮かせた。

「ねぇ、どういうこと? お父さんとお母さんは、あの白い子犬たちに何かしたの?」
絽夏ちゃんの泣きそうな声が、それに返す。何人もの足音が、暗い廊下から聞こえてきてた。
何人かは、酔っ払ったような、もたついた足音だ。
「お風呂場で水に沈めて処分したのよ、この人が! 私は保健所に連れて行けばいいって言ったのに! だから、この家がこんな目に遭うのよ」
「お前だってその場にいただろう!」
男の人と、女の人が怒鳴りあう声。
その間に、絽夏ちゃんがあげた短い悲鳴は、両親に違いないこの二人の耳に届いたようには思えなかった。

暗い廊下から、ぬぅっと現れた巨体を、あたしは立ち上がってにらみつけた。現れたのは、180センチくらいありそうな大柄の男の人と、
その隣じゃ子供みたいに見える、小太りの女の人だった。
女の人を、絽夏ちゃんが支えている。
二人とも体が弱ってるせいか前かがみで、髪の毛が伸びて目にかかっている。
顔も、パジャマから見える首元や手首さえ、熱のせいだろうけど真っ赤になっていた。
足元はふらついてるし、膝は小刻みに震えてるし、とても立てるような状態じゃない。

男の人の足は、まっすぐに犬小屋に向かっていた。入り口に、あたしは立ちふさがる。
「……犬に何をする気か知らないけど。寝てたほうがいいよ」
「……なんだ、この子供は。絽夏! ここによその人間を通すなと、あれほど……」
「あたしは、黒崎夏梨。絽夏ちゃんの同級生だよ。何が原因なのか調べに、ここへ来たんだ」
「こんな子供に何が分かる!」
わずかな言い合いで、嫌な奴、と結論づける。あたしに話しかけてるようで、そうじゃない。目もあたしを見ていない。

鎖がいくつも鳴る音がして、あたしは振り返る。
犬小屋で休んでいたはずの犬たちが、一斉に外に出てきたんだ。
暗闇の中で、家の中の光を受けたその目が同時に光って見え、あたしは息を飲んだ。

「どくんだ!」
男の人はあたしを押しのけると、庭に下りる。まっすぐにセシルの犬小屋に向かうのを、あたしはあわてて追いかけた。
そこには、白い子犬の生き残りがいるのに! セシルが応戦するように、牙をむいて犬小屋から出てくるのが見えた。
「何する気だよ! あんた残りの一匹も処分するつもりなのか!」
あたしは間一髪、犬小屋と男の人の間に、身を滑り込ませた。

背中のすぐ後ろで、セシルのうなり声が続いていた。あたしの頬を、冷や汗が流れる。
「……そこをどきなさい。セシルに食いつかれるぞ」
「……イヤ、だ」
ちらり、と後ろを振り返る。
今にも襲い掛からんばかりにあたし達をにらみつけたセシルの顔が、視界に入る。その後ろで目が覚めたのか、きょとんと目を見開く子犬の顔も。

「自分の子供を殺されるんだ。親が怒るのは、当たり前だろ」
ごめんな。あたしは、セシルに向かって、心の中で話しかける。
理解できないのは、子供を守ろうとする親じゃない。
こんな無力でかわいらしい生き物の誕生を、金にならないって理由だけで歓迎しない人間がいることだ。
「あんたもさ、絽夏ちゃんの親なんだろ。なのにどうして、この犬たち気持ちが分からないんだ」

犬たちが、あたし達をにらんでいるのが、分かる。
絽夏ちゃんの両親は、子犬達を5匹とも、風呂場で殺したと言った。
こいつらは、絶対にそれを知っている。そういう目だった。
これほどの怒りがあれば、確かに霊障くらいは、起きて当たり前なのかもしれない。

それなのに。男の人は、犬たちが向ける目にも、気づいていないみたいだった。
「犬たちは、商品だ。白い子犬をいつまでも育てていれば、次の繁殖期が遅れる上エサ代もかかる。
こっちは仕事でやってるんだ、慈善事業のためじゃないんだぞ」
「……あんた」
絶句したあたしを、男の人が押しのけようとしたとき……不意に、「それ」はやってきた。
ぶぅぅぅぅん、と空気が鳴るような、波が近づいてくるような、そんな低い音が聞こえた……と思った次の瞬間、あたし達は同時に悲鳴を上げていた。
風が、頬にぶち当たる。とたんに、地面が揺れだした。
低い音が耳鳴りみたいに大きくなって、とっさに耳をふさぐけど、音は小さくならない。

「やめて!」
絽夏ちゃんと、女の人の声が同時に響く。
目が、開けられない……無理やりに片目をこじ開けると、男の人が隣に倒れているのが見えた。
何かの発作みたいに、歯を食いしばっている。汗が、その全身をぐっしょりとぬらしてた。
「お母さん!」
何かが倒れる音、絽夏ちゃんの叫び声。きっと母親も父親と同じ状態だろう、と想像がつく。
犬たちは……と見回して、あたしは目を疑った。

犬たちは、何も感じていないように立っていた。そしてあろうことか、同じ方角を見て、うれしそうに尻尾を振っていたんだ。
一体、何がいるんだ。
そう思って何とか顔をあげる。犬小屋の向こうの方角……目を凝らしてみたけれど、そこには何もなかった。


***


二人の症状が落ち着いたころには、夜の八時を回っていた。
遊子に今から戻るごめん、とメールを打った後、あたしは犬舎の入り口に立って、全体を見回した。
家の中からの光にぼんやりと照らされているけど、犬たちがどうしているのかまでは見えない。

一兄には犯人探しは中断すると返しちゃったけど、察しはもうついてるんだ。
「絽夏ちゃんの両親を、霊障で苦しめてんのは、お前たちなんだな」
もちろん、それに返す返事はないけれど。
ここに来てやっと、冬獅郎が原因を突き止めるのには時間がかかるし、解決は不可能に近いって言った理由が分かった。
原因が犬だって、どうやって証明するっていうんだ?
仮に犬だと証明できたとして、どうやって霊障をやめさせたらいいのか、見当もつかなかった。

ううぅん、とあたしは思わず、唸る。冬獅郎のことを、気づけば考えてた。
あいつは、どれほど霊障をやめさせるのが難しいか知った上で、あたしをここによこした。
それはきっと、解決するしないの問題以前に、あたしに何かできることがあると思ったからだ。
「……生き残った一匹は、あたしが護るから。
殺されちゃった五匹もきっと見つけ出して、ちゃんとお墓を作って弔ってやるから」
犬たちの恨みが、こんなことで収まることはないかもしれないけど。
それはきっと今、あたしにしかできないことに思えた。