ごとんと音を立て、牛乳が満たされた缶を持ち上げる。
「なんだい冬獅郎、帰るのかい」
玄関への戸口を開けて、顔をのぞかせたばあちゃんの顔を見て、後ろめたくなる。
「泊まって行けばいいのに、お前はいつも帰ってしまうねぇ」
「ごめんな。仕事が忙しいんだ」
「いつもそう言うんだから」
そう言うばあちゃんは、微笑みながらもやっぱり、さびしそうに見えた。後ろめたさが増すが、俺はこの家にはもう泊まらないと決めていた。

草履の紐を、上がり口に腰掛けて結んでいると、後ろから近づいてくるばあちゃんの足音が聞こえた。
「何」
振り返るよりも先に、しわだらけの手でぽん、と頭を撫でられた。
「もう誰にも、いじめられたりしてないだろうね」
いじめられる、という響きに、俺は苦笑した。
「瀞霊廷で、俺をいじめられる奴なんていねぇよ。いつの話してんだ」
「だったら、いいけれど。乱菊ちゃんも、桃もあっちにはいるんだし」
「あのなぁ。あいつらに庇われるほど、俺はガキじゃねぇぞ」
思わず振り返って文句を言って、ふと気づいた。
この間の、涅の発言に松本と雛森が怒ったことを考えると、まったく当てはまらないともいえない構図だ。

俺が立ち上がると、ばあちゃんも身を起こす。
向かい合って立つと、もう俺のほうが背丈は上だ。
「辛い目にあわされたら言うんだよ。ばあちゃんが仕返してやるからね」
あの涅をばあちゃんがひっぱたいている図を想像して、俺は思わず噴出す。
「心配すんなって、うまくやってくから。じゃ、またな」
微笑みを返したその顔は、これ以上老化するはずがないのに、ちょっと小さくなって見えた。


***


「ああ。ちょうど良かった、日番谷隊長」
隊首室に戻ってきたとたん、俺は牛乳が入った缶を取り落としそうになった。
外から窓に首を突っ込んだ体勢の狛村が、そのまま窓枠にはまり込んで動けなくなってたからだ。
「子犬の様子をみようと身を乗り出しすぎて、抜けなくなってな。手伝ってくれぬか」
「って、呑気に言ってる場合かよ」
俺は缶を床に置き、あわてて駆け寄った。
狛村が心配……というよりも、こんな場面を他の隊士に見られたら、隊長としての沽券にかかわる。
窓の下に集まっていた子犬たちが、牛乳のにおいに鼻を動かしている。
その向こうのソファーの向こうに、栗色の髪が見えた。どうやら、子犬の相手をしているうちに城崎は眠ってしまったらしい。

十分後、顔を掴んで押したり引いたり格闘した挙句、俺は窓枠を凍らせて滑りを良くし、顔を力づくで引っこ抜くことに成功していた。
「すまぬ。助かったが、日番谷隊長」
「この上、なんだよ!」
「子犬が、今まさに牛乳の入った缶を床に倒そうとしているぞ」
「なんで、それを黙って見てんだよ!」
俺は慌てて振り返り、狛村の言葉通りの状況を確認し、とっさに床と缶を凍りつかせた。
「滑りを良くしたり接合したり、本当に便利な能力だな」
「それはいいが……あんた、ちゃんと外から普通に入ってきてくれ」
「了解した」


それから、三十分後。
子犬たちは、腹いっぱい牛乳を飲んで、丸くなって眠っている。
ミイラ取りがミイラ、かよ。埋もれるようにして一緒に寝ている城崎の呑気な顔を見て、俺は苦笑した。
俺は一通り狛村に、起こった経緯を説明したところだった。

「……そのようなことがあったのか。世間とは狭いものだ」
「まったくだな」
俺はため息混じりに頷いた。この部屋に狛村が座れるようなサイズの椅子はなく、床の上に胡坐をかいている。
あの口で、この湯飲みを出していいのだろうかと悩んだが、犬用の皿で茶を出すわけにもいかず、普通の湯飲みを出してみた。
器用に茶を啜っている上、猫舌でもないらしいことに妙に感心した。

「で、黒崎一護の妹に任せておいて、問題ないのか」
「ああ」
俺はズッと茶をすすりながら、頷く。
「一番隊に報告書は出しておいた。黒崎が……兄貴の方だが、あいつがついてるなら問題ないと。
結局どこの隊も、霊障なんぞに回す人材はいねぇってことだ」
「勝算は?」
「無理だろうな。折を見て様子を見に行ってくるさ」
「随分、入れ込むのだな。黒崎一護の妹に」
「……入れ込んでるように見えるか?」
「まあ、お主とその娘が好きあっているのは周知の事実だが、ほどほどにせぬと……ぬ、どうした日番谷隊長」
どうしたもこうしたもねぇ。気管に茶が思い切り入った。
咳き込みながら、俺は狛村に噛み付く。
「周知の事実ってなんだ! そんな事実はねぇぞ!」
「違うのか。京楽が吹聴しておったぞ」
狛村に告げられ、俺は京楽……と口の中で呟いた。
憎しみで人が殺せたら。と本当に思ったぞ、一瞬。

「狼面には人の心はわからぬ、ということはないぞ。日番谷隊長」
涼しげにそう言われ、俺は慌てて首を振った。
「そ、そういう意味じゃねぇ。でも……」
「例の娘が瀞霊廷に来た時、お主がどれほど必死で庇おうとしたかは、語り草になっておるぞ。
気にかけていない、と今更言った所で、不器用な男だ、と思われるのが落ちだ」
あんたにだけは、不器用な男だなんて言われたくない。
そう思ったが、この話題をこれ以上続けるのは、分が悪い気がした。
朴訥なまでに、直球で言ってくるだけにタチが悪い。

俺はしばらくして、ため息をついて続けた。
「……夏梨は、大した奴だよ。俺が死神だと知ってても、態度を変えやしねぇ。
俺にはできて、あいつにはできねぇことはたくさんあるが、その逆もある」
「もちろんだ。お主は死神。その子供は人間だからな」
俺は頷いた。その瞬間に、ズキンと心が痛んだのは、否めない。
「その間を、越えたいとは思わぬのか?」
「それはできない」
俺は一息でそう答えた。そのことは、ことに最近、頭をよぎることはあるんだ。
でもその瞬間心に浮かぶのはいつだって、「恐怖」だった。


落ちた沈黙を埋めるように、ドアがノックされたのは、その時だった。
「十三番隊、車谷と申します。日番谷隊長はおられますでしょうか」
「……何事だ? 入れ」
一瞬空白が開いたのは、いきなり来訪を受ける理由が思い当たらなかったからだ。
しかし車谷が、空座町の担当をしていることは、朽木ルキアから聞いたことがあった。
何かあったのか。イヤな予感が頭をよぎる。

戸を開けた車谷は、その場に両膝をつき、顔を上げる。
「突然申し訳ありません。死神代行……黒崎一護から、伝言を預かっています」
「黒崎が?」
「はぁ……そのまま申し上げます。『お前にしかできないことがある。知念家に来てくれ』と」
「俺にしかできない?」
「はっ、はい! 失礼千万な言葉遣い、この私から厳重注意を……」
車谷の続けた言葉を、俺は聞いていなかった。
タイミング的に、あの霊障にかかわることだとは予想がつくが……
俺が行っても、何にもならないような気がする。黒崎の考えが、まったく読めなかった。

首をひねりながら、立ち上がる。
理由は分からない。しかし、黒崎は意味がないことは言ってこない。
それなら、ここで考え込んでいるよりも出向いたほうが早い。
「今から行くのか?」
立ち上がった俺よりまだ、狛村のほうが視線が高い。俺がうなずくと、巨体を揺らして立ち上がった。
「儂も付き合おう」
「は? たかが霊障に、隊長が二人も出向くなんて聞いたことねぇぞ」
「少々、嫌な予感がするのでな」
野生の勘、という奴なのかもしれない。
短い言葉からは何も読み取れなかったが、断っても無駄だということだけは分かった。
俺は反対するのを諦め、先に立って歩き出した。